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19歳の春のこと

 その後すぐに男は、こちらが心配になるくらい頻繁に美己男(みきお)を指名するようになり、時間も延長に延長を重ねるようになった。 「お兄さん、こんなに俺と会ってて大大丈夫?会いに来てくれるのは嬉しいんだけどさ」 「ほんと?じゃあさ、今度はお店の外で会おうよ」 「え?いや、あの」 「そろそろいいよね。コウ君と愛し合うようになってもう三か月もたつんだし」  美己男は男の嬉しそうな顔を見てゾッと鳥肌を立てた。 「あ、えっと・・、それはちょっと・・」   これ、ヤバいかも 「あー、でも結構忙しくてあんま時間取れないかもー」 「コウ君、働き過ぎだよ。ずっと事務所にいるんでしょ?ひどいよなあ、京谷(きょうたに)笠木(かさぎ)って奴もコウ君のこと全然大事にしてなくてほんとムカつく。がツンと言ってやったほうがいいかな」     こいつ、ちょっとおかしい・・  気を付けていたつもりなのに、もうすっかり男は美己男を自分のものだと思っている様子だ。 「京谷さんと笠木さんのことよく知ってるの?」 「うん、ジュン君からも話聞いてるからさー、前から鬱陶しいなって」 「え?ジュン?お兄さん、ジュンのお客さんでもあるの?」 「あ、違うよ、違う違う」  男がしまった、という顔をする。 「ジュン君はお友達。ほんとだよ?」   もしかして初めからジュンが・・? 「ねえ、もしかして俺のこと、ジュンからの紹介?」  男が黙り込む。 「お兄さん、最初はジュンのお客さんだったんだ?」  美己男は強めに尋ねた。 「一回だけだよっ、だってその時はコウ君のこと知らなかったから。コウ君に会ってからはコウ君一筋っ」   じゃあ、他の新規のお客さんも全部・・?  とにかく今はここから逃げなくちゃ、と美己男はベッドから抜け出し素早く服を着た。 「コウ君っ、待って、怒らないで」 「怒ってないよ。でも、今日は帰るね。隠し事とか気分悪い」 「ダメだよっ、行かせないっ」  強い力で抱き締められ、揉み合った。 「やめて。乱暴されたら、セキュリティ呼ばなきゃなんないっ。そんなことさせないで」  男が怯んで力を緩めた隙に美己男は素早く逃げ出し、ホテルの部屋を飛び出した。  何度も後ろを振り返りながらタクシーを拾い、急いで事務所まで帰る。 「笠木さんっ」 「どうした、あの客か?」  美己男の様子を見て、笠木の顔が急に厳しくなった。 「ごめん、やっぱアイツ、ヤバい奴だった」 「わかった。とりあえず予約取り消すから待ってろ」  事務所のシャワーを浴び、今日のことを笠木に報告した。 「やっぱ拗らせてきたな。悪かった、コウ。もっと早くに切っときゃ良かった。京谷さんに報告して出禁にしてもらう。それにしてもジュンのやつ、やってくれたな・・」  笠木が呟く。 「笠木さん、ジュンのことはあんま厳しくしないで。俺が甘かったせいだから」 「はあ?お前なあ、被害受けといて何言ってんの。厳しい処分しねえと」 「そんなことしないでよ、笠木さん。ジュンだってそれなりに売り上げてるんでしょ?ジュンなりに必死なのかも」 「んなこと分かってる。お前が口出すな」  笠木に厳しく言われて美己男はビクリとした。 「あ、ごめんなさい」 「ん。コウはしばらく待機だな。危ないからなるべく外出も一人でするなよ」  そう言うと笠木は慌ただしく電話をかけに行った。  男はその後、事務所にまで現れる暴走っぷりで、美己男は待機部屋に一ヶ月近くもほぼ軟禁状態となってしまった。  