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第2話 瓦解

 康太が亮に肩を抱かれながら辿り着いたのは、品川にある瀟洒な高層マンションの一室だった。康太には、どう見積もっても自分たちの年齢で購入できるマンションだとは思えなかった。 「すごいね、ここ」  半ばぼんやりした頭で康太はポツリと呟いた。玄関は康太の家の倍近くある広さで、一面が大理石張りで、光の当たるもの全てを浮かび上がらせた。 「入れよ」  亮に促され、康太は靴を脱ぎ、つま先を揃えて靴を並べ直した。  亮はそんな康太の様子を見ながらクスリと笑みを零した。 「康太、几帳面なんだな」 「え? あ、いやそんな……」  後ろを振り返り、康太が取り繕おうと言葉を探しかけた時に、康太の口はそっと塞がれた。康太の後頭部を大きな掌が包み込み、左の頬に逞しい指が触れた。それは一瞬の出来事だった。  康太がずっと昔から閉じ込めて、記憶の奥の方へ押しやっていた感情が不意にその姿を現す。 (僕はずっと亮のことが……好きだった)  脱力したように地球の引力に拐われていたはずの康太の両手が、亮の背中を求めて彷徨う。その手が亮に触れた瞬間、康太はいっそう強く唇を吸われた。 「んんっ」  自分で驚いてしまうほど甘い吐息を漏らしながら、康太は亮の背中を掴む手に力を入れた。  すっと亮の唇が離れ、康太は視線を彷徨わせた。 「さあ、部屋に入ろう。もう少し飲むか? それとも……」  甘い言葉の中に、拒絶出来ない威圧を感じた。だがそれは決して嫌悪するようなものではなかった。むしろ康太は自分がその言葉を待ち望んでいたのかも知れないと感じた。 「もう……お酒はいい」 「わかった。俺は先にシャワーを浴びてくる。冷蔵庫に飲み物があるから好きに飲んでいていいぞ」  康太は指さされた方向へ視線を向けた。 「ありがとう、亮」  康太が視線を戻すと、上半身が裸になった亮が佇んでいた。康太は顔を赤らめ、動悸を早くした。 「俺を見たいか、康太?」  おずおずと視線を亮に戻しながら、康太はコクリと首を傾けた。亮の手が綿のパンツからベルトを引き抜き、一気に下着ごと床に脱ぎ捨てた。  康太は子供の頃の記憶を引き伸ばしてみた。だがその中には見つからないほどに、広い肩を支える艶やかな筋肉、引き締まった腹筋、そしてその中心から突き出して天井を向いた男の証し。その全てが康太の自意識を揺さぶった。 「俺にも見せてくれるか、康太」  恥ずかしい。康太は思った。でも抗うことも出来ず、康太はシャツのボタンに手を掛けたまま、凍りついたように動けなくなった。 「慌てることはないさ。俺は先に入るから、後から入って来いよ」  そう言い残し、亮はしなやかな肢体を翻し、バスルームに向かって歩いて行った。 「ここがバスルームだから。トイレは向かい側だ」  不敵とも思える笑みを残し、亮の姿はドアの向こうへと消えて行った。  康太は背中を壁に押し付け、大きく深呼吸をした。自分でも驚くほど呼吸が乱れていた。そして教えられたバスルームの向かいにあるトイレに入ると、ドアを閉め、ドスンと座面に腰を落とした。  横に張り出したコントロールパネルのスイッチを押してみる。勢いよく飛び出してくる温かな水流に、康太は思わず顔をしかめた。 (僕は初めてじゃない……)  康太は亮に会えなかった歳月をただ一人で過ごしてきた訳ではなかった。数えるほどでしかないとしても男に抱かれたことはある。恋愛と思えるような経験もした。  だが今の康太は、それが後ろめたいという感情に苛まれていた。 (亮にはっきり言おう。僕は初めてじゃないって。