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Chapter 6

 フローリングの床には辛うじて割れることを逃れたグラスが転がるが、その内容物だった赤ワインは無惨にも零したバケツの水のように床に拡がっていく。  ありえない状況に理解出来ない感情、冬榴は赤ワインが血液のように拡がるフローリングの上で慧志に押し倒されていた。  時は僅かに遡る。  駅前でマサミチと別れた冬榴は手土産の赤ワインを持って慧志の部屋に訪れた。迎え入れる慧志が扉を開けた瞬間に冬榴はそこでようやく気付いた。紘臣が深夜までのシフトの為春杜が紘臣たちの部屋に来ないということは、当然住人のひとりである紘臣も深夜までは帰宅をせず、深夜までこの部屋には慧志しかいないということを。  迂闊だったと冬榴が気付いた時には既に遅く、慧志は笑顔で手土産を持って現れた冬榴を招き入れた。  紘臣が告げた〝クロカンブッシュ〟とは小さなシュークリームが山のように積み上げられているお菓子で、まるでパーティに出されるような初めて見るお菓子は冬榴の心を充分躍らせた。  山積みにされたプチシュークリームを固める接着剤代わりのカラメルの香りがとても香ばしく、慧志を見る冬榴の瞳は少女のように期待に満ち溢れていた。  冬榴が手土産として持参した赤ワインをふたつのグラスに注ぎ、テーブルの中央に置かれた夢のようなクロカンブッシュを眺めて乾杯をする。冬榴が慧志によって床へと押し倒されたのは赤ワインを飲む間もないすぐの出来事だった。 「男ひとりの部屋にお酒持ってくるなんて、こういうことを期待してると思われても仕方無いよね……?」  馬乗りに覆いかぶさった慧志が人差し指で冬榴の唇をなぞる。部屋にいるのが慧志だけであると思い出したのはつい先程のことであったし、毎回何も手土産を持たずにケーキをご馳走になるのは悪いと思ったからこそ、マサミチの助言も得て選んだものだった。  その気になれば体格差など関係無く慧志を振り払うことなど簡単だったが、折角買った赤ワインが味をみる前に御破算となってしまうのはただ残念でしかなかった。視界の端に拡がっていく赤ワインを残念そうに見遣る冬榴の口からその無念さを悔やむ言葉が思わず漏れる。 「折角、マサミチさんが一緒に選んでくれたのに」  冬榴にとってのそれはただ無念さを言葉にしただけのものだったが、慧志の耳には全く違う言葉に聞こえた。 「――は、なにそれ」  冬榴にそんなつもりは無いだろうが、慧志にはそれが酷く侮辱的な言葉に受け取れた。期待をしたこともなかったし、冬榴に手土産を望んだこともこれまで無かったが、今日冬榴が手土産として赤ワインを持参してくれた時には嬉しさを覚えた。  これまで見返りを求めず、無償で与え続けていたものが初めて相手から返ってきたことに喜びすらもあった。  しかしそれが、自分以外の――しかも冬榴を巡るライバルであろう男が選んだものであるということは、慧志の男のプライドですら深く傷付けた。 「――ッ!!」  行き場の無い感情を、遣り場の無い怒りを、慧志は拳をただ床へ強く叩き付ける。不運にも床に転がっていたグラスの台座がその衝撃に巻き込まれ、薄いガラス製のグラスは儚く砕け散る。  その破片の一端は冬榴の頬を傷付け、大部分は慧志の拳に突き刺さっていた。慧志は肩を大きく震わせ、堪える様は猫が威嚇をしているようだった。フーフーと浅い呼吸を繰り返し、冬榴は肘を付いて慧志の下から抜け出るように上体を起こす。 「……サトシ、くん?」  グラスを中心に拡がるその液体は赤ワインのように芳醇で、しかし赤ワインよりも濃厚な香りを放っていた。冬榴はその強すぎる香りにくらりと意識が飛びそうになる。  少しだけ、喉が貼り付いているような感覚があった。アルバイトが終わり、マサミチと共に駅前で手土産を買い、まっすぐ慧志の部屋まで来る間一切の飲食をしていなかったせいもあるかもしれない。 「どうして、そんなに……怒ってるんだ?」  