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Chapter 7

 ――〝一緒に来て欲しい〟。  求められる言葉は冬榴にとって嬉しいものだったが、マサミチに着いていくということはこの土地を離れ慧志とも完全に縁が切れてしまうという意味を表していた。  マサミチと慧志のどちらかしか選べないという事実に冬榴の心は大きく揺れる。ここで慧志を選ぶのならばマサミチとはもう会えなくなるということでもあった。  これまで優しくしてくれていたマサミチならば、これからも優しくしてくれるような気がしていた。大人なマサミチならば、慧志のように突然怒り出したりからかってきたり、冬榴が嫌だと思うようなことをしないだろうという未来も思い描くことが出来た。  もう辛い思いをするのはこりごりで、ただ無条件に誰かから愛され、必要とされたかった。  冬榴は震える手でマサミチの服を掴む。ここではないどこかへ、連れ出してくれるのならマサミチでは無くても良かったのかもしれない。 「良いのかな」  一度マサミチの顔を見ると瞬きをするように小さく頷く。他の誰でもなくマサミチを失いたくないという気持ちは確かに冬榴の中にあった。  マサミチの指が冬榴の唇をなぞり、つられるように冬榴は目線を上げる。すぐそこにあるマサミチの顔、冬榴は乞うように瞼を落とす。それが何を意味するものであるのか冬榴はもう理解していた。  目を開けずともマサミチの顔が近付いてきている気配を感じていた。触れ合いそうな唇まで後何センチか、初めての経験に冬榴の全身は緊張で強張る。  キスをしても子供が出来たりしないのは自分とマサミチが同性同士だからであり、そう考えた時冬榴の頬に温かいものが流れた。 「あ……」  いつまでも触れ合うことの無い唇に冬榴はゆっくりと瞼を上げる。マサミチの顔は冬榴から少し離れてそこにあった。両眉を落としとても悲しそうな表情をしていたマサミチ。それでもその悲しげな表情すら優しいものだった。 「マサミチ、さん」  マサミチの指の背は冬榴の頬を下から上へとなぞり、目元に溜まる涙を掬いあげる。 「うん……」  マサミチは冬榴の言葉を受けてただ寂しそうに笑う。  何故躊躇ってしまったのか、止まない涙はまだ冬榴の中から慧志の存在が消え切れていなかったからだった。マサミチは冬榴の涙が止まるまで抱き締め続け、ゆっくりと背中を撫でる。  どうしても春杜のように上手く出来ず、誰かを傷付けてしまう。恋人ひとり作ることも出来ず、また春杜に失望されることも怖かった。だからこそマサミチと慧志のどちらが良いか春杜に決めて欲しかったのに、自分で決めろと春杜には突き放されひとりでは何も成せない悔しさから止まらずに涙がぼろぼろと零れる。 「トオルくん、そんなに泣き続けたら頭痛くなっちゃうよ」  マサミチが背中を撫でる手は強くて安心が出来るのに、心の奥底のどこか一箇所でマサミチを受け入れることの出来ない自分がいるのが嫌だった。 「マサ、ミチさんっ、マサミチさん、ごめんなさい俺っ……」  怒って見捨ててくれた方がずっと楽だったのに、差し出される手に、優しい胸元に縋ってしまう。  マサミチは多くの言葉を語らずとも、今冬榴が何をするべきかを諭すように耳元でぽつりぽつりと呟く。自分が本当に心から求めているのは誰であるのか、一緒に居て無理をせず自然体で居られるのは誰なのか。  冬榴はその言葉ひとつひとつに小さく頷く。道を照らしてもらわないとその一歩すら踏み出す勇気を出せない。 「彼と、ちゃんと話すんだろう?」  それはマサミチと共に行くことは出来ないという明確な答えでもあり、少しだけ時間を空けてから冬榴はマサミチの腕の中でこくりと頷く。  くしゃりと頭を撫でられ冬榴が顔を上げるとマサミチが今までと変わらぬ優しい笑顔を浮かべている。しかしその笑顔は普段より少しだけ寂しそうにも見えた。  マサミチの何が悪いという訳ではない。寧ろ慧志よりも大切にしてくれるだろうということは分かりきっていた。