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第2話

 最早(もはや)、日はとっぷりと暮れている。  今日はもう山道を歩くことは出来そうにもない。修顕は、歩き疲れた自分の細い足をそっとさすった。まだまだ若すぎる修顕に、この旅は想像以上に厳しく辛いものであった。 「お待たせ致しました。この家の主人も大層(たいそう)気の毒がられまして、喜んでお迎えすると申されておいでです。どうぞお気兼ね無くお上がりなさいませ」  その言葉に、喜びを隠しきれない様子で修顕は尼僧の許へと駆け寄った。その気配に気づいたのか、自然な仕草で尼僧は、修顕へと洗い立ての気持ちの良い手ぬぐいを手渡す。 「まずは、そこの井戸でおみ足を(そそ)がれ、お顔を(ぬぐ)われませ。済まれましたら、改めてあちらの(おもて)へお回り下さい」  尼僧の心使いに修顕は重ねて礼を述べ、手早く身綺麗にすると急ぎ尼僧の向かった玄関先へとまわった。 「失礼いたします」  声を掛けると、すぐに尼僧が手燭(てそく)を持って現れた。  盲目の尼僧に明かりなど必要はないのだが、丁寧にも修顕のために用意したのである。そんな尼僧の細やかな気配りに、修顕は心から厚く感謝した。 「庵主(あんじゅ)様は、まるでご不自由がございませぬな」  修顕は、その広々とした屋敷の中を難なく案内をする尼僧に、思わず感心して言葉を掛けた。 「私のことは、『庵主様』ではなく、貞真(ていしん)とお呼び下さい。不自由が無いのはこの(みたち)の中だけ。ここには…、もう十年も居りますもの。この十年というもの、この山門より一歩たりとも出たことはありません」  修顕は、身の上を語る貞真尼に何か悲哀の色を感じた。  これほど若く美しい女性が出家という決意をしたのには、盲目であると言うこと以外にも何か深い理由があるように思えるのだった。 「こちらです」  長い廊下を曲がり、奥の襖を開くとそこは煌々と灯が点されていた。 「左馬之介(さまのすけ)どの、旅のお方をお連れいたしました」  膝を着いた尼僧が恭しく口上すると、最奥でくつろいだ姿で杯を傾けていた男が、ゆっくりと顔を上げた。 「ほう、此方(こなた)様が旅の坊様であらせられるか。これはこれは、なんともお若い方であることよ」  一目見るなり、左馬之介と呼ばれた男は修顕に関心を持ったのか、急にあれこれと世話を焼き始めた。 「そんな端近(はしぢか)に居られずとも、早く中へとお入りなされ。おやおや、とうとう雨が降り出したようですな。外ではすっかり冷えてしまわれたでしょう」  左馬之介の前には囲炉裏があり、ぐらぐらと湯が沸かしてあった。  その暖かそうな湯気の向こうに見えたのは、まもなく四十に手も届くかという男盛りの美丈夫で、これがこの山荘の(あるじ)らしい左馬之介であった。 「さ、中へ」  貞真尼に促され、修顕は、その極楽のように暖かな部屋へと足を踏み入れた。 *** 「ここは、広いばかりで…。住んでいるのは、私と離れに尼僧が居られるのみだ。田舎の事ゆえ、何の御もてなしも出来ませぬが、どうかご随意に御寛ぎなされ」  主人の左馬之介は、元はやはりこの辺り一帯を支配する武家の出であった。  それが先の(いくさ)にて人の運命の儚さを痛感し、ついには家を出て、この山荘で俗世を()った生き方を選んだのだと言う。 「得度(とくど)を受けた、(まこと)の出家者とは申せませぬが、この世の(うれ)いを(いと)うておるのは同じ事。どうぞゆるりとご滞在いただき、仏法の有り難いお話など御聞かせ下されませ」  左馬之介は、ただの隠遁者とはとても見えぬ。  活力に溢れ、雄々しく、まさに男盛りの美しさを余すことなく漲らせていた。これでは、隠遁者というより、まるで蟄居(ちっきょ)を命じられた武者のようではないか。  修顕は、慌てて自分の考えを打ち消した。初対面の人物に、「蟄居」などと罪人扱い。余計な先入観は、仏の教えにも反すること。  心の内とはいえ、そんな不躾な洞察をする自分を、修顕は恥じた。  若すぎる修顕は、未だ修業を終えぬ身なのだ。 「法話など滅相もない。私など、まだまだ未熟者でございます。まして、貞真尼様も在られますのに……」  その時、貞真尼は夕刻の勤めのために座を離れていた。 「貞真も、実は正式に修行を終えた出家ではない。目の光を失った頃から仏にすがるようになり、ある時、貴方のようにここで仮の宿を召された(ひじり)に髪を下ろしていただいたのですよ」  そう語って、手にした(さかずき)を空けた左馬之介の横顔に、修顕はふとある思いが(よぎ)った。 「貞真尼様は、貴方の妹御前(いもごぜ)であらせられますのか?」  菩薩のように清らかに美しい貞真尼と、育ちの良さを物語るように悠然とした主人・左馬之介との顔立ちの間に、何かしら共通するものが無いこともなかった。  左馬之介は、確かに武家の出自らしく良く鍛え上げられており、その身体つきの逞しさは、まだ幼さを残した華奢な修顕などからみれば眩いほどであった。  それでいて、隠遁者らしい趣味と教養の高さは目に見えるほどに表れていた。  また、隠者としての落ち着きは見せているものの、実際はまだ三十路(みそじ)をいくつか踏み越えたばかりという若さで、若々しい凛々しさを備えた、知的で優雅な文人の面影は、儚げでありながら毅然とした態度を崩さない尼僧の美貌と重なった。  なぜ、このような二人が、このような山奥で、まるで人目を忍ぶようにして暮らしているのか、修顕には不思議に思えた。  これほどの美貌と気品を誇れる二人であれば、都にでもあるのが相応しかろうに…。  いや、都人(みやこびと)と言えども、近頃ではこれほどの品格を持つものはそうは居まい。 「ご不審に、思われましょうな」  左馬之介は、杯を置くとゆっくりと修顕の方へと向き直った。 「い、いえ。立ち入ったことをお聞きしてしまいました」  左馬之介は、そのままじっと修顕を見つめた。  左馬之介の武士らしい、射抜くような厳しい眼差しに見据えられ、修顕は落ち着かぬ思いがした。  まるで、自分が獲物か何かのような心地。  左馬之介という男は、非常に怜悧で端正な顔立ちをしていた。  そして、この鋭い目付き。この鋭さには、とても世捨て人とは思えぬ現実感がある。このような美丈夫が、誠に俗世を捨てられようか。  言い知れぬ沈黙と緊張が、左馬之介と修顕の二人の間に流れた。 

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