頬に入った一筋の傷は焼けるようにじくじくと痛くなってきていた。それでも慧志の様子がどこかおかしいのは冬榴から見ても明らかであり、俯いたままの慧志へと冬榴は手を伸ばす。  ぱしんと乾いた音が響き、冬榴は慧志に伸ばした手を振り払われたことに気付く。 「――帰れ」 「え……」  無理やり絞り出したような低い声だった。 「帰れッ!」 「サトシく」 「帰ってくれぇっ!!」  続く言葉に冬榴の両肩はびくりと震える。どう見ても普通ではない慧志をひとり残して帰る訳にもいかず、告げられた言葉に固まるがこのまま冬榴がここにいたら危険なのは慧志の方であると本能的に察し、正面の慧志を見据えたまま椅子の背凭れに掛けていた鞄の紐を掴む。  温かな色をしたフローリングの床に、二色の真っ赤な液体が拡がっていく。その噎せ返るような香りに眉を寄せ、冬榴は最後まで慧志に視線を向けながらぱたぱたというスリッパが奏でる軽快な足音を響かせて玄関へと向かい、慧志の部屋を飛び出した。  あれ以上慧志の部屋にいたらおかしくなってしまうような予感が冬榴にはあった。それはリビング中に拡がったあの赤ワインの香りなのか、多少の酩酊感に足元をふらつかせながらも一段ずつゆっくりと階段を降りる。途中で一度足を止め振り返るが、慧志の部屋の扉が再び開かれることはなかった。  慧志から連絡を受けた時点でのマサミチの反応や、マサミチにワインを選んで貰ったということを知ってからの慧志の反応など、今日は冬榴にとって理解の出来ないことが多すぎた。  アパート内部灯の明るさから、一転して夜の暗闇へ身を投じる。視線の先には闇に溶け込む公園があり、遊ぶ子供たちの居ない夜の公園は物悲しいものがあり、忘れ去られたように佇む遊具は昼との賑わいの落差を厭でも感じさせた。この日はスケートボードの音がしなかったので、毎晩という訳ではないのだろう。異様なほど静かな夜だった。  見上げた月は上弦、もう間もなく月に一度の祝宴の為春杜と共に実家へ戻る時期がやってくる。親類縁者のご機嫌取りも面倒臭かったが、半分は春杜の護衛として一緒に都会へ出てきている冬榴は、春杜が月に一度実家へ戻る時は必ず帯同しなければならなかった。  この時間ならばまだ春杜は寝ているかもしれないと考え、念の為にズボンの尻ポケットからスマートフォンを取り出す。予想通り春杜からアルバイト終わりの冬榴を狙った着信は無く、だからこそ冬榴はアルバイトの後に慧志の部屋へ向かうことも伝えていなかった。  寄り道をせずに春杜と暮らすマンションへと戻り、春杜と同じベッドで眠りに就き、また朝を迎えてアルバイトへ向かう。毎日が単調で同じことの繰り返しだった。  時刻の表記がカウントアップされるのをただ眺めていた冬榴だったが、暗闇から唐突に現れた手に腕を掴まれる。その弾みで放してしまったスマートフォンは路面を滑り、伏せられた画面からは煌々と光が漏れていた。 「えっ……」  冬榴は瞬間的にその手の主が慧志ではないかと期待をした。滑っていったスマートフォンを目線で追った冬榴だったが、その次に腕を掴む手の持ち主に視線を向ける。目深に被られたパーカーからは陰になってその顔が良く覗えなかったが、乾いてひび割れを起こしている唇からはぼそぼそと聞き取りづらい言葉が発せられており、一目でそれが慧志ではないことを理解した。 「ハルト……ハルト、は……」 「お前……」  荒い息遣いが聞こえ、それが昨晩放逐した春杜の元恋人である川野だと冬榴が理解するのは簡単だった。不思議なことに変質者の事案は南北を走る道路の西側にしか上がっていない。昨晩春杜と共に川野に遭遇したのもこの西側の公園であり、偶然とはいい難いほど慧志たちが住むこのアパートの付近だった。  川野はこうしてアパートの周辺を常にうろつき、昨晩のように春杜本人が姿を現すのを待っていた。春杜をマンションまで送るのが冬榴ではなく紘臣であった場合、起こり得る現実は火を見るよりも明らかだろう。昨晩あのまま警察に突き出せば良かったと冬榴は今になって後悔をする。  