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第6話 時のいたずら

   康太たち三人は食事を終えるとリビングに移動した。亮が手早くダイニングテーブルから食器を片付け、キッチンへ運んで行った。 「あ。亮、僕も洗い物手伝うよ!」 「大丈夫。食洗機があるから手伝いはいらないよ。それよりコータ、これを先輩のところへ持って行ってくれないか?」  康太が亮から頼まれたのは、シャンパングラス三つと、チーズとチョコレートが入ったガラス製のポッドが載せられたステンレス製のトレイだ。 康太はリビングのローテーブルの上に注意深くグラスを並べ、中央にガラスのポッドを置き、蓋を外した。 「康太、でいいかな? あ、呼び方さ」  康太は蕪木に初めて呼び捨てで名前を呼ばれて、まるで目眩のような感覚を受けた。元来、康太は耳から届く空気の振動が、五感に直に沁み渡るような感覚があった。耳元で囁かれるだけで一種の陶酔感さえ覚えるのだ。そしてそういう時に、康太はつい妄想を頭に描き出してしまう癖がある。 (康太、気持ちいいか? ならこれはどうだ?)  そこまで身勝手に妄想を拡げておきながら、まるで何事もなかったかのように必死で頭の中の残像を掻き消す。だが妄想に囚われ過ぎて脚がもつれて身体の重心がぐらりと揺らいだ。 「危ない!」 一瞬の事だった。  正気を取り戻した康太は、自分が蕪木に抱きかかえられていることに気付き、顔を赤らめた。 「あ、あの、すみません蕪木先輩!」  蕪木の顔は康太のすぐ鼻先にあった。笑うでもなく、怒るでもなく、まるで睨み据えるような蕪木の表情に康太は息を詰めた。 「酔ったかな?」 「いえ、大丈夫です!」  心臓は蕪木に聴こえてしまうのではないかというくらいにでたらめな鼓動を打ち、喉元まで突き上げてきた。 「可愛いいな、康太」 「えっ?」  康太は自分の耳を疑った。まさか蕪木先輩が自分に対してそんな言葉を告げるなど、想像さえしなかった。 「何? ラブシーン?」  キッチンの片付けを終えた亮がリビングに入るなり二人のハプニングを茶化した。 「ち、ちがうよ!」  慌てて居住まいを正す康太は、返す適当な言葉さえ見つからなかった。 「俺さ、今からちょっと用事があるから」 そう言うと蕪木はテーブルを立ち、自分の部屋に戻って行った。 いきなりの蕪木の行動に康太は戸惑った。 「あー、蕪木先輩はいつもあんな感じだからさ。気にしなくていいよ」  亮の気遣いに、康太はほっと心の置き場を見つけ出せた思いだった。やはり亮は頼りになる。康太はそう感じていた。 「蕪木先輩、優しいだろ?」  亮はシャンパンのボトルを置くと、康太の隣に座った。そして何食わぬ顔で新しいシャンパンの栓を抜いた。 「う、うん。でも蕪木先輩これから出掛けるのかな?」 「そうみたいだな」  自分の前に置かれたグラスにパチパチと弾ける泡が張り付いていく。まるで催眠術にかかったように康太の目はグラスに吸い寄せられた。 「コータ覚えてるかな。お前がある時、捨て犬を大事そうに抱えて公園のベンチに座っていたこと。ほら、半べそかきながら子犬に謝っていただろ?」 「うん、覚えてる」  康太はあの時のことを忘れたことなどなかった。家に連れ帰った捨て犬を見咎められ、父親に怒られ、それでも子犬と離れられずに小雨が降る公園の片隅で子犬を抱いたまま泣いていた夜のことを。  康太にはまだそれほど長くはない人生で、一番の悔恨を残した大きな出来事だった。  しばらくして、康太の母親から連絡を受けた亮が心配して康太を探し出してくれたのだ。  あの時の子犬はどうなったのだろうか。康太は今日までそれを亮に聞けずにいた。身を切るような思いで別れてしまったあの子犬は、今もどこかで生きているのだろうか、と。 