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第0話 はじまりのはじまりの、はじまり

 なにもない。  空っぽの空。  変わらない空間。  変わらない毎日。  朝起きて、学校に行って、友達とだべって、かえって寝る。  流れる時間に身を任せる。  それだけ。 「あっつっっ」  太陽は空の一番上。  ママチャリを漕ぐ自分を嘲笑うかのように照りつける陽光がヒリヒリと肌を焼く。顎を伝う汗がアスファルトに落ちて一瞬で消えた。 「くっそ、あっちぃぃ」  高校2年の長い夏休みに入って2週間。予定もなくダラダラとリビングのソファに寝そべる俺にキレたのはかーちゃんだった。「スーパー坂上で特売のカマス6尾買ってきな」有無を言わさない圧力に財布片手に家を出て、今、ここ。  スーパー坂上、長い長い通称地獄坂を登りきった者だけがたどり着ける、坂の上にそびえるスーパー。 「ふっざけんなよっさかうえっ」  蝉だって鳴かない。暑すぎて。  熱風がジトジトと体にまとわりついて不快指数MAXだ。  立ち漕ぎでチャリを漕ぐ。  ジトリ、また汗がわいた。 ****** ****** ****** 「涼し……」  こじんまりとした店内の中は冷房が効いていて、汗で濡れたTシャツがひんやりと肌を覆う。温度差に鳥肌が立った腕をさすりながら、目指すは鮮魚コーナー。野菜売り場横の棚を突っ切って、精肉の隣。この店の売りが鮮魚なだけあってそこそこのスペースにあらゆる海鮮食品が並んでいる。その中の一角にPOPにデカデカと『今日の特売品』と書かれた目当てのカマスが発泡スチロールの中、氷水に入って浮いていた。  トングを取ってセルフのビニールを広げそこにキラキラとひかる魚体を入れていく。  1、2、3、4、5……数えたところで「げっ」と思わず声が出た。  頼まれた数に1尾足りない。5尾のカマスでずっしりとしたビニール袋を見下げ、発泡スチロールの中をもう一度見る。  氷しかないそこの少し上、POPの端になくなり次第終了の文字を見つけ小さくため息をつく。  仕方ない、ないんだから。  かーちゃんに連絡を、とポケットのスマホを取り出す。 「あの……」  代わりの何かを買うにしてもかーちゃんの許可が必要だ。  『カマス1尾足りない』メッセージを送る。 「あの、あの!」  ぽんぽんと遠慮がちに叩かれた肩に驚いて、そちらを見やる。 「あ、ごめんね驚かせて」  自分より随分とデカいその人と目が合った。  その瞬間、引いたはずの汗がどっと湧いた。 「もしかして、お魚足りないのかなって」  全身の毛穴が開いて、グワンと世界が反転する感覚。 「もしよかったら、これ」  差し出された袋に入った1尾のカマスに反応出来ずにいる俺にその人は笑った。  丸っこい目をふにゃりと細め、ゆるい生クリームみたいにとろりと。 「どうぞ、俺は他のでもいいから。あ、1尾しかないけど足りる?」  ドクン、ドクン、ドクン、うるさい位に鳴り響く音が耳に響く。体内を駆け巡る血が沸騰してるみたいで、あつい。 「どうぞ」  差し出されたそれをのろのろと受け取る。一瞬だけ触れた指先がカッと燃えた。  五感が目覚めるみたいな、世界が一瞬にして動き出したような、まるで息が追いつかない。  行ってしまう。  その人が。  もう一度微笑んだその人が、背を向けた。  なかったはずの香りが、スッと体内を流れた。  まずい、思う前にその一瞬の香りが全身に染み付いた。  多分、自分は、この香りを忘れられない。  多分、ずっとだ。  今日という日から、この先ずっと。  行ってしまう。  その人が。  ハクリ、喉がなった。  心臓が狂ったようになっていた。 「いってぇ、」  そこを押さえる。  足は一歩も動かなかった。  行ってしまった。あの人が。 「なんだ、これ……」  沸騰した血があちこちを焼き切っていく。 「……どうすんだよ」  どう、すりゃいいんだ。  こんな強烈な感情。こんな強引な引力。    何もなかった17の夏。  俺は坂の上のスーパーで、恋をした。  たった一瞬で、世界が動き