2 / 7

第1話 再会

「さあもうじき時間だ。皆んな帰る準備はいいか?」  いつもよりトーンを上げた課長の声が室内に響き渡る。  机と椅子がぶつかり合う音、書類の束を机に叩きつける音、甲高い男たちの奇声、浮かれた女たちのさえずり。普段なら不快に思う雑音すらも、まるでゴールを決めたメッシに贈られる歓声のように心地よかった。  プレミアムフライデーなんて呼び方はどうでも良かった。今夜は亮に会える。   それが僕にとって一番重要なことなのだから。 「おい高橋、今日さ飲みに行かないか?」 「あ、悪いけど先約があるんで」 「何だよ、付き合い悪いなあ。いくらプレミアムフライデーだからって、三時に   終わる会社なんてそうはないだろ? 二時間くらい付き合えよ」  同僚の川越は急に神妙な顔付きになり、僕の耳元に顔を近づけてきた。僕が一番苦手な距離だ。 「向かいの証券会社の女の子がさ、やっぱ三時で仕事が終わるらしいんだ。それでお前を連れていくのを条件に、合コンをセッティング出来たんだぞ。主役のお前がいなきゃ話にならんだろ?」  僕の知ったことじゃない。いつでも川越はそうなんだ。断りなしに僕を引き合いに出しては女の子を誘って合コンだと言い張る。でもそれは口実で、川越は僕を女の子用のエサにしていて、自分が女の子と遊ぼうとしているのだ。  川越はいつも隙があれば僕を写真に収めようとする。夕方の休憩スペースで時間を過ごしている時や、朝の出勤したてのネクタイを緩めている時も僕の写真ばかりを撮りたがる。理由は分かりきっている。自分が誘いたい女の子にその写真をチラつかせては合コンをしようと持ちかける。  僕は川越が言うほどイケメンではないし、背も高くない。取り立てて高学歴でもないし、実家が金持ちな訳でもない。  僕は川越がの方が僕なんかよりずっとモテると思う。なのに川越は僕をいつでも引き合いに出す。全くおかしな奴だ。 「なあ、マジで帰るのか?」 「ああ、帰るよ」 「わかった。じゃあ次は付き合ってくれよ? 俺を嘘つきにしないでくれよな」 「今度、な」  僕は身支度を整えると、新橋駅の待ち合わせ場所へ急いだ。  今日は十何年ぶりかで亮に会える日だ。  亮は僕の地元の同級生で幼馴染みだ。幼い頃から近所付き合いがあって、いつも一緒に遊んでいた。でもある時、両親の仕事の都合でカナダへ行ってしまった。  あれから何年になるのだろうか。バイリンガルになって、もう遠い存在になってしまったかも知れない。  そんな亮から連絡が来たのは三日前のことだった。亮の声は大人っぽくなっていて、すぐには亮だとわからなかった。でも話しているうちに長い時間に出来てしまった溝は埋められ、まるで昨日までずっと一緒にいたような錯覚を覚えてしまうほどだった。  亮は僕の初恋の相手だった。多分……いや間違いない。  でも離れ離れになってからはずっと亮のことは考えないようにしてきた。考えてしまうと寂しくてやりきれなかったからだ。  幼い僕には、その距離はどうすることもできない大きな隔たりだったんだ。  新橋駅の烏丸口改札を出ると、大きく手を振る亮がいた。身長は僕よりずっと高くて、軽く百八十センチを超えているようだった。 「康太、元気だったか? お前随分見ない間に小さくなったな」  ちょっぴり嫌味なところも昔と少しも変わっていない。 「縮むわけないだろ。お前が勝手にでかくなっただけだろ」 「お、少しは言い返せるようになったか、リトルボーイ?」  リトルボーイだって? いくら帰国子女だからって、その言い方はないだろう。 「で、どこに連れて行ってくれるんだ?」  日に焼けた亮の横顔を見ていると、まるで恋愛映画のワンシーンに自分が溶け込んでいるような錯覚を覚えてしまう。