その気持ちが嘘偽りのないものであることも。  ――それでも。  時々見せる優しさが、人伝に知らされる日々の気遣いが、どうしても捨てきれぬ想いを冬榴の奥深くへと芽吹かせてしまった。  冬榴はベンチから立ち上がり、流れる風が冬榴の赤毛を靡かせる。  もっと早く出会いたかった。もしくは紘臣に春杜を紹介してくれとせがまれ、それに応じなければ良かった。そうすれば慧志と出会うこともなく、迷わずマサミチの胸に飛び込むことが出来た。  何故疑わず誘われるがまま毎回部屋に上がるのか。ひとつやふたつ嫌なことを言われることだって分かっていたのに、春杜が降りてくるのをアパートの下で待つことだって出来たのに。  強く拒絶せず誘いに乗ったのはケーキだけが理由ではない。確かに冬榴にとっては物珍しいお菓子を毎回与えられてはいたが、それらも決して拒否できないものでは無かった。  冬榴の頬を一筋の涙が伝い落ちる。 「――ありがとうございますマサミチさん。俺、もう行きます」 「うん。頑張って」  マサミチはベンチに腰を下ろしたまま冬榴へエールを送る。  公園から慧志のアパートは目と鼻の先。今ならまだ慧志と話をする時間もあるだろう。日を改めてなどまどろっこしい真似はしていられない。マサミチから貰った踏み出す勇気を無駄にしない為にも冬榴は一度マサミチに対して頭を下げてから再びアパートへと駆け戻っていく。  冬榴が迷わず進めるようにマサミチは見えなくなるまでその背中を見つめ続ける。我ながららしくないことをしてしまったかもしれないと自嘲しない訳でもなかったが、まだ若い〝彼〟の芽をここで摘んでしまうのは惜しいと思ったのは確かだった。  お互いが素直にさえなれば容易に開く道であることを、もっと早くに気付いて欲しかった。背後でがさりと草を踏みしきる音にマサミチは薄い笑みを浮かべる。  旧式の呼び鈴を押せば扉越しの室内に軽快な音が流れる。それでも幾ら待っても中からの応答は無く、しびれを切らした冬榴は何気なくドアノブに手をかける。  するとガチャリと回したノブにより玄関扉は開かれ、最後に冬榴がこの部屋を出た時のまま施錠されていないことが分かった。特に西側においては鍵をかけないことは不用心に他ならなかったが、この時点の冬榴にとっては好都合だった。 「サトシくーん……?」  開けた扉から頭だけを突っ込み、中にいるであろう慧志へ声を掛ける。玄関から入ってすぐの廊下には明かりが灯されたままで、突き当りのリビングも煌々と照明の光が漏れていた。何から何まで冬榴が部屋を追い出される直前のままであり、靴を脱ぎ捨てた冬榴は室内の気配を探りながら部屋の中へと上がり込む。  ふわりと漂う香りも先程と変わらず、冬榴は一度真っ直ぐリビングへと向かい擦りガラスで半分目隠しされている扉を開く。阻まれていた扉を開くことで強烈な匂いが冬榴の鼻を突く。床に広がり混ざる赤い液体、割れたグラスの破片もそのままでただ慧志の姿だけがそこに無かった。  冬榴の視線は自然と歩いてきた廊下を振り返る。廊下に面した扉のそれぞれが慧志と紘臣の部屋となっており、一歩踏み出した冬榴は吸い寄せられるように片方の部屋の扉を開ける。 「サトシくん……」  その室内は真っ暗で、大きな出窓から入る月明かりだけが僅かに輪郭を浮き上がらせていた。出窓に面した壁、そこに置かれたベッドの上には大きな白い塊があった。それは頭から布団を被り丸くなった慧志の姿で、冬榴が声をかけてもぴくりとも動かなかった。 「サートーシーくん」  ベッド前に正座をしてじっと白い布団の塊を見詰める。いくら慧志が寝ていたとしてもこれだけ声を掛ければ誰かが部屋にいることは分かるはずで、その証拠に布団の中からは寝息のひとつも聞こえてこなかった。  両手を伸ばして布団の塊に当てる。するとほんのり温かく微かな脈も伝わってきた。冬榴は出来る限り布団に近づき、唇を寄せて囁くようにして訊ねる。 「――どうして布団を被っているの?」  次は布団に耳を当て、真っ暗で静かな返答の中慧志からの返答を待つ。