2 / 15

第2話

  僕が矢立箱(やたてばこ)に矢を入れていると、風吹が僕のすぐ後ろに来た。僕は自分の矢を見て、羽根がボロくなってきちゃったなぁ、と思っていた。すると風吹が「夜行くから」と低く伝えてくる。  言われて、僕の身体はズクンと疼いた。カッと頬が熱くなり、下腹部にしびれが走る。 「……顔色、良くなったな」  僕の耳元で囁くように風吹が言う。そして指でそっと僕の頬を撫でた。  思わず息が乱れそうになって、僕は下唇を噛み締めた。風吹の手の感触を知っている僕の身体は、自動的に反応して期待してしまっている。  赤くなってしまった自分の顔を見られたくなくて、僕は下を向いて顔をそむけた。そしてちょっとヤケクソ気味で風吹に向かって言った。 「飲み会、出れば良かったんじゃない? せっかく可愛い女子も来るのにさ」  言ってしまってから、あ、なんかヤな言い方しちゃったな、と思った。僕、すごく嫌な奴だ。風吹はさっきちゃんと断ってたのに。 「行かねーよ。お前といる方がいいし」  風吹は何でもない感じで言った。僕は自己嫌悪でいっぱいになりながら顔を上げて風吹を見た。腕を組んで、ちょっと不機嫌そうに目をすがめて僕を見下ろしている。 「……ごめん」  謝ったら、片方の口端だけ上げて風吹は笑った。許してもらえたみたいでホッとする。そこで風吹の道着の前側がブブッと震えた。  風吹はいつも道着のお腹の辺りに携帯を入れている。取り出して画面を確認してから「あ、俺もう行くわ」と言った。 「バイトの時間早まった。夕方から入る予定のおっちゃんがチャリで転んだらしい」 「えっ。それは大変」  風吹はガススタでバイトをしている。時々自宅近くにあるバイクの整備工場の仕事も手伝っていた。大学に入学してから周りはバイトをする学生が増えてきた。僕は体調に不安があって、アルバイトになかなか踏み出せないでいる。  風吹と僕は道着から普段着に着替えた。道場の外は更に陽射しが強くなっている。気温も三十度を超えていそうだった。 「じゃあな、桜。気をつけて帰れよ」  ポン、と僕の頭を軽く叩いてから、風吹はバイトへ出るため走って行った。僕は入学したばかりで、まだどこか馴染の薄い校内を一人で歩いた。自転車置き場は正門の近くにあって、道場から歩くとそこそこの距離がある。  どこの学校の弓道部もそうだと思うが、道場は校内の端っこにしか建てられない。打った矢がとんでもない方向へ飛んで人に怪我をさせたりしたら大事だからという理由だろう。  僕と風吹が通う地方の国立大学も例外ではなく、正門から奥の奥、部員以外誰も近寄らないような場所に道場はあった。  熱中症にならないように時々水分補給しながら歩き、正門横の自転車置き場に着いた。強まる陽射しの中自転車で駅まで向かい、僕は電車で片道二十分かかる帰路へつく。    地元の駅から家へと歩いて帰る間、僕は風吹と自分の関係について改めて考えてみた。風吹とは幼馴染。それは周知の事実だ。でも僕達の間にはちょっと普通の友人同士にはない秘密がある。  事の始まりは僕が十四歳の時に起こった。その日の朝、目覚めた僕は世界が爆発したと思った。ついに富士山が噴火したとも思ったし、隕石が地球に衝突したのかとも思った。  ベッドの上でどうにか上半身を起こすと、まだ登ったばかりの太陽の陽ざしが柔らかく部屋を明るくしているのが分かった。スズメも平和にさえずっている。どうやら世界は無事らしい事を知った。  問題は僕自身だ。身体が内側からひっくり返されたような感覚。何かがいつもと違う。変なのは脚の間だった。そっとパジャマと下着を持ち上げて覗いて見ると、ベチョッとしたものがパンツの内側についていた。  今でこそ、それが男子の第二次性徴期に起こる精通だと知っている。ただその当時、間抜けなことに僕はそれが何だか分からなかった。  僕は生まれた時に未熟児で、内臓系が全般に弱く特に心臓が悪かった。入退院を繰り返しどうにか成長してきたけど、免疫力が極端に弱い身体になった。広義での膠原病らしい。  双子の片割れの菫は小さかったが二千五百グラムを超えて生まれて、元気に育っていた。菫は生前、あたしが桜の栄養をお母さんのお腹の中で吸い取っちゃったのかもしれない、とよく言っていた。  僕はずっと自分の身体と上手く付き合うのに忙しく、学校の勉強も進学に重視される五教科を中心に取り組んできた。保健体育の内容はザッとしか知らなかったのが良くなかった。パンツの中の液体を見た時、本気でチンコの病気だと思ってしまった。  母はひとり親の上、僕の身体が弱いせいで正規の仕事にもつけずにいた。中学生になって少し僕の体調が落ち着いたので、フルに近い非正規の仕事を始めたばかりで忙しそうだった。  大体母に向かって男性の性器のことを訊くのも恥ずかしいし、とても言い出せない。スマホも持たせてもらえなかった僕は、ネットから情報を得る事も出来なかった。  日々、悶々として過ごした。夢精は僕の意思とは関係なく起こってしまう。汚したパンツを洗濯に出す事も出来なくて、自分で洗って乾かした。母から変に思われない様に洗濯には使っていない下着を出して胡麻化した。  そんな折「新しいゲームを買ったから一緒にやろうぜ」と風吹から言われた。今思うとグジグジ悩んでいて暗かった僕を心配して、声を掛けたのかもしれない。  僕はもともと根暗な陰キャで、どうでもいいような事にいつまでも悩むタイプだ。風吹がなんで僕と友達でいてくれるのか、不思議なくらいだった。

ともだちにシェアしよう!