「亮、僕さ、ずっと聞けなかったんだけど、あの時の子犬はどうなったの?」  亮は目をまんまるくして驚いた顔つきをした。 「そうか、お前に話してなかったっけ?」 「うん……怖くて聞けなかった」  すると亮は満面の笑みを浮かべ、康太の瞳を覗き込んだ。 「知りたいか?」 「うん」 「ならキスさせろ」  亮の要求に康太は呆れてぷくっと頬を膨らませた。昔話を聞き出す代償として求められるキスに感動なんてない。それは自然に心が求めるものであって欲しい。康太は少しだけ腹を立てた。 「なんだ、嫌か?」 「そうじゃなくて……」  くっと一息にグラスを煽ると、亮が話を切り出した。 「あの子犬はさ、蕪木先輩が引き取ってくれたんだ」  康太は驚いて口元に運びかけたグラスを取り落としそうになった。シュワシュワとグラスの泡が不満を漏らすように弾けていく。 「蕪木先輩が?」  グラスから抜け出た泡が康太の心にびっしりと張り付き、プチプチと音を立てた。 「あの日、コータから子犬を預かったまでは良かったんだけど、よく考えたら、うちはくいもの屋だろ? それで考え込んでいたら、そこに蕪木先輩がひょっこり現れたんだ。事情を話したら子犬を引き取るって言ってくれたんだ。但しコータには内緒にしておけって」  康太は最後の言葉に引っ掛かりを覚えた。 「蕪木先輩はなぜ僕のことを知っていたの? それに何故内緒にするように言ったの?」 「さあ。その時は大して気にしなかった。だって子犬が無事ならそれでいいやって思ったんだ」 「そうか。そうだったんだ。蕪木先輩が……。ちっとも知らなかった」 「そう言えばあの時、小雨が降っていただろ? コータさ、濡れねずみみたいだったもんな。それに蕪木先輩もずぶ濡れだったんだ。ずっと前からあの公園にいたのかも知れないな」  康太はふと、あの日のあの場所に思いを馳せた。  あれは悲しいとか、辛いという感情ではなかった。そんな心が揺さぶられるような傷みではなく、ただ空虚な感覚だった。 その正体が何であったのか。康太は今でも答えを見つけられないでいる。  例えるならば風が止まってしまった風車のように、水の流れを堰き止められた小川のように、思考のほとんどが止まっていた。僅かに聴こえていたのは、悲しげに誰かを呼ぶ子犬の喉を鳴らす声だけだった。涙は枯れて額から伝わる雨が頬を流れ落ちた。  やがて亮に何度も声を掛けられて、ようやく康太の意識は息を吹き返した。  あの時、もしかすると蕪木先輩が康太をじっと見守っていてくれたのかも知れない。前には出ずに、声を掛けたりもせずただ静かに見守っていてくれたのかも知れない。康太はそう思った。  誰にも助けを求められず、苦しんでいた自分の思いに気付いてくれた人がきっとそこにいたのだ。そしてそれが誰なのか、今初めて知ることができたのだ。  康太の瞳から温かな涙が零れ落ちた。 「あの子犬、大きくなったぞ。今も蕪木先輩の実家で元気にしてる。なあ、名前を知りたいか?」 「うん」 「ふふふっ、コータって言うんだぜ」  康太はまるで顔の正面から水を被せられたような衝撃を受けた。 「おいコータ? 泣いているのか?」 「嬉しくて……蕪木先輩があの子犬を救ってくれたなんて……知らなかったから」  亮は康太の頭を優しく撫でると自分の胸元に引き寄せた。 「子犬のコータもお前も、蕪木先輩に救われたんだな。俺も俺の両親も皆んな蕪木先輩に救われたんだ」  亮の瞳から零れた涙が康太の頬に触れた。康太はそっと両腕を亮の広い背中に回した。 「ただいま」  玄関先から声がした途端、犬の鳴き声がした。まるで子犬がはしゃぐような甘えた声だ。  康太は驚き、リビングのドアを開けた。するといきなり真っ白な塊が康太に飛びついてきた。 「うわぁ!」  思わず驚きの声を上げる康太の鼻先、口元、頬、顔中を大きな舌が舐め回す。 