いや、そこは妄想と言うべきか。 「亮と一緒にこの近くにあるイタリアンバルへ行こうと思ってさ」  行き先を聞き終えると、亮はいきなり僕を抱きしめた。この大勢の人混みの中でだ! 「やめろよ亮! ここは外国じゃないんだから。離せよ!」  僕は心臓の鼓動が跳ね上がり、呼吸が乱れた。でも心の中では、離れないで欲しいと願った。広い肩幅、思っていたより厚い胸板、僕よりずっと太い腕。そしてどこか外国人めいた感情の表し方。すらっと伸びた脚はまるで雑誌のモデルのように思えた。  そして懐かしいその顔はすっかり大人びて、僕には眩しかった。 「俺はよくわからない。康太がオーダーしてくれよ」 「苦手なものはある?」  僕たちは幼い味覚しか持ち合わせていない頃のことしか覚えていない。確か亮は魚が苦手で、いつも残しておばさんに怒られていた。  僕はテーブルに水の入ったグラスを持って来てくれた店員さんに、適当にオーダーを伝えた。  トマト、モッツァレラのカプレーゼ、パンツァネッラ添え  牛ホホ トマト煮込み、フィレンツェ風  ノストロモ(ツナ・オリーブ・ケッパーのピッツア) 「飲み物はワインでいい?」 「ああ、それなら赤だな。それよりお前さ、俺が魚介類ダメなの覚えていてくれたのか?」  僕ははっきりと思ったことを口にする亮が羨ましいと思った。僕とは全然違う。あの頃も、そして今も。 「うーん、何となくね」 「やっぱり俺の好きな康太だ」  グラスワインを運んで来た店員さんの手元が僅かに動揺を示していた。 「亮、ここは日本なんだから、そんな言い方をしたら誤解されちゃうってば」 「誤解? ふーん、そんなもんか」  言い終わると亮はグラスを僕に差し出した。 「さあ康太、十二年ぶりの再会に乾杯だ!」 「乾杯!」  カチャンとワイングラスが軽やかな音色を響かせた。  いつになく爽やかな酔いが僕を包み込んだ。僕はそんなにお酒は強い方じゃない。でも今夜はとても気持ちが良かった。何杯目のグラスだったろう。僕はすっかり酔いが回ってしまった。 「康太、大丈夫か? 飲み過ぎたか?」 「平気だよ。それに今夜はとっても気分が良いから」  僕は自分の口から出ている言葉が、自分が思っているより遠くで聞こえた。   多分酔っているな。そう思った。 「そろそろ帰ろうか、康太。今夜は俺のとこに泊まっていけよ。どうせ帰っても一人なんだろ?」  悔しいけれど、亮の言う通りだった。就職とともに親元を離れて、一人暮らしを満喫していると思っていたけれど、部屋に帰れば一人きりだ。寂しくないと言えば嘘になる。 「彼女に嫌がられない?」  僕は亮の返事が怖かった。これだけカッコイイんだから、彼女がいても不思議じゃない。でもその現実を思い知るのは、僕にはまだ勇気が足りなかった。 「へ? 女なんていないよ。何考えてんだ、康太?」  思わず僕の口角が上がったのは自分を取り繕ったからではない。本気で嬉しかったからだ。 「同居人がいるけど男だ。気にすることはないさ」  僕は嬉しさのあまり、ついグラスに残ったワインを一気に飲み干した。 「おいおい康太、大丈夫か?」 「大丈夫だよ、これくらい」  僕はそんな言葉を口にしたんだろう。もう僕の言葉は頭じゃなくてどこか違う思考が働いていた……そうとしか思えない。でもはっきりと覚えていることはある。  僕は泣いていた。悲しくってじゃない、嬉しくて。  本当に久しぶりに亮に会えたことが嬉しくて堪らなかった。そして僕は亮に肩を支えてもらいながら亮の部屋へ向かった。  あんまり自信がある記憶ではない。でもその時、僕にははっきりと聞こえたんだ。 「好きだよ、康太」って。

ともだちにシェアしよう!