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黙れクソガキ

硬く尖る先端。 そこから滴り落ちる薬液。 凶暴に光る銀色。 肘下を縛るゴム製の医療用チューブ。 抑えられた左腕。 体育館にて行われているインフルエンザ予防接種に朝比奈 錦はこれが夢ならどんなに良いだろうかと遠い目をした。 彼らしからぬ現実逃避だ。 「止せ。痛そう。絶対痛いはず。物凄く痛い筈だ。皮膚に針を刺し薬液注入だなんて正気の沙汰ではない。そもそも、予防接種などしなくても嗽手洗いでインフルエンザは防げるものだ」 アルコールで腕を消毒された時、錦は遂に耐え切れずうめき声をあげる。 かつて彼のこんなに苦悶に満ちた表情を見た生徒は皆無。 「兄さま落ち着いて。僕を見てください。平気だから」 錦の傍らに立つのは、弟の朝比奈 更紗だ。 「お前を見て現実は変わるのか?お前の存在がこの世からこの集団接種などというおぞましい予防接種の強制を無くせるのか?答えろ弟よ」 「兄さま、相手はただの針。細い尖った金属に過ぎません。そんなものに貴方は負けるのですか?注射など恐るるに足らず。貴方ならそう笑えるはずです」 冷静沈着、頭脳明晰、文武両道な環境美化委員長の朝比奈 錦にも弱点がある。 義兄と注射と苦い薬だ。 兄さま。 こんな醜態晒すなら学校じゃなくて、かかりつけの病院で予防接種を済ませておけば良かったのに。 更紗は温い笑みを浮かべる。 ちなみに弟の更紗は、体育館で順番待ちが嫌なので掛かりつけの病院でとっくに済ませてある。 「わが弟よ。お前が何時もと違い男前に見える」 「何時もはどういう風に見えてるんですか?兄さまこの野郎」 「非力な女の様だと…あっ、まて、刺すな!注射針をこちらに向けてくれるな」 若い看護師が温い笑みを浮かべる。 あぁ、兄さま。 貴方がいつもと違い女々しく見える。 「激痛に耐える自信が無い」 素手で熊と乱闘できそうな人が何言ってるんですか。 更紗は温い笑みを浮かべた。 「普段釘バット片手に不良さん相手に喧嘩している人のセリフじゃないです」 「おい、釘バット片手は風紀委員だろう」 「風紀委員の皆さまは素手だと思います。何か手にするならメリケンサックくらいでは」 「いや、あいつらなら割れた瓶とか使うだろう、野蛮人だからな」 「一瞬ちくりとするだけですから」 「その一瞬ちくりで、後どれくらい苦労をすると思っている。俺は昨日予防接種を受けた一之瀬が死にそうな顔をしていたのを見たぞ。保健委員が腕が赤く腫れたと廊下で叫んでいた」 「大丈夫ですよ。昨日の担当看護師は新人だったんですよ。こういうのは当たり外れがありますからね」 周囲は殺気だったが、鈍感とボケは気が付かない。 くそ忙しいのに駄々捏ねんじゃねぇぞクソガキ。 看護師たちは青筋を立てた。 顔はもちろん笑顔だ。 「今日はベテランですよ。たぶん」 「ベテラン?何故そういいきれる。」 錦は針を刺そうとする看護師から腕を振り払おうとするが、しっかりと別の看護師に腕を押さえつけられた。 「だって若い看護師が一人も居ないではありませんか」 どや! と更紗は胸を張る。 つまり、年配の看護師=ベテランと更紗は単純に考えたのである。アホ極まる。 「お前。なんて事を言うんだ。女に年齢のことを言うなど。怒らせて俺がどうなっても良いのか?」 「大丈夫ですよ」 「それからお前が下手くそ呼ばわりした看護師の友人の看護師が此処にいたとして、お前の言葉に怒りを感じて…痛くされたらどうする?血管ぶち抜かれたらどうする」 新人とは言ったが誰も下手くそとまでは言ってはいない。 更紗よりもっと失礼な事をいう男である。殺気立った空気からさらに温度が下がる。 「そんな、ぶち抜くだなんて…卑猥な。五十嵐君がいたら大喜びですね」 「俺がどうなっても良いのか」 「鬼のように強い兄さまが誰かに好きにされてぶち抜かれるだなんて」 「俺を好きにして良いのは海輝だけだ。看護師ではない。海輝だけだ」 大事な事なので二回言いました。 「あぁ、愛するお兄さまの何という甘美な妄想、最近五十嵐君の小説の所為でアブノーマルな世界に目覚めそうです」 二人の会話は全くかみ合っていない。 正反対の方向で自由人だった。 「血液全部抜かれて空っぽにされても良いのか!」 「そんな、全部絞り出されるだなんて、どんなプレーですか」 「干からびる」 「僕、ドキドキします」 「俺もドキドキしている」 後ろに並んでいる兄崎は、2人の頭を叩きたくなる。 怖くてできないが。

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