ジュンのことに関しては会うことができず、なぜそんなことをしたのかもわからないままだ。  何もできないまま、事務所に引きこもっている間に外の空気はすっかり春になっていた。 先週、笠木にしばらく別の店舗に移ることを提案され、受けようかどうしようか美己男は迷った。 「このまま金稼げなくなるのも困るしなあ。行っちゃおうかな」  ここでビクビクしながら閉じこもっているよりマシかもしれない。   早く金返して(かん)ちゃんに会いに行きたい   何にも言わずにいなくなっちゃったから寛ちゃん、心配してるだろうな   いや、怒ってるかな   それとも、もう忘れたちゃったかも  寛太朗(かんたろう)と最後に過ごした時間は今もはっきりと美己男の体と心に深く刻んである。  好きだと何度も言ってくれた寛太朗の小ぶりな唇が恋しい。  もっと強くならないと、と美己男はゴロゴロとしていたソファから立ち上がった。 「笠木さん、ちょっと外出てきていい?」 「あ、ちょっと待て。誰かと一緒に・・」  仕事をしていた笠木が顔を上げた。 「いいよ。なんか、俺ばっか怖がってんの、腹立ってきたし」 「っつってもお前」 「大丈夫。俺、逃げるの上手いし、すぐ帰ってきます」  笠木はしばらく美己男の顔を見ていたが諦めたように頷いた。 「わかった。気をつけてな」 「ありがとうございます」  ニコ、と笑顔を向けて一ヵ月ぶりに建物の外に出た。  5月の連休で街の中心地は観光客でずいぶんと賑わっている。  それでもチラホラとスーツ姿のサラリーマンが混じっていて、ビクリとするが久しぶりに通りを歩いているうちにそれもすっかり気にならなくなった。  春の空気と人の賑わいが楽しくて思っていたより遠くまで来てしまった。   そろそろ帰らなくちゃ、笠木さんに心配かけちゃうな  美己男は近道をしようと裏通りへと入った。  この辺りは入り組んでいるが、道が分かっていれば突っ切って事務所までのショートカットができる。  途中で笠木に差し入れのコロッケでも買って帰ろう、そう思いながら早足で通り抜けようとした通りの暗がりに男が立っていた。  美己男の足が竦む。   しまった、アイツだ・・  すっかり油断していた自分のバカさ加減に嫌になる。  振り返って逃げようとしたがパニックになって一瞬逃げるのが遅れた。  男に後ろから抱き着かれて、恐怖に体が硬直してしまう。 「コウ君っ、すごく会いたかったよ。なんで逃げるの?」  ねっとりとした声が背中から聞こえてくる。 「コウ君、ひどいよ。俺を無視してさあ。連絡してくれないし、全然会ってくんないじゃんっ。そんなに嫌だった?俺がジュン君と会ってたこと」 「いや、そうじゃなくてっ」  男の手がシャツの中に入ってきて吐き気がする。 「やだっ。離せっ」  高校の時に高良田(たからだ)に襲われそうになった時の感触が蘇ってきて、男の手から逃れようともがいたその時 「美己男っ」 と名前を呼ばれたような気がして、ハッとした。男も動きを止める。   なに?今の声? 「寛ちゃん?」  声のする方を見るが灯りが逆光になって黒い影しか見えない。 「みー?」  その呼び方が耳に届いた瞬間、美己男は走り出していた。 「寛ちゃんっ!」  飛びついた体から寛太朗の胸の鼓動が伝わって来る。美己男はその体にしがみついた。   寛ちゃんが迎えに来てくれたっ 「ちょっと待てっ。コウ君は僕のっ」 と男の声がして美己男は振り返った。   寛ちゃんに絡んで来る前に追い払わなきゃ  だが寛太朗の方が先に前に出た。  