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Chapter 8

 眩い月明かりが出窓から室内に射し込み、窓枠の形状からそれはまるで大きな十字架のようだった。  キスをしただけで子供は出来ないと教えてくれたのは慧志だった。そもそも同性同士である為キス以上のことをしたとしても子供が出来るわけなかった。春杜が今紘臣から深く愛されているように、かつて川野から深く愛されていたように誰かから与えられる〝愛〟を感じてみたかった。  初めてお使いを頼まれた少女のように、守ってくれる保護者も無くたったひとりで。震える唇で口付けを交わし、それが冬榴にとっての初めての経験だった。 「……トオル、さん」  幼子を慰めるようなキスの更にその先へ、慧志は冬榴の腕を掴んで引き寄せる。  布団を剥いだベッドの上へ冬榴を押し倒す。無理に落ち着かせようとする互いの吐息だけが薄暗い室内に吸い込まれていく。見上げる者と見下ろす者、緊張だけがその場を支配する。  遠い意識の外からその緊張を阻害する喧騒が近付いてくる。それを先に気付いたのは冬榴だった。見上げる慧志の背後には十字に見える窓枠があり、その先に大きな上弦の月が見えた。藍色の中に浮かぶ眩しい上弦が血のように赤く染まっていく。それと同時に大きくなってくる不安になる警報音。  次第に室内へその赤い光が断続的に舞い込んでくると、慧志もその異変に気付いたようで冬榴の上から降りると出窓へ視線を向ける。冬榴もベッドから身体を起こし、出窓を開ける慧志に続いて外へと視線を向ける。  断続的に鳴り響くサイレンの音と一定間隔で強度の変わる真っ赤な警光灯。出窓から見えるすぐ側の公園には普段からは考えられないような野次馬たちの姿があり、それまで一切気付いていなかったが口々に何かを話しており一種の騒音に近かった。  警察の到着から公園で何かの事件があったのは明らかで、冬榴と慧志は互いに顔を見合わせる。真っ先に思い浮かんだのは最近東側に警戒体制を促している通り魔の一件で、具体的な情報を入手しようとふたりは出窓から身を乗り出す。  ――〝男性が通り魔の被害に遭ったらしいわよ〟  ――〝会社員かしら、スーツ姿の若い男性ですって〟  まさか、と冬榴は息を呑んだ。 「あっトオルさん!」  気付いた時には冬榴は慧志の部屋を飛び出していた。裸足で部屋を飛び出す冬榴を慧志が放っておくはずもなく、冬榴が暴走しないように慧志も慌てて冬榴を追って部屋を出る。ざわつく野次馬を掻き分け公園の中へ向かおうとする冬榴の腕を掴んで制止させる。 「トオルさん待ってっ」  まるで慧志の声など聞こえていないかのように冬榴の視線は公園の中へ釘付けになっていた。何故なら特に騒がしい公園のあの一角は先程マサミチと別れたばかりの場所で、冬榴が慧志の元へ向かった後もまだマサミチがあの場所に居たとするならば――冬榴の不安は高まっていく。  人混みの中モーゼのように道が空き、ブルーシートに覆われた誰かが担架に乗せられ運ばれる。野次馬がそれぞれに言葉を口に出す中、救急車に運ばれるその人物らしきものへ冬榴の視線は釘付けとなった。 「……う、そだ……」  冬榴はふらりとバランスを崩し、背後で冬榴の様子を見守っていた慧志がその身体を支える。その時慧志の目にもはっきりと見える。僅かにバランスを崩した担架からブルーシートに包まれた人物の手が滑り落ちるところを。その手は明らかに男性のもので、カジュアルなジャケットと僅かに覗くワイシャツの袖口、時計か何かをしているようだったが、その手は余すことなく真っ赤な血に汚れていた。  慧志は冬榴の目を塞ぐタイミングが遅れたことに後悔した。まるでこちらからの声など一切耳に入っていないかのように、慧志は今の冬榴に意識が残っていないことに気付いていた。 「トオルさん、戻ろう……?」  たとえ冬榴に言葉が届いていなくとも、この場に居続けるよりはずっとマシであるとして慧志は冬榴の両腕を掴んだまま小さな声で囁く。まるで蝋人形か何かのように冬榴の身体は頑として動かず、慧志は冬榴の様子を確認する為顔を覗き込む。  そこにあったのは今まで慧志が見たことのない冬榴の表情だった。 「……トオル、さ」  強風に煽られ葉が舞い、慧志はその一瞬意識を冬榴から反らした。しかし再度意識を冬榴へ向けた時、既にそこに冬榴の姿は無かった。急いで周囲を見渡す慧志だったが、野次馬のどこにも冬榴の姿は無かった。 