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第五章

 芳ばしいコーヒーの香りと雑音紛いのテレビ音声で絃成は目を覚ます。  通常、同性同士の行為で負担が高いのは受け手側であると聞き齧ったことのある絃成だったが、いつの間にか泥のように寝入ってしまっており、萌歌と迎える朝とは大分違うように思えた。  ベッドの上からも容易に見えるリビングのテレビ画面の中では難しそうな顔で原稿を読むアナウンサーの姿が映し出されており、仕事を開始するまでの数時間テレビで朝のニュースを見ることが暁の日課であることを絃成は最近知った。  幾ら部屋から出られない日々が続いていたとしても、暁が規則正しい生活を送っているので絃成が寝過ごすことも無かった。  テレビの音声以外に聞こえるのは微かな水音で、それは暁が洗面所で顔を洗っていることを表していた。絃成はぼんやりと昨晩のことを思い出し、顔から火が出るような刺激的な経験に思わず両手で顔を覆う。  並の女以上に昨晩の暁からは強烈な色気を感じた。彼女である萌歌も絃成より年上ではあるが、萌歌には無い何かを暁は持っているような気がした。それは言葉で表現すればテクニックのようなもので、相手が萌歌であることだけで興奮出来ていた時とは異なり、暁は同性だからこそ分かる男の弱い部分を的確に狙われたという自覚があった。  洗面台の蛇口を止め、暁は鏡の中にいる自分の顔を見返す。不思議と後悔はしていなかった。それは絃成が既に成人を過ぎているということもあり、抱くような罪悪感が存在していなかったこともある。  柔らかなタオルで顔を拭く。トースターからはバターの溶ける甘い香りが漂い始め、そろそろ絃成も起こすかとタオルを元の位置に戻して暁は一度キッチンへと向かう。  ドリップを終えたコーヒーがサーバーに溜まり黒い宝石のような輝きを放っていた。トースターの時間が終わるまでは後数秒あったので、暁は先にコーヒーを各々のカップへと注ぐことにした。  ごそごそと大きな音が寝室から聞こえ、そろそろ絃成も目を覚まし始めた頃だと気付き始める。聞き慣れたコマーシャルソングを無意識に口ずさんでいるとやがてそれも終わり再びニュースが始まる。  《――県の山中で殺害された男性の遺体が発見されました》  《所持品から遺体の身元は新名禄朗さん。二十五歳、男性》  アナウンサーが伝えた言葉に、暁は自らの耳を疑った。カップに注いでいたコーヒーが大きく震えた手によってカップを支える手に掛かる。しかしそれを熱いを感じられるような心の余裕が無かった。 「――ニーナ……?」  コーヒーサーバーとカップは暁の手を離れ、床に落ちると破片と共に大きな音を散らした。  同姓同名にしては年齢も名前も暁の知る新名と一致し過ぎていた。破片を踏み付けながらも暁はリビングへ飛び込み、そこで映し出されているテレビに食らいついた。  画面に映し出されている被害者の姿とされるその人物は、疑いようのない暁の知る新名自身であり、かつて同じSCHRÖDINGファンの仲間として時間を共にした新名だった。  暁はこれまで自分に関わった人物がこのような形でニュースに取り上げられたことは無かった。幼い頃両親を事故で亡くした時はあまりのショックでテレビを観ることも出来ない状態だった。  自分の知る人物が被害者としてテレビに映し出されている。その写真はどこかの飲み屋で取られた新名の姿のようで、オレンジ色の室内灯の中親指、人差し指、小指の三本を立てて片目を瞑り舌を出していた。 「なん、で……ニーナ、……えっ、なん……」  驚き過ぎて上手く言葉が出なかった。  起きてすぐにテレビを付けて朝食の準備を進めながら洗面所へと向かった暁は、この時初めてローテーブルの下で自分のスマートフォンが着信を告げる点滅を繰り返していることに気付く。  