自分の体を盾に美己男を後ろに押し込めると携帯で男の顔を撮影し始める。 「さっき、こいつが嫌だってはっきり言ってたのこっちまで聞こえてたんで。はは、こんなことするのに真面目に社章はつけてるんですね。どこのだろ?すみません、不勉強で今すぐにはわかんないな」  スラスラと冷静に指摘する寛太朗に男は狼狽えて 「なんだよ、調子乗んなよっ」 とドタドタと逃げて行った。  あまりの鮮やかさに美己男はぼおっと寛太朗の背中を見つめた。 「寛ちゃん?ほんとに寛ちゃん?嘘でしょ、会いたかったよぅ」  嬉しさのあまりまた抱き着いてしまう。だが 「それ、こっちの台詞だよ。お前がいなくなったんだろうがっ。どんだけ心配したと思ってんだ」 と怒鳴られビクリと体を離した。   あ・・、やっぱり怒ってる?  寛太朗は疲れ切った表情でうつむいた。  とにかくこの路地を抜け出したい、と言う寛太朗の手を引いて大通りまで歩く。 「寛ちゃん?」 と声をかけるが、ぼんやりとしてまるで美己男との再会を喜んでいるようには見ない。  目を合わさぬまま寛太朗は舌打ちをすると 「じゃあ、俺、行くわ」  そう言ってフイ、と立ち去ろうとする。  美己男は咄嗟に寛太朗の手首を掴んで歩き出した。   なんだよっ、なんでっ   俺、こんなに嬉しいのにっ  寛太朗の態度があまりにも冷たくて今にも涙が零れそうだ。 「ちょっとっ、みー。待てって。どこ行く気だよっ」  寛太朗のイラついた声にこっちもなんだか腹が立ってきて、美己男は寛太朗の手首を掴んだままグイグイと歩き続けた。 「みー、手、離せよ」 「やだ」 「痛いって」 「あ、ごめん」  美己男はハッとして手首を離した。それでも寛太朗を離したくなくて慌てて手を繋ぐ。 「どこ行くんだよ」 「えっと、どっか2人きりになれるとこ」   寛ちゃんとこのまま離れちゃダメだ  美己男は焦りながらとにかく目の前にあったラブホテルに寛太朗を連れ込んだ。  話さなくていけないことや、言わなくてはいけないことが山盛りある。   えっと、まずは何にも言わずに夜逃げしたことを謝って   いや、その前に助けてくれたお礼?  気持ちが高まり過ぎて言葉が出てこないのに 「なぁ、お前、俺とこんなとこ来て大丈夫?お店・・?とかに連絡する?」 と言われて頭の中がぐちゃぐちゃになった。 「やめてっ、寛ちゃん。やだっ。俺のこと、嫌いになって欲しくないっ」   どうしようっ   寛ちゃん、やっぱ風俗で働いてることも怒ってるっ  美己男は必死で寛太朗が手にした携帯に飛びついた。 「はぁ?何言ってんの?お前がっ、お前が先に俺を捨てたんだろうがっ」  寛太朗はいきなり大声で怒鳴ると美己男を突き飛ばした。  勢い余ってベッドに仰向けに倒れ込んだ美己男の上にのしかかるとシャツの胸元を強く握りしめる。 「お前がっ、お前が俺を捨てたんじゃんかっ」   え?は?なんて?  ってか、寛ちゃん泣いてる・・  一瞬、真っ黒になった寛太朗の(ひとみ)が大きくうねり、海が溢れるように次々と涙が流れ落ちる。  泣きながら寛太朗は今まで聞いたことのないほどの感情的な言葉をぶつけてきた。   寛ちゃん、ずっと俺に捨てられたって思って・・ 「俺だって、寛ちゃん守りたかった。大好きだもん。会えなくなっても寛ちゃん、守りたかったんだよっ。寛ちゃんを捨てたわけじゃないっ」 「そんなん、勝手すぎる。第一、会えなくなったら守るも何もないだろうがっ。