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第六章

 絃成が新名を刺したという事実は暁の平穏な日常を大きく脅かした。ただ絃成の告白には矛盾もあり、萌歌の家で刺したはずの新名がそこから県を跨ぎ五十キロメートルも離れた山中で発見されたのか。絃成の話に嘘が無いとするならば当然絃成が埋めた可能性は低く、同時に小柄な萌歌が女性ひとりで遺棄など出来る訳が無かった。  ただひとつ考えられる可能性は最悪のものであり、その可能性だけは回避したいと考えた暁は翌日の仕事をキャンセルして那音から聞いた萌歌の部屋へと向かう。  変わらず絃成には誰が来ても扉を開けないことを言い残し、萌歌の部屋へ向かうとは伝えないまま家を出た。衝撃的な告白から絃成の精神状態は芳しく無く、長期間外に出ていないという環境も相まって出かける直前には床に敷いた布団の上で微動だにしていなかった。  電車で三十分程度、思っていたより萌歌のアパートは暁の部屋から近い場所に位置していた。それならば茫然自失状態の絃成が徒歩で最寄り駅まで辿り着いていた事実にも合点がいく。それでも初めて降りる駅ではあったのでスマートフォンの地図機能に頼りながら暁が萌歌のアパートに到着した時には正午を迎えていた。  じりじりと暑い太陽が照り付け、連日蒸し暑い日々が続いていた。アパートの外壁だけが真っ白でその照りつける太陽を反射しており、モスグリーンカラーの屋根は萌歌のような可愛いものが好きな二十代女性が好んで住みそうな外観をしていた。  当事者である萌歌に直接訊ねることが事実を知る一番の近道であることは暁も理解していたが、萌歌の部屋に近づきたくないと考えてしまうのは本能的な問題だった。  石造りの階段を上がっていく足が一歩ずつ重くなっていくのを感じていた。萌歌の恋人である絃成と身体の関係を持ったという事実以外にも暁には萌歌に会いたくない別の理由があった。  敢えてあの時の絃成に伝えなかったことではあるが、暁は当時から萌歌の浮気癖を知っていた。それは絃成以外の全員が知っていたことで、暁がそのことを知った大きな原因は暁自身が過去に萌歌から誘われたことがあったからだった。その時点で萌歌は既に絃成と付き合っており、絃成のことを思い誰もが口を噤んだ。  那音も例に漏れず萌歌から誘われたことはあるらしいが、同性愛者であることを理由にやんわりと萌歌からの誘いを躱した暁とは異なり、重度のシスコンである那音の断りの理由は「姉以外の女性に魅力を感じない」という実に狂気的なものであり、後に那音からそれを聞かされた暁はあまりの戦慄に言葉を失った。  その事実を知ってから振り返ってみれば、グループの中で紅一点だった萌歌は男性からちやほやされたいが為に敢えて男性しかいない和人のグループに近付いたのではないかとも考えられた。  そういった経緯もあり萌歌を苦手としていた暁だったが、考えを巡らせている間に部屋の前へと到着をしてしまう。念の為に部屋番号を数えてそこが間違いなく萌歌の部屋であることを確認するが、インターフォンのボタンに置いた指が動かない。  何故かそのボタンを押してはいけない気がした。  それは暁が萌歌のアパート外観を視認した時から感じていたことで、部屋に近づく度にその拒否反応は強まっていった。そしてそれが萌歌に会い辛いという感情的な問題ではないことにも暁は薄々気付き始めていた。  連日続く夏日、幸い暁は自宅を仕事場をしていたが、この暑さの中満員電車に揺られての通勤などとてもではないが自分には出来ないような気がしていた。  暑いからこそ余計に感じる鼻につくような匂い。それは放置された生ゴミの匂いにも似ているような気がした。部屋に近づく度強くなるその匂いはこの萌歌の部屋の中から漂っているような気がした。萌歌の私生活を知らないから断定こそ出来なかったが、頻繁に絃成が訪れたりライブの為に遠征しているのならばゴミを部屋に放置するようなことは日常的に行わない人物に見えていた。  ふと在宅中の萌歌は鍵を掛けないことがあるという絃成の言葉を思い出し、暁の目線はドアノブへと向く。萌歌の浮気相手は新名ひとりではなくそれ以外にも複数いると考えられるので杞憂ではあったが、あまり部屋の前で長居し過ぎて近隣住人に変な印象で覚えられたくはない。鼓動が徐々に大きくなっていくのを全身で感じながら暁はドアノブへと手を掛けて回す。  その旧式のドアノブは半回転と共にガチャリと音を立て軽く引けば玄関扉が外側へ開く。しかし次の瞬間暁は猛烈な勢いでその扉を閉じた。  僅かに開いた扉の隙間から湧き出してきたのは強烈な腐敗臭。一回分の生ゴミを部屋に溜めているというような比では無かった。ただこれ以上踏み込んではいけない気がして、暁は片手で鼻と口を多い胃を内側から捻り上げられるような感覚があった。全身の毛穴という毛穴の全ては鳥肌がたち、夏も近いのに冷や汗が背中を伝った。  これより先を知ってはいけない気がして、暁は脱兎のごとく萌歌の部屋の前から逃げ出していた。  石造りの階段を駆け下り、道路脇の電信柱へ縋るように手を置き屈み込むと暁はその根元へ嘔吐する。口の中に酸味と苦味が入り混じり、熱せられた地面から漂うその香りが更に暁の不快感を誘い、痙攣する胃が再び暁を襲う。  もう吐けるものなど何も無くなった頃、暁は電信柱に爪を立てたまま荒い呼吸を繰り返していた。吐瀉物と唾液が入り混じった口元を乱雑に拭い、落ち着いた暁が次に思い至ったのは警察への通報だった。