「先輩、連れてきてくれたんですか? にしてもしばらく見ないうちに随分でっかくなったな、お前?」  亮が声を上げた。 「康太が会いたいんじゃないかと思ってな」 「蕪木先輩! これって……もしかしてあの時の?」  蕪木が頭を掻きながら笑顔をくしゃくしゃにした。 「名前だけどさ、まさか本人に会わせることになるって考えてなかったから……その……」  康太が犬を抱えたまま、蕪木の照れたような瞳をじっと見つめた。 「コータ、ですよね?」 「えっ? なんで……なんだ亮、先に話したのか」  亮は一瞬だけ蕪木を見やると、顎に手を当て、肩を左右に揺らしながら笑い続けた。  犬のコータは康太から離れようとはしなかった。まるで再会を喜んでいるかのように。 「お前、コータ。僕のことを覚えていてくれたの?」  まるでその言葉を待っていたかのように、コータは一つ、優しく吠えた。  蕪木はリビングのクッションに座り込むと、コータの毛並みを愛おしむように撫でた。 「こいつの散歩はいつもあの公園だった。こいつ、いつも必ずあのベンチの傍に座り込んで、帰ろうとしないんだ。きっと康太が帰ってくると信じていたんだろうな」  康太の瞳に大粒の涙が浮かんでは零れた。 「コータ。たった三日だけしか一緒にいられなかったのに。それでも僕のことを覚えていてくれたの?」  コータはじっと康太の瞳を見つめ、その慈しみ深い目から落ちてくる涙をすっと舌先で舐めた。 「ごめん、僕はお前が僕を待っていたなんてちっとも知らなくて。僕は自分のことばかり考えて生きてきたんだ。ごめん、コータ」  蕪木が髪を掻き上げながら視線を床に落とした。 「すまない、康太。本当はもっと早く会わせてやりたかった。こいつは元気で生きているぞって教えてやりたかった。でも……言い出す機会もみつけられなくて」  康太は蕪木をじっと見つめた。 「蕪木先輩、ありがとうございます。こんなに大きくなったコータに会わせてくれて」  犬のコータは辺りを暴れ周り、時折康太の顔を舐めながら傍を離れようとはしない。 「コータ、全身真っ白になっちゃって」  亮が焦れたように会話に割って入ってきた。 「ちっちゃい頃はもう少し茶色っぽい感じだっただろ? 犬の毛並みってさ、親の遺伝子に忠実にキレイに生え変わるんだぜ」 「そうなんだ」  蕪木が再び頭を掻きながら口を開いた。 「康太、もし嫌じゃなければいつまでもここにいて構わないよ。そしたらこいつの世話も頼めるしな」  亮がいきなり素っ頓狂な声を上げた。 「えっ? ワンコここに引き取るの?」 「いつまでも両親に預けているのも気兼ねだし、こいつも寂しがるだろうからな」  康太はすっと立ち上がり、蕪木の傍に座り直した。 「蕪木先輩、本当にコータと一緒にいてもいいんですか?」  蕪木は顔をほんのり赤らめ、傍に寄り添ってきた犬のコータの頭を撫でた。 「こいつと一緒にいてくれるか?」  すると亮がわざとらしく咳払いをした。 「蕪木先輩、まだ本音は隠したまんま?」  亮は腕を組み直し、左の口角を上げた。 「蕪木先輩はさ、お前が好きなんだよ」  亮の言葉に、康太は自分の耳を疑った。 「ええっ?」 「蕪木先輩、犬をだしにするのは男らしくないですよ、まるで中坊だ。康太、蕪木先輩の本音は、ワンコも含めて三人で一緒に暮らしたいんだよ」 「えっ? ええっ?」  亮は康太に顔を近づけて囁いた。 「三人だって愛し合うことはできるだろ? それにお前も蕪木先輩のことが好きだろ?」  康太には衝撃的なことばかりだった。  まるで頭の芯が痺れていくような不思議な感覚に包まれ、康太は言葉を失っていた。  だが反面、はっきりと理解もしていた。自分は亮も、蕪木先輩も好きだということを。

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