もう死んでんじゃねーかって・・、二度と会えないかもって・・」 「そっ、それはそうかもだけど・・」     ああ、俺、ほんとバカだ   守るどころかこんなになるまで寛ちゃんのことほったらかして 「寛ちゃんが泣くの初めて見た。好きな人が泣くの見るのって、こんなに辛いなんて知らなかったから、ごめんね」  他にできることがなくて、体を震わせて泣く寛太朗を必死で抱き寄せていたがやがてスウスウと小さく寝息が聞こえてきた。 「寝ちゃった・・」  寛太朗を起こさないようにそっと携帯を取り、笠木にとりあえずの状況を知らせ、ゆっくりと上下にうごく寛太朗の背中に手を当て、ゴツゴツとした背骨をそっと撫でた。  2時間ほど眠った寛太朗は明日の講義があるからどうしても帰ると言って、立ち上がった。  美己男も一緒に部屋を出ることにして、ドアノブに手をかけたが開ける勇気がない。   このまま、また離れちゃダメだ   なんにも言えてない  美己男は振り向いて寛太朗を強く抱きしめた。 「俺のこと、軽蔑した?」 「はぁ?軽蔑?なんで。してねーよ」 「俺がデリヘルやってんの気づいてるんでしょ?だって久しぶりに会ったのに寛ちゃん、今日、ずっと変だもんっ」 「変って、そりゃ、そうだろっ。いきなりいなくなって、1年半ぶりに会ったら何か、お前、急になんて言うか・・」     怒ってる?   「俺が何?汚くなってた?寛ちゃん、全然嬉しくなさそうだし、目も合わせてくんなくて。舌打ちとか、手、振り払ったりとか・・。もう触られたくない?もう俺とはいたくない?」 「そうじゃなくて、お前が急に大人になってて。もう俺の知ってる、みーじゃなくて、大人の男みたいだったからっ」  そう言って寛太朗は恥ずかし気に長い睫毛で瞬きした。   あ・・、この顔・・   俺の全てを受け入れる顔 「いつも泣くのはみーだったのに、今日、俺、すげー泣いちゃって、お前に抱きしめられて安心して寝ちゃうし。頭撫でるのとか俺の役目なのに、そんなことされたら恥ずかしくてどうしていいか、わかんないだろっ」  美己男は寛太朗のその小ぶりな唇に吸い付いた。深く舌を差し込みそのまま床に押し倒す。 「あ、みー。待って」 「やだ」     俺の、俺だけの寛ちゃん 「寛ちゃん、しよ」  寛太朗のズボンと下着をはぎ取ると、もうモノが勃ちあがっている。美己男もズボンと下着を脱いだ。 「待って、待ってっ。みー、俺、久しぶりでっ。やだよっ」  寛太朗の眉の上のほくろが乱れた前髪から覗く。 「無理、待てない」  骨の浮き上がった寛太朗の腰を膝で挟み、腰を落とす。  寛太朗のモノが挿入(はい)った瞬間、身体中の細胞が震えた。 「ああっ、だめっ」 「んっ、寛ちゃんっ」  一瞬で白い液が迸る。 「ああっ、嘘だろっ。みーっ」  寛太朗もドクドクと美己男の中で熱く爆ぜる。 「会いたかった。会えなくて死にそうだった。大好きだよ、みー」     俺、寛ちゃんに狂いっぱなしだ   「俺の方が前から好き。ずっとずっと寛ちゃんのこと大好き」  そう答えて美己男は寛太朗の顔に涙を落した。  夕食を一緒に食べる約束をして寛太朗をホテルに送り届けると、朝方、美己男は事務所に戻った。   「コウ、お前っ」  笠木が寝ずに待っていたのか、不機嫌そうな顔で迎えてくれる。 「あ、笠木さん、ごめんなさい」  謝りながらまだ温かい缶コーヒーをそっと差し出した。 「まったくよお、お前を引っ張って来た日のこと思い出したわ。あん時も一晩中、ラブホの前で待たされて、なんか、俺、可哀想過ぎねえ?」  笠木がコーヒーを啜りながらぼやくのを聞いて美己男は笑い出した。 