とてもくぐもっていて、絞り出すような小さな声だったが確かに冬榴の耳には慧志の声が聞こえた。 「――……傷付いているからだよ」  冬榴にとって慧志の行動は一から十までの全てが理解不能であり、だからこそ何故慧志がそのような行動を取るのかの理由を直接慧志の口から聞かせて欲しかった。 「どうして――傷付いているの?」  どちらかと言えば傷付いているのは押し倒され、襲われそうになり、怒鳴られ、追い出された冬榴の方であった。しかしその張本人である慧志自身が傷付いているのならば、その理由を冬榴は知りたかった。乞うように額をぴたりと布団の塊へ押し付ける。 「ねえサトシくん、どうして――」 「……トオルさんが、鈍感だから」  聞こえてきた慧志の言葉に冬榴は瞬きをする。そして次の瞬間には深く考えもしないで慧志の身体を包み込む布団を剥ぎ取る。その手さばきはまるで食器が置かれたテーブルからテーブルクロスのみを引き抜くような技巧に富んでおり、冬榴が布団を剥ぎ取るとベッドの上には小さな子どものように身体を丸める慧志だけが残っていた。  その利き手には乾いた血液が染みのように貼り付いており、冬榴を追い出してからも碌な手当てをしていなかったことが窺える。血の匂いを嗅ぎ取った冬榴が咄嗟に慧志の手首を掴むと抵抗するように慧志がようやく顔を上げる。怪我自体も大きな問題ではあったが、出窓から差し込む月明かりに照らされた慧志の顔に冬榴は興味を引かれた。 「――どうして、泣き腫らした目をしているの?」  驚く慧志の目には冬榴の顔は逆光で良く見えなかったが、見えないはずなのにその瞳が一瞬金色に輝いたように見えた。猫でもあるまいし、人間の瞳が色を考える訳がないと思い直す慧志だったが、冬榴からの指摘にはふっと目線を反らす。 「……泣いてないよ」  その言葉が嘘であることは冬榴にもすぐに分かった。何故追い出した側である慧志が泣くことになるのか、冬榴にはまだ理解出来ていなかった。  どうしてと訊ねてくるその純粋無垢な質問はまるで子供のようだったが、それだけ理解されていなかったという事実が先ほど以上に慧志を傷付ける結果となった。 「……ねえ、サトシくん」  慧志の利き手を掴む冬榴の手は――震えていた。それまでの鈍感な物言いとは何かが違うと慧志が気付いた時、冬榴は両手で慧志の利き手を握り込みながら声を絞り出して訊ねる。 「どうして――怒った、の?」  鈍い言葉の刃がゆっくりと慧志の心臓を貫いていくような感覚があった。あの瞬間に伝えられなかった言葉を、今伝えられなければこの先二度と伝える機会はないのかもしれない。  目の前の冬榴は震え、それでも分からないから答えを直接慧志に求める。一体傷付けられたのはどちらなのか、慧志にはもう分からなくなってきていた。  長い時間沈黙が続いた。冬榴は先程のように答えを急かすことはせず、ただ慧志の手を握りしめ理解出来ない慧志の行動の意味を知ろうとしていた。たとえ握りしめたその手が破片で付いた慧志の傷を更に拡げるものであったとしても。  どれ程の時間が経過したのか、慧志はゆっくりと重い唇を持ち上げる。 「他の男が……選んだ手土産に、腹が立った……から」  慧志の言葉でようやく冬榴は自分の中で合点がいった。それをしてはいけないと誰も教えてはくれなかった。ただいつもご馳走になっているから何か御礼をしたかった。そしてマサミチと少しでも長く一緒にいたいという気持ちもあった。  ただそれだけのつもりで、慧志を傷付ける意図など初めから冬榴の中には無かった。 「どうして……」  ぽたりと掴まれた慧志の手に温かい水滴が落ちる。冬榴が顔を上げた時、双眸には溢れんばかりの涙が溜まっていた。冬榴は慧志の顔を見上げながら首を傾げる。  だからもうこれは自分の負けだと思い、息を吐いて両肩を落とした慧志ははたはたと涙を落とす冬榴の頬に片手を添えその瞳をじっと見つめた後、ただ触れる程度に唇を重ねる。 「トオルさんのことが……好きだからだよ」

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