僅かに見えたその発信者名は那音で、時刻は既に今日のものであり昨晩那音が帰宅した後、絃成と情事に耽っていた頃のようだった。  暁はスマートフォンを拾おうとして振り返り手を伸ばす。その時ベッドの上で呆然とテレビに見入る絃成の姿が見えた。 「イトナ……ニーナが……」  絃成は新名を兄貴分として慕っており、そんな相手が遺体で見つかったというニュースは絃成にとっても衝撃的なものであっただろう。ショックを受けるのも無理はないと感じる暁だったが、絃成の顔色が青ざめているように見えた。  スマートフォンを拾った暁はそのまま絃成が凍り付いているベッド前まで向かおうとする。しかし突然ずきりと足の裏に痛みが走り、そこで初めて割れた破片を踏み付けてしまったことに気付いた暁は、リビングから寝室へ這うように腿を摺って向かう。 「イトナ……?」  近くまで来て暁は改めて絃成の異変に気付く。全く血の気のないその顔色はやはり青ざめていると表現するのがぴったりだった。  ショックなのは分かるが、絃成が何かから隠れている状況上発見現場に駆け付ける訳にもいかない。せめて会話が成り立たなければどうにもならないと暁は絃成の腕に触れて軽く揺すってみる。  足の裏を傷付けないように腕の力を使って暁はベッドへ上がる。あまり高さの無いベッドだったことが幸いした。暁が出来ることといえばただ絃成がショックから立ち直れるまで側で寄り添うことくらいで、瞬きもせず声もあげない絃成を胸元に抱き寄せる。起きたばかりであるはずなのに、絃成の身体は冷たかった。 「………………アキ」  暁の名前を呼ぶ小さな声が聞こえた。 「うん?」  冷えた身体を温めるように暁は絃成の背中や腕を擦る。  とても小さなその声は、暁にだけ聞こえた。  ――〝俺がニーナを刺した〟。  身長は百五十四センチ、その小柄な体躯に似合わぬFカップという豊かなバストは当時中学生から高校生に上がりたてだった絃成の性的好奇心を十分に刺激した。少し年上の魅力的な女性に、黒目がちな大きな瞳で上目遣いに見つめられながら、腕に押し付けられるそのバストの感触は今でも鮮明に思い出される。  男所帯の中にたったひとりの女の子。誰だって萌歌を〝そういう目〟で見ていた。  だからこそ絃成は焦った。焦って萌歌にアプローチを続け、そしてSCHRÖDINGの解散発表が出る頃には萌歌は自他ともに認める絃成の彼女になっていた。  絃成と萌歌の交際をおよそ周囲は好意的な目で見守っており、暁や那音らはそれを遠巻きに見るばかりだったが、リーダー格の和人や取り分け兄貴分だった新名からは萌歌を大切にするようにと女性に対する扱い方のイロハを教わった。  それでもSCHRÖDING解散後の萌歌とは音楽性が合わないことが増え、ホスト崩れのヴィジュアル系バンドやK-POPアイドルに興味の対象が移り、ライブの為と言って長期間旅行に出ることも多くなった。勿論それが萌歌ひとりだけの旅行であるとは限らず、萌歌の写真投稿SNSには明らかに男の影が見え隠れるようになっていた。  萌歌の浮気を疑い、気が滅入りそうになった時何度も相談に乗ってくれていたのが新名だった。最近整形に嵌っているという新名は会う度少しずつどこかしら面立ちが変わっているように見えたが、その気質は昔から少しも変わらず、萌歌が浮気をしているかもしれないと飲み屋で相談すれば、強く肩を叩いて萌歌を信じてやれと励ましてくれた。  そんな信頼する兄貴分と大切な恋人の裏切りを目撃したのは、数日前の出来事だった。  この日は萌歌が部屋にいると聞いていたので、アルバイトが終わった夜にはなるが萌歌の部屋に向かう予定だった。しかし当日になってその日あるべきアルバイトのシフトが無くなってしまい、予定よりは大分早い時間ではあったが久し振りに会えるということで上機嫌のまま萌歌の部屋へと向かった。  ドアノブを回せばすぐに扉は開き、不用心であるとは思いながらも萌歌が在宅であることが分かり半分程開けた扉から室内を覗き込む。