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第5話

それは、恭王(きょうおう)殿下がまだ、賛洋(さんよう)王子と呼ばれていた頃、というから、今の私たちと同じくらいの年齢だったことでしょう。王子はまだ王宮の外に王府を構えておらず、王宮内の寝宮で暮らしていたそうです。  ある雨の夜、賛洋王子が兄上である王太子の太子府から、ご自分の寝宮に戻られる時のこと。  王子は傘を差して、1人で歩いておられました。  ある庭を通りがかった時、雨の中に女性の姿が見えたと言います。若い王子はゾッとされたそうですが、よく見るとその女性は泣きながら何かを探しているようです。 「何をしている?」  王子が声を掛けると、それは若く美しい女官でした。 「賛洋殿下」  女官は雨の中(ひざまづ)いたので、王子は慌てて傘を差し掛け手を取って女官を立ち上がらせました。女官は随分長く雨の中に居たらしく、指の先まで冷え切っていたといいます。 「こんな雨の中、何をしているのか」  お優しい王子は女官に問いました。最初は言い渋っていた女官でしたが、王子をいつまでも雨の中に立たせているわけにもいかず、仕方なく口を開きました。 「お仕えしている恵嬪(けい・ひん)さまが、この辺りで手巾(しゅきん)を失くされて、それを探してくるように言われたのです」  こんな暗くなってから、しかも雨の中だというのに自分の失くした手巾を探してこいなどと、随分傲慢な妃嬪だなあと王子は思ったそうです。 「それはどんな手巾なのだ?」  と王子が訊ねると、女官はその手巾が、淡い藤色で蠟梅が刺繍されたものだと答えました。  王子もしばらく一緒に探してみたものの、どうしても見つからず、仕方なく王子は自身の手巾を取り出しました。王子の手巾は白くて燕の刺繍がされたもので、女官が探しているものとは全く違うものでしたが、女官は嬉しそうに受け取りました。 「もし、これでお前の(あるじ)が不服だというのなら、明日の朝、私の母上である蓉皇后(よう・こうごう)慶陽宮(けいようきゅう)まで来るがいい。似たような手巾を下賜して下さるだろう」  王子がそう言うと、女官は喜んで何度も頭を下げて、礼を言いながら去って行ったそうです。 え? それからって? いえ、これで終わりですよ。 ああ、幽霊ね…。  それはね、当時の王宮には「恵嬪」などと言う妃嬪はいなかったんですよ。  何代か前の王宮には、陛下から下賜された手巾を失くしたとして叱責され、自害した「恵嬪」という妃嬪がいたそうですけどね。 「うわ~」  声が出るだけ小敏はまだ元気で、煜瑾は両手で耳を塞いで震えているし、玄紀は涙目で、なぜか文維を睨みつけている。 「さあ、そろそろ寝ましょうか」  文維はいつものような穏やかで優しい笑みを浮かべてそう言った。  少年たちは各自に一部屋ずつ与えられている。  長い一つの廊下に沿って四部屋が並んでいて、一番奥の、庭園に面した開放的な大きめの部屋が一番身分の高い唐煜瑾に与えられ、その隣が申玄紀、その隣を、玄紀のたっての願いで羽小敏が、最後の勉強部屋に近い部屋を包文維が使っていた。 「こ、今夜はみんな私の部屋に集まらないか」  すっかり怯えた目をしながらも、気位の高さから「怖い」と言えずに煜瑾はそう言った。 「あ、みんなで文維兄上からもっと幽霊の話を聞く?」  あっけらかんとしているのは小敏だけで、文維は苦笑しているし、玄紀は涙目で引きつった笑いを浮かべている。  そんなつもりで誘ったわけではなかった煜瑾だったが、今さら何も言えなくなる。 「どうします?煜瑾侯弟?」  ちょっとからかうように文維が言うと、煜瑾は何か言いたそうにしながらも、言えずに唇を噛んだ。そんな分かりやすい煜瑾を、高貴な侯弟とはいえ可愛らしいものだな、と文維は思った。 「小敏兄様、ずっと手を繋いでいてくれますか?」  心細そうに玄紀が言うと、小敏はニッコリ笑って玄紀の手をギュッと握った。 「煜瑾もね?」  小敏に言われて、煜瑾は救われたように嬉しそうに笑った。 「わあ、みんなで枕を並べて寝るの?楽しそう~」  あくまでも能天気な小敏は、はしゃぎだした。  なんとなくそれにつられて、玄紀もちょっと笑顔になる。  煜瑾の従者である阿暁は少し渋ったものの、四人の公子たちの縋るような眼差しには勝てず、侍女に命じて簡易な牀台を運び込ませ、横に並べた。  公子たちの部屋には、それぞれ寝心地のいい立派な寝台が作り付けで置いてあるのだが、それよりも公子たちは寝心地の良くない狭い寝台で並んで寝ることを選んだ。 「ふふふ。なんだか変な感じ」  くすぐったそうに煜瑾が言うと、小敏や玄紀もクスクス笑った。 「さあ、誰がどこで寝ますか?四つの牀台うち、どうしても二人は端近(はしぢか)になりますね」  文維の一言で、煜瑾は真ん中の二つのうち右側の牀台に素早く座った。玄紀は小敏の手を握ったまま放さない。  自然とそのまま玄紀は左手に煜瑾、右手に小敏という位置ですっかり安心している。 「嬉しいな~。今日は朝まで小敏兄様と一緒だ~。ずっと手を握っていていいですか?」 「いいけど、ボク寝相が悪いかも…」  照れ臭そうに小敏が言うと、玄紀と二人、仲良く顔を見合わせてクスクスと笑った。 「ぶ、文維公子…」 「なんですか、煜瑾侯弟?」  可哀想なほどに頼りなげな様子で、煜瑾は左隣の文維を上目遣いで見詰め、縋るように小さな声で言った。 「お願いだから、もう怖い話はしないで…」  消え入りそうな煜瑾に、文維はいつもの穏やかな笑顔で応える。 「もう怖い話はしないし、今夜は何も怖い事なんておきませんよ。安心しておやすみ下さいね」  文維はそう言うと、胸の辺りでギュッと握っている煜瑾侯弟の手を優しく取るとソッと温かい手で包んだ。 「私たちも朝まで手を繋いで寝ましょうか」  聡明な文維はいつも身分の高い煜瑾に対して礼儀正しく、その分どこか冷淡な態度に感じていたが、いつも小敏に見せるような優しさを自分にも向けてくれたことで、煜瑾は文維に対する印象を変えていた。  嬉しそうにウンと頷くと、煜瑾もまた文維の手を握り返した。  各部屋の作り付けの大きな寝台には、薄絹の掛かった天蓋が付いているが、簡易式の牀台となれば(おお)いも無く両端にいる小敏と文維でさえ顔が良く見えた。  公子たちの寝台の足元の方に廊下があり、その向こうは馬場が広がる。  そして端に居る小敏の誰もいない方の右手には庭園が見える。それが怖くて、煜瑾はついつい文維の方を見てしまう。 「なんだか楽しいですね。みんなでこんなに近くでくっ付いてるなんて」  楽しそうな玄紀に小敏も同調する。 「なんだかみんな兄弟みたい。小さい頃、文維兄上とよくこうやって寝たよねえ」 「そうだね。あの頃の小敏は雷が怖くて、すぐに私の布団に入ってきては寝ている私を起こしたものだ」  四人は声を上げて楽しそうに笑った。  こんなに楽しい夜に、怖い事なんて起こるはずが無い…。この時までは少年たちはそう思っていた。

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