スマートフォンを取り出し短縮で発信出来る緊急通報の赤いボタンを見る暁だったが、そのボタンを押すことに躊躇いがあった。  余計なことを色々と聞かれるかもしれない。絃成を匿っていることもバレるかもしれない。萌歌と新名のふたりから同時に裏切られた絃成が今頼れるのは自分だけで、今の絃成を守ることが出来るのも自分だけであるということを暁は理解していた。しかし萌歌の部屋から漂うあの腐敗臭を市民の義務として通報するという倫理観は持ち合わせていた。  恐らく、萌歌はあの部屋の中でもう――。 「アーキっ」  言葉と同時にむにゅりと柔らかい胸の感触が暁の背中に当たる。それと同時に覆い被さるように両腕が首へ回され、暁はスマートフォンを手にしたまま背後から現れた人物を振り返る。 「マヨ……」  本当は振り向かなくてもそれが誰であるか分かっていた。清涼感の中にベリー系の甘い香りが含まれている香水、それはいつかのSCHRÖDINGファンクラブ会報でドラマーのシエンが愛用していると書かれていたものだった。仲間内でシエンのファンは真夜ひとりだけであり、痛いほど日差しが照りつける中、露出した真夜の白い両腕にはシエンと同じ黒とグレーの二色で情熱的な薔薇とそれを守る棘の残った茎が描かれていた。 「久し振りぃ、こぉんなトコで何やってんのぉ?」  鼻にかかった甘い声、直接耳元で囁かれると異様にこそばゆく感じられた。何故ここにいるのかという疑問は暁にとっても同じであり、お互いが視界に入っていないかのような関係性だった真夜が萌歌の部屋へ訪れるような関係性であったとは考え辛い。 「……それはマヨも同じだろ。ゲロつくぞ」 「えぇーまっじぃ!? きったねー!」  その言葉ですぐに離れると考えていたが、予想外に真夜は暁の首に巻き付いたまま軽い鼻歌交じりで暁へプレッシャーを与え続ける。真夜が萌歌の部屋まで来た理由は、想像が正しければ暁と同じ理由だった。  真夜は新名と身体の関係にあった。暁と同じく先日のニュースを見て新名と関係のあった萌歌の部屋へとやって来たか、可能性としては新名と連絡が取れずに萌歌の部屋にいると考えたのかもしれない。  もしかしたら萌歌のことは真夜が――という考えが一瞬暁の頭の中によぎる。  しかし事実は暁の想像とは異なり、新名が遺体で発見されたことを知った真夜は暁よりも一日早く萌歌の部屋に訪れていた。暁よりも一足早く萌歌の部屋の中へ足を踏み入れており、真夜はあの部屋から漂う腐敗臭の原因を知っていた。  新名が自分だけではなく萌歌とも関係を持っていた事実を真夜は始めから知っていた。それに対してどうこう言える立場ではないことは真夜自身が一番良く理解しており、萌歌では決して埋められないものを満たせているという自信だけが真夜の心を保たせていた。  新名に自分だけを見て欲しいという気持ちが膨らむほど、萌歌を邪険に思う気持ちが高まった。長年邪魔に感じていた萌歌が今物言わぬ存在となり足元に転がっている姿は真夜の矜持を甚く満足させ、争わずして得た勝利は気分を昂揚させた。 「その時見っけたんだよ。コレなぁーんだ?」  真夜はストラップのついたスマートフォンを暁の目の前に垂らす。どこにでもありそうで誰でも持っていそうなスマートフォンに心当たりは無かったが、真夜がくるりと背面を見せると暁は目を見開いた。  スマートフォンの背面部に貼られたステッカーはぼろぼろとなっており隅から剥がれかけていたが、それは紛れもなくSCHRÖDINGのロゴステッカーだった。SCHRÖDINGのファン仲間であった萌歌の部屋にSCHRÖDINGのロゴステッカーが貼られたスマートフォンがあるのはおかしなことでも何でも無く、常識的に考えれば萌歌のものであると考えられたが、萌歌のスマートフォンがキラキラとスワロフスキーでデコレーションされたケースであることは仲間内ならば誰でも知っていることであり、暁は口に出さずともそれが絃成のスマートフォンであるということを本能的に悟っていた。  萌歌の部屋に出入りしている者の物と考えるならば新名のスマートフォンであるとも考えられたが、新名は常に新機種に買い替える癖があり、そもそも和人は機種が違う。いつまでも古いステッカーを貼り続けてでも同じスマートフォンを使い続ける人物としては絃成しか考えられず、ストラップに赤黒く変色した血がこびり付いていたことから真夜は萌歌の恋人である絃成を疑った。  萌歌を寝取られたことを知った絃成が新名を殺したと考えるの一番筋が通っており、証拠としてその時点で既に絃成は行方を眩ましていた。  新名には真夜や萌歌以外にも複数の女性関係があり、警察はまだ萌歌には辿り着いていないようだったが、それでも萌歌の部屋を見張っていればいつか絃成がスマートフォンを取りに戻ると考えていた。  その日は意外にも早く訪れ、たまたま空き部屋だった萌歌の隣家に潜んでいた真夜は萌歌とは接点が無いはずの暁の訪問を目撃した。暁が同性愛者であることは真夜も知っており、男であれば誰彼構わず誘いを掛ける萌歌を忌避していたことも知っていた。だからこそSCHRÖDING解散後に暁と萌歌が交流を保ち続けている可能性は皆無で、真夜の推測は点と点が繋がった。 「アキ、お前イトナのこと匿ってるだろ」  見透かす真夜のひとことに暁はこれ以上ない絶体絶命の危機を迎えていた。

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