「トオルさん……?」 「は、はははぁっ……ひゃあっははははぁ!」  暗がりを駆け抜ける足音と閑静な住宅街に響き渡る笑い声。それを気にする住人は居なかったが、だからこそ男の気持ちは昂揚していた。  アイツが悪いアイツが悪いアイツが悪い。  自分はただもう一度春杜と冷静に会話がしたかっただけで、その為に春杜の親戚で一緒に暮らしているという冬榴に渡りを付けて欲しいだけだった。もう一度話せばちゃんと伝わるはずだから、ちゃんと分かり合えるはずだから、とにかくもう一度春杜と話し合う機会を作りたかった。  それを邪魔したあの眼鏡の大男の所業は万死に値する。あたかも自分が正義であるかのように人を見下し、騎士気取りはさぞ気持ちの良いものだっただろう。  あの後ずっと公園で話すふたりの様子を見ていた。冬榴の目の前でやっても良かったが、冬榴から春杜へ自分の悪い印象が伝わることは避けたかった。だから、冬榴がいなくなった隙を見てあの男を――そう、俺が殺した。  抜け殻みたいなあの男を殺すのは簡単だったし、声も出さずにその瞳が濁っていく姿を見るのは正直セックスよりも興奮した。お前が悪い。俺と春杜の仲を邪魔するから。俺が冬榴に声を掛けるのを邪魔するから。 「ひゃはっ、あは……あーっははは、あひゃっあっひゃあぁあ!!」  足を止め雄叫びを上げる川野の奇声が藍色の夜空へ呑み込まれていく。 「――ああ、やっぱりお前か」  道路を渡る歩道橋の上、ひとりの男が川野を待ち受けていた。少し長めの襟足がさらりと風に靡き、上弦の月を背中に背負ったその人物を川野は警戒しつつ見上げる。 「お前がマサミチさんを」  冬榴の瞳が猫のように金色に光り輝く。川野は見間違いかとその目を血に塗れた手の甲で擦るが、次の瞬間冬榴は川野の目の前に立っていた。  歩道橋の上から走ってきたにしては早過ぎで、息ひとつ乱していない様子はただ異様だった。人間としての一線を踏み越えた川野だからこそ、冬榴の異様さに気付き無意識に足が一歩後ろへ下がる。  まるで普段意識して感じることのない風のように、冬榴は川野の側頭部と肩口に手を掛けると露出させたその首筋へ大きく開けた口で――噛み付いた。 「っぎゃあぁぁああああッ!!」  絶叫はその一瞬のみ。すぐに川野は失禁し膝から崩れ落ちると言葉を失い、代わりにぶくぶくと口から泡を吐き出していた。  噛み付いた首筋からその鋭い犬歯で皮を引き裂き、動脈から直接吸い上げる血液。びくびくと痙攣を繰り返した川野はやがてそのまま血の気が失せた真っ青な表情でその場に倒れ込む。  冬榴は川野の姿をただ見つめ、袖口で口元を拭いながらひとこと呟く。 「……不味い」 「そりゃあ僕の出涸らしだからね」  冬榴は背後を振り返り、夜の散歩でもするかのように軽装にカーディガンを羽織った姿で現れた春杜へ視線を向ける。 「ハルトさん」 「起きたらまだ君が帰ってきてないから驚いたよ」  冬榴の隣を擦り抜ける春杜は血へ崩れ落ちた川野の前へ屈み込み、様子を伺うようにその匂いをすんすんと嗅ぐ。 「残念。一滴も残ってないや」 「ハルトさんは昨日ヒロから充分貰ったでしょう」 「うふ、そうだね。血液も精液も僕らにとってはそう変わらないし――何より、精液ならこんな風に痕も残らないからねぇ」  その言葉はまるで粗雑なままに歯型を残した冬榴を責め立てているかのようだった。 「――仕方、無かったんです。ソイツから……マサミチさんの血の匂いが、したから……」  慧志を選んだことは後悔していないが、だからといってマサミチが殺されて何も感じないほど情が薄い訳でも無かった。 「まあいっか。ね、帰ろっかトオル」  既に川野には微塵の興味も無いかのように春杜は冬榴を見上げて笑みを浮かべる。  カーディガンを翻し帰路へと足を進める春杜の姿を目線で追い、冬榴もすぐに歩き出す。 「待って、ハルトさん」  足を止めて僅かに振り返る春杜へ追いついた冬榴はカーディガンの裾を掴む。冬榴の様子を見た春杜はふっと表情を和らげ伸ばした手で冬榴の頭をくしゃりと撫でる。 「――後片付け、ご苦労さま」 「捨てる時はちゃんと後始末して下さいって、いつも言ってるじゃないですか」  不満げに唇を尖らせる冬榴と、それを意にも介さない春杜のふたりは談笑の声を響かせ闇へと姿を融かして消える。

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