昨晩の川野は冬榴が少し捻り上げただけで音を上げる程しょぼくれていたのにも関わらず、唯一春杜との接点である冬榴を逃がしたくないのか、腕を掴むその手の握力は昨晩とは比べ物にならない程強かった。それでも昨晩に比べればというだけであり、あくまで成人男性程度の腕力に冬榴が御される筈もなく、その気になれば昨晩同様簡単に振り払えるものだった。 「ハルトさんはいない。お前はもうハルトさんに捨てられてるんだよ」  可哀想かもしれないが、川野には真実を教えた方が良かった。春杜は使い物にならなくなった相手に対して用は無い。今の川野のように精根尽き果てた川野は春杜に近寄る価値すらなく、現実を突きつけてここで引き返させるのは冬榴なりの優しさでもあった。  堕ちるときは底なし沼のように春杜へ堕ちていき、春杜以外は何も見えないし要らなくなる。それは今の紘臣の状況ととても似ていた。だからこそ春杜から見捨てられた後もその呪縛から逃れることが出来ず、今の川野のように現実を受け止められず春杜を求めて付き纏う。 「あ……うああ……」  震えた声で川野は獣のように唸り始める。尚も強く握られ続けていた腕に更に力が篭っていく。 「もういい加減ハルトさんのことは諦めて、お前は体調を……」  川野の息遣いや発汗、小さな変化すら見逃さないように意識を強く向ける。川野がパーカーのポケットに片手を入れるとすぐに冬榴はナイフか何かの武器を想像して警戒を高める。 「トオルくん!」  その瞬間だった。冬榴は名前を呼ばれたのとほぼ同時に身体を抱き寄せられ、暖かく力強い腕に庇われていた。 「うぎゃあぁあああ!!」  初めは何が起こったのかも分からずただ目を丸くしていただけだったが、すぐ近くで聞こえた川野の絶叫に尋常ではない事態が起こったのは分かった。 「――トオルくん、大丈夫?」  大きな背中の暖かな温もりに安堵した。無意識に冬榴はその広い背中へ腕を回し、少し速く高鳴る心臓の鼓動を全身で感じていた。 「マサミチさん……」  路上へ転がるように両足を苦悶にばたつかせながら両手で顔を掻き毟るように覆う川野の側には小さなスプレー缶のようなものが転がっていた。それは恐らく防犯用の催涙スプレーか何かで、本来使用される側である川野がそれを隠し持っていたことにも驚きだったが、自らがそれを受け地べたで激痛にのたうち回るその姿は正に因果応報としかいえなかった。 「がっ、あぁっ……目っ、目がぁあああっ……!!」  現れたマサミチに庇われなければそれを冬榴が直接受けていた可能性が高い。その事実に冬榴の背筋がひやりと冷えた。 「トオルくん、場所を移そう」  風に舞う刺激臭は離れていても冬榴の目や鼻腔を刺激し、冬榴が乾いた咳を払ったのに気付いたマサミチは冬榴の背中を撫でて場所をこの場から移すことを促す。 「落ち着いた?」 「――はい、ありがとうございます……」  人気が無い夜の公園、ベンチに腰を下ろす冬榴はマサミチが自動販売機で買った紅茶缶を握りしめていた。  川野はあの場に捨て置いてしまったが、目の痛みが治まれば勝手に居なくなるだろう。念の為にと小型のスプレー缶はマサミチが回収したが、やはり冬榴の想像通り刺激物が含まれた催涙スプレーだったそうだ。  アパートの目の前で起きた騒動にも慧志が姿を現すことは一切なかった。マサミチが助けに現れてくれなければ冬榴も今頃どうなっていたか分からない。今になって襲ってくる恐怖心に缶を握る冬榴の身体が小刻みに震え始める。  幾ら慧志とのことで困惑して落ち込んでいたとしても油断が過ぎてしまった。もし春杜と一緒だったらと考えただけで頭の中が真っ白になる。 「さっきの……知り合いみたいだっけど」  指摘された川野との関係性にびくりと肩が震える。 「あ、の……ハルトさん、の元カレで……」 「なるほどねぇ」  既に春杜にはマサミチの存在が知られてしまっているが、本当にマサミチを自分たちの都合に巻き込んで良いのかという不安が冬榴の中に生まれ始めつつあった。  自分は春杜のようには出来ない。