何度も経験してるって)  そう考えると、康太は少しだけ肩の重荷が軽くなった気がした。  ピントを合わせられない画像のように、肌色の影がすりガラスの向こうで僅かに動いている。そこには決して思いを打ち明けられなかった亮がいる。そして康太は扉のノブに手を掛けた。 「来いよ、康太」  大きな背中が話し掛けてくる。  康太は思い切りその広い背中にしがみ付いた。降り注いでくる水の流れなど気にも掛けず康太は口を開いた。 「亮、好きだったずっと、ずっと前から」  亮の大きな手が前に回された康太の腕を掴んだ。 「気付いていたよ、俺も。ずっと前から」  康太の肩が不規則に跳ねた。そして康太は声を殺して泣いた。  亮は康太の腕を解くと、身体を捻って康太に向き合った。裸のまま向かい合った二人は、言葉も交わさず、どちらからともなく互いの唇を求めた。床に流れて跳ねる水の音だけが二人の耳に届いていた。 「ほら、俺が拭いてやる。風邪を引いたら大変だからな」  康太は戸惑いながらも、亮の申し出を断る理由を見つけられなかった。床に片膝をついて、亮が康太の足元から丁寧にタオルで拭ってくれた。腰に背中に、亮の感触を感じるたび康太は動悸を早くして、立っているのがやっとだった。  腰にタオル一枚の姿のまま亮に手を引かれ、康太はベッドルームへと導かれた。  急に振り返った亮は、さっきまでの優しい顔をした亮ではなかった。じっと康太を見据え、口を真一文字に結んだ男は、明らかな欲望をその両目に湛えていた。  康太には理解できた。それが今から自分を抱こうとする男の瞳に間違いないということを。 「亮、僕さ……亮が初めてじゃない。僕は……」 「処女じゃないって言いたいのか?」  康太は思わず言葉を飲み込んだ。亮は天井を見上げて、僅かに微笑んだ。部屋の灯りはは落とされ、ベッドランプが亮の影を長く引き伸ばして、何倍にも大きく見えた。亮の後ろに別の亮がいる。康太はそんな妙な妄想を思い浮かべ、微かな不安を覚えた。  確かに自分はこの数年間の亮のことは何も知らない。亮がどこでどう過ごしてきたのかも。お互いに相手のことを知らなかったと言うのに、突然の再会というだけでこんなことをしてしまっていいのだろうか。  康太は思わず視線を床に落とした。 「康太、不安になったか? いきなりこんなことになって」  康太は顔を上げ、亮の瞳を見つめた。まるで亮には全てが見通されていると康太は感じていた。 「でもな、いきなりじゃないんだ。ただ言えなかった。五年前、両親の仕事の都合で日本を出て行くことになって、自分の気持ちをお前に伝えることが出来なかった」 「でも手紙とか、メール……まだ携帯さえ持っていなかったよね、僕たち……」 「謝ってもいいと言ってくれるなら、俺はお前に謝りたい」  亮は床に両膝をついて、康太の両手を掴んだ。 「亮が謝る必要なんてないよ。そんなこと望んでないし」  亮は康太の手を引き寄せ、その甲にそっと口ずけを落とした。 「ありがとう、康太」 「ううん、お礼を言いたいのは僕の方だよ。だって僕は亮が知っている頃の僕じゃない。僕は、僕は亮が知らない人に抱かれた。何度も、何度も……だから」  康太のそれ以上の懺悔は徒労に終わった。二人はベッドに倒れこみ、互いの唇を求め、互いの身体に真っ直ぐな心を這わせた。  夜が照れて早足に辺りを静まり返らせた。  康太の吐息は荒く、その声は厚い壁さえも通り抜け、夜のしじまに吸い込まれていく。 「亮、あっ、い……!」  時折聴き取れるのは、康太の肉体に触れることを許された亮にだけわかる、愉悦を受け入れる康太からの合図だけだった。

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