「そんなことありましたね」 「自分だけスッキリした顔しやがって。んで?詳しく聞かせろ」  そう言われて、男に路地で襲われかけたこと、そこに寛太朗が現れて一瞬で追い返したことを話した。 「その幼馴染、何もんだよ。すげーな。その動画、後で俺にくれ」 「あはは、わかった。言っとく」 「んで?お前が風俗やってることは?」 「うん、言った。でもそこは全然どうでもいい感じだった。それより何にも言わずに夜逃げしたこと、すげー怒ってて」  ふーん、と笠木が鼻を鳴らす。 「お前、どうしたい?」  そう訊かれて、美己男は息を吐いた。 「俺、店、辞めるつもりないよ。今まで通り働いて借金は全部返す。俺が母さんにしてあげられるのはもうそれしか残ってないから。でもそれで終わり。今度はあの人とじゃなくて、寛ちゃんと行く」 「そうか、わかった。でもここだとお前、お客取れないし、店は移ることになると思っといて」 「はい。ありがとう、笠木さん」  美己男はそう言って笠木に頭を下げた。 「じゃあ、寛ちゃんと飯食ってくる」  そう笠木に声をかけると 「おう。あ、お前、本社に店、移ることになったから」 とついでのように聞かされた。 「は?本社?」   本社ってことは、寛ちゃんの近くに行けるってこと・・? 「なるべく早く来いってよ。京谷さん、待ち構えてたぞ」 「マジでっ」 「嬉しそうだな。伝説のナンバー1を手放す俺の身にもなってみろよ。やっぱ俺、可哀想すぎ」 「ありがとう、笠木さん。ほんとにありがと」 「おー。動画頼むなー」  はーい、と返事をして美己男は階段を駆け下りた。  寛太朗と待ち合わせ、夕食を食べに行くはずがそのままホテルへ行ってしまい、意識が飛ぶほど抱き合った。  結局、真夜中を過ぎてしまったのでファーストフードに行ってホテルで食べようということになり、夜の通りを歩いて店に向かう。 「ね、寛ちゃん。昨日の話・・、寛ちゃんのそばにいていいってやつ。本気?」 「なんだよ、また?昨日から何回もそう言ってんだろ」 「本当に?俺、頭悪いし、母親あんなで借金あってデリヘルで客取ってんだよ?」 「そんなこと言ったらお前こそ俺といていいのか?」 と急に寛太朗が眸を暗くする。   は?何?どういう意味? 「俺、今すぐ養ってやるとか言えないし借金の肩代わりもできないし。一緒に逃げることしかできない」   寛ちゃん、捨てられたって感じたまま、一人でずっと・・・  高校生の頃よりずいぶんと痩せて薄くなった寛太朗の体を眺めた。   もうこれ以上、一人にしちゃダメだ   「寛ちゃん、俺、明日、寛ちゃんと一緒に行く。今度は俺、寛ちゃんとこに逃げるから、だから明日連れてって」 「え?何?明日?」 「うん」   寛ちゃんを今度こそ守りたい  美己男は寛太朗の(ひとみ)を覗き込んだ。 「わかった。明日、一緒に逃げるぞ」  黒い()の中の海が激しく波立つのを見て、美己男はニコ、とえくぼを浮かべた。  事務所の待機部屋を掃除して、ほとんどのものを処分すると、荷物は小さなバックパックにまとめた。 「お前がいなくなったら、また事務所で俺一人になるなー。寂しい」 「笠木さん、色々ほんとにお世話になりました。笠木さんで良かった」 「京谷さんによろしくなー。あの幼馴染君にも」 「はい、笠木さんも体に気をつけて」  そう礼を言うと、パックパックを背負い、建物を出た。 「あはは、マジで嘘みたいだ」  高校生の時に寛太朗と博物館へ行った時のように、ウキウキとした気分で待ち合わせ場所に向かう。  