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第1話

 その旅の若い僧侶は、不安げにその曇天を見上げた。  晩秋の短い日が、間もなく暮れようとしていた。  日が暮れ、その上雨に降られでもしたら、この枯葉の舞う、うら寂しい山の中で夜を過ごさねばならない。  旅の疲れと見知らぬ土地での心細さは、旅慣れぬ彼に野宿という手段をためらわせる。  僧侶は、修行中の寺の導師に命じられ、加賀の国へと使いに出た帰途であった。  彼の帰属する寺は、都のさらに遠くにある。  加賀の国から海沿いに若狭小浜へと出て、その先若狭街道を都へと向かう。  一旦都に出た後に、山陽道を通って備中の国、その中の名も知られぬ小さな村にひっそりと自寺はある。  その若狭の道の山中。自分以外には唯一人の姿形も無い。 孤独な旅路であった。 「……誰も、居らぬ」  ふと、その現実に苛まれ、若い僧侶は足を止めた。  都は、遠い。  そして、この街道沿いの山道からは、何れの人里をも遠い。  都へ、そしてその先の寺へと戻ることを急いたあまりに、街道で行き違った旅人から近道と聞かされたこの山道を選び、多少の無理をしてまでも、ほんの少しでも先へと足を伸ばした。  だが、それが今は最悪の結果を招く事になりそうである。  果たして、どうしたものか。  途方に暮れた僧侶は、一瞬己が目にしたものを疑った。  その山道の脇道は、侘びれた石段へと続いていた。  暗く薄汚れた石段は、およそ壱百と五十段もあろうか。  僧侶は石段を上がりきったその先に、仄かな灯火を見た。  この石段の上には寺の山門でもあるのだろうか。  そして、人里離れたこの山奥の、忘れ去られたように建つ寺院にまだ人など居るのだろうか。  不安は打ち消せはしない。  けれども、ほっと安堵したような色をその幼さの残る美麗な顔立ちに浮かべると、若い僧侶は幾ばくかの期待を胸に、その石段の方へと早足で向かって行った。  薄暗い石段は、長く人の通りを拒んでいたのか、深く苔むして湿っており、僧侶は慎重に歩みを進めざるをえなかった。  ようやくにして、傾きかけた小さな山門をくぐると、そこは生憎にも寺院ではなかった。  (おおよ)その造りからして、何某(なにがし)かの貴族か武士の山荘であったものに手を加え、ひっそりと暮らす隠居所にでも(しつら)えられていたようだ。  しかし、思ったほどに荒れた様子には見えぬものの、果たして人の気配は感じられない。  その時だった。 「どなたか、そこにおいでか?」  凛と澄んだ美しい声に、僧侶は驚いて建物から目を反らし、庭の方へと振り返った。 「私は、ご覧の通り旅の僧にございます。決して怪しいものでは…」  薄闇(うすやみ)に目を凝らすと、その井戸の(はた)に立っていたのは、出家した身である僧侶ですらはっと息を呑むほどの、麗容な尼僧であった。  年は旅の僧よりかは幾つか上に見えるが、まだ若く、俗世の姿であればさぞ艶やかな美女であったろうと思われた。 「旅の……、御方でございましたか。……相済みませぬ。私は(めしい)ておりますので、貴方様の御姿を拝見することは出来ませぬ……」  その楚々とした美しい姿に似つかわしい声で、尼僧はそう言った。その高貴な顔立ちに気後れさえ感じ、僧侶は動揺を隠せぬままに慌てて自らの身の証を立てた。 「私は、備中の国・法厳山(ほうげんざん)久遠寺(くおんじ)の僧・修顕(しゅけん)と申します。加賀の国からの帰りの旅の道すがら、この山道で日も暮れる、また今にも雨に降られそうで難儀をしております。怪しい者ではございません。どうか一夜の仮の宿などお貸し願えますれば…」  必死の修顕の言葉に、尼僧は菩薩のような優しい笑みを浮かべた。  その汚れない美しさに、修顕は目も眩む思いがする。  幼少の頃から寺院の山門の内で育った修顕は、この旅に出て初めて女性という者を見知った。  どの女も優しげで愛らしい者たちではあったが、どれほどの美女と評判を謳われた者も、久遠寺の本堂に座す観世音菩薩像ほど修顕の心を和ませ、魅了するだけの美しさと品位を持ち得なかった。  だがしかし、この目の前の尼僧の高貴な美しさはどうだ。  まるで御仏に遣わされた存在のようではないか。  仏の国・浄土から舞い降りた天女さながらの美しさである。  特にその憂いの深い黒瞳は、光を映さぬと知らされても、なお何か深遠なるものを見つめているかのようで、若い修顕の心を惹き付けて離さない不可思議な力を宿していた。 「こうして盲てはいても、貴方様の御心の真実は見えるのですよ。その(すが)しいお声からも、貴方様のご誠実さが知れようというものです。日暮れてきたのは察しておりましたが、雨模様までとはさぞかしお困りでございましょう」  尼僧の親切な言葉に、修顕のやつれた顔がほっこりと(ほころ)ぶ。  まるで冬の間に儚げに咲く可憐な花のような、無邪気な愛らしさであった。  けれど、尼僧は語調を変えて言葉を続けた。 「ですが、お泊めして差し上げたいのはやまやまなれど、私もこの山荘の離れを間借りして、細々と庵を結び居る身。私の一存で、妄(みだ)りに庵へお上げする訳にも参りますまい。しばしお待ちなされませ、私の方からこちらの主人へと聞いて差し上げましょう」  尼僧はそう言ってわざわざ修顕を(のき)の下に迎え入れると、盲たことも忘れさせるほどの軽やかな身のこなしで、しずしずと母屋の奥へと消えていった。

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