日中であるのに室内はどこか薄暗く、閉じ忘れた奥の扉の隙間から煌々とした明かりが漏れていた。  偶には萌歌を驚かせてみようと声を掛けずに部屋へ入る。音を立てないようにゆっくりと玄関扉を閉じるとこつんと爪先に何かが当たる。それは萌歌が夏に買ったというお気に入りのミュールと、その隣に脱ぎ捨てられた爪先の尖った男物の靴だった。  恐れていた萌歌の浮気が今現実のものとして目の前にあり、血の気が引いていくのが分かった。  無意識に驚きの声を漏らしてしまったのかもしれない、それとも玄関音の開閉音という僅かな音が聞こえてしまったのか、奥の部屋でぼそぼそと人の声が聞こえた。  浮気をされた側であるという意識はそこにはなく、奥の扉が鈍い音を響かせてゆっくり開き始めると咄嗟にドアノブを掴んで逃げる体勢をとっていた。  明かりの灯った奥の部屋に見える人の影がふたつ。片方は全裸に毛布を巻き付けた萌歌であり、もう片方は下着だけを慌てて着用した新名だった。  萌歌と新名のふたりからの裏切りを目撃した瞬間、頭の中が真っ白になった。  土足のまま部屋に上がり、シンクの水切りに置かれていた包丁を奪うように掴んでいた。軽快な音を響かせて萌歌が食事を作る時に使っていた包丁を――。  何かが聞こえていた気がした。萌歌と新名が何かを言っていた気もするけれど、何を言っていたのかは全く頭に残っていない。新名を押し切る形で奥のリビングに押し入ると乱れたベッドとゴミ箱に捨てられた使用済みコンドームのパッケージ。  全ての点が線で繋がってしまった気がして、体当たりをするように新名の腹を包丁で刺していた。  包丁を突き立てたまま新名は仰向けに倒れ込み、萌歌の金切り声のような叫び声でようやく我に返った。  ただ悔しくて、萌歌と新名も大切で、ふたりに同時に裏切られていたという事実が許せなくて、この感情をどこに向けたら良いのかも分からなかった。  真っ赤な絵の具がべったりとついた手をただ眺めた。萌歌はただ何かを泣き叫んでいた。萌歌のヒステリーは今に始まったことではないので、無視をしてキッチンへと向かう。水道の水で赤い絵の具が消えるまで洗い流した。  シンクに掛けられたタオルで手を拭く。確かに洗ったのに、べっとりと赤い液体で汚れたようにも見えた。  今日の予定は無くなった、どこへ行って何をしようと考えながら萌歌の部屋を後にする。  何時間歩いたのかも分からない、どこに行こうとしていたのかも分からない。歩いて歩いて歩き続けて、気がついたらいつの間にか周りが夜になっていた。気付いたらスマートフォンも無く、落としたのだとしたら萌歌の部屋しか考えられなかった。  知らない駅前、見知らぬ雑踏、眩い街灯、ガードレールに腰を下ろして星の見えない空を見上げた。捕まるかもしれない――漠然とそう思った。  だけどそれでも良いかもしれないと考えた。大切だった萌歌や新名ももう居ない。自分は最初からたったひとりで、誰も居ない。ならば捕まって懲役を受けるのと何も変わらない。ひとりであることは何も変わらない。寝て起きて、食事をして働いて、そして食事をして寝る。何も変わらないのならばこのままひとりで生き続けるのと刑務所に入ることと何も変わらないように思えた。 「――――」  雑踏の中、その声だけがはっきりと聞こえた。いつか聞いたことがあるような、透き通った柔らかい声。  それが何であったか思い出そうとして視線を向ける。ハザードランプを付けて一時停車した車の助手席の窓から何かを話すプラチナブロンドの男。  車が去るまで目線で追い続けたその男は、車が左折していくと張っていた気を緩めるように肩を落とす。夢だと思いたかった、そんな偶然がある訳ないと思っていた。  SCHRÖDINGが解散してから疎遠になってしまっていたかつての仲間である暁の姿がそこにはあった。

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