通りの向こうから黒髪を揺らしながら走ってくる寛太朗の姿が見えた。 「荷物、それだけ?」 と驚いたように尋ねる。 「うん。別にどうしてもいるものなんてないし」  母親の知愛子(ちあこ)を含め、ここには置いて行きたいものばかりだ。 「お前、知愛子さんにはちゃんと言ってきた?」  心を読んだように寛太朗がそう言い、首を横に振った。 「いい。あの人にはもう話、通じないから」  そう答えて歩き出すと 「みー。ダメだよ」 と寛太朗が手を握った。 「話、通じなくてもちゃんと言ってこい。でないと連れてけない」 「何言ってんのっ。母さんの事捨てろっていったのは寛ちゃんじゃんっ。それにっ、あいつ寛ちゃんの事を俺に捨てさせたっ。今度はあいつが捨てられる番だっ」     イヤだ。きっとまたあの人は俺を、寛ちゃんを傷つける 「お前、ほんとに俺を選ぶんだな?」  あんなに人前で触れ合うのを嫌がっていた寛太朗がグッと頭を引き寄せた。 「俺を選んだらお前を知愛子さんとこには2度と返さない。それでいいんだな?」  耳元でそう囁かれてしがみつく。 「いい。2度とあの人のところには帰らない。寛ちゃんとこに行く」   二度と寛ちゃんを一人にしないって決めたんだ 「うん。じゃあ、俺と一緒に行くってちゃんと言って、最後に2人でいるとこ見せつけてこようぜ」  その言葉に美己男は渋々頷いた。  日当たりの悪い文化住宅の2階に上がると部屋のドアを開けた。  タバコと酒、ゴミの匂いが混ざり合った不快な匂いの中に知愛子はいた。 「みーちゃん?お帰りっ、みーちゃん」  明るくて可愛らしい昔の知愛子の姿が今は見る影もない。その姿が哀れで惨めで、美己男は息ができなくなった。 「お別れ言いに来ただけ。もう俺、ここには2度と戻らない。母さん、俺、寛ちゃんと一緒に行く」 「寛ちゃん・・?何言ってんのっ。あいつはいつもみーちゃんのこといじめてたじゃないっ。あの子っ、そうよ、いっつも真っ黒な穴みたいな目であたし見てっ。どうせまたみーちゃんのこと、言い包めてるんでしょっ。あいつらがあたしたちのこと見下してんの、わかんないのっ」 「違うよ。寛ちゃんはいつもあんたがいない時、俺のそばにいてくれて大事にしてくれた。俺はあんたよりも寛ちゃんのことをずっとずっと愛してるんだ」     楽しくて、綺麗で、自慢の大好きなちゃーちゃん  だが、もうその知愛子はいない。とっくの昔に失っていた。 「ちゃーちゃん、今までお世話になりました。俺ね、寛ちゃんと出会わせてくれたこと、ほんとに感謝してる。ちゃーちゃんがあの施設に連れて行ってくれたから、寛ちゃんに出会えた。ちゃーちゃんのお陰だよ。ありがとう。でも、もう行くね。バイバイ」   ようやく母さんを捨てられる  寛太朗が手を握ってくれているから平気だ。 「みー、すごいじゃん。ちゃんと言えたな」 「寛ちゃんっ」  涙で歪む景色の中を切り裂いて寛太朗が光に向かってぐんぐんと突き進んで行く。  子供の頃のように、暗いトンネルを駆け抜け、光の中へと飛び出した。   俺の寛ちゃん  サラサラと揺れる黒い髪と華奢な背中をもつれる足で必死に追いかけた。   やっぱり、寛ちゃんといると怖いことも全部平気   全部、楽しい 「みー、俺から絶対に離れるなよ」  寛太朗の確かめるようなその声に美己男の体が熱くなった。  嬉しさに胸がいっぱいで声が出ないかわりに、繋いだ手を強く握って返事をした。  

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