紘臣の現状はまだ良い方であったが、いずれは川野のようになってしまうことを考えると、冬榴にはマサミチと慧志の内どちらかを選ぶということは難しかった。  それでも、大人の包容力で冬榴を支え続けてくれたのは間違いなくマサミチで、訳も分からずケーキを振る舞ってくれたり突然怒り出したりと行動原理の読めない慧志よりは、今後付き合い続けることを考えるとマサミチが理想的な相手であるという事実は確定的になってきていた。  今なら春杜も寝ているだろうし邪魔が入ることもない。昨晩言えなかったことを今こそマサミチに伝えるべきだと考えた冬榴はゆっくりと深呼吸をして気持ちを整える。微かな虫の声以外、何も聞こえない静かな夜だった。 「っ、あのっ、マサミチさんっ――」 「トオルくん」  言葉を遮られ出鼻を挫かれた冬榴だったが、視線を向けるとマサミチから真剣な眼差しを向けられていた。冷たい手で心臓を握り潰されるような感覚があった。息が上手く吸えなくなって、冬榴はマサミチから目を離せなくなっていた。  ベンチの隣に腰を下ろしていたマサミチが近付いてくる。手をつき木材が軋むミシリと響く音がとても大きく聞こえた気がした。  突然、慧志の放った一言が冬榴の頭の中に蘇る。  ――〝スーツとかちゃんとした格好した変質者だって居るんだから〟。  こんな時に何故慧志の意地悪なひとことを思い出してしまったのか、冬榴の頭の中は目の前のマサミチに対する鼓動の高まりと、芽生えた一抹の不安からせめぎ合った思考が停止しかけていた。  そんな冬榴の感情を再び動かしたのは耳元で囁かれたマサミチの言葉だった。 「――――」  とても穏やか且つ優しい口調で、それは冬榴が初めて聞いた自分に向けられた言葉だった。  その言葉が音として耳から冬榴の体内に入った直後から、火が灯されたように身体が内側から徐々に熱を帯びていくような感覚があった。 「……マサ、ミチさん」  その言葉に対して正しい返答を知らなかった冬榴はただマサミチの服を掴んで俯くことしか出来なかった。早く何か言葉を返さなければという気持ちだけが冬榴を焦らせる。そんな冬榴の動揺を理解した上か、マサミチはぽんと優しく冬榴の背中を撫でる。 「トオルくん、あのね」  冬榴だけではなくマサミチも緊張しているのが強張る腕の動きから伝わっていた。何かとても重要な話がありそうな空気を察した冬榴はゆっくりと顔を上げてマサミチの顔を見る。目の前ではマサミチが悲しそうに笑っていた。 「――僕、仕事の関係でもう少ししたら此処から離れないといけないんだ」  その言葉がすぐには理解出来ず、冬榴はひとつ大きな瞬きをした。マサミチの手が冬榴の頬に触れる。  マサミチは冬榴がアルバイトをしているファミリーレストランの常連客で、どちらからともなく顔見知りとなり、最近は仕事終わりに冬榴の自宅であるマンションまで送ってくれることが多くなっていた。  そんな日がいつまでも続くものだと思っていた。少なくとも春杜に着いて冬榴がこの地を離れるその日までは。  しかし予期せぬ別離は冬榴が思っていたよりもずっと早く、整理のつかない感情が冬榴から言葉を奪う。今はただ頬に触れるマサミチの手の感触でしか、マサミチがそこにいるという実感を得られなかった。  共に居られる時間が限られていると分かっていたからこそ、マサミチは少しでも早く冬榴に伝えたかった。その結果こんな表情を冬榴にさせてしまうということも分かっていた。マサミチには少しの猶予や躊躇いも許されてはいなかった。このままでは遠からず冬榴の気持ちがあの大学生の青年に向いてしまうことは目に見えていた。  冬榴の気持ちが追い付くまでは幾らでも待つつもりはあったが、上からの指示には逆らえない。 「だからね――」  ザアッと強い風が夜の公園に吹き荒れる。その後再び小さく虫の鳴き声が響き始める。 「出来ればトオルくんにも一緒に来て欲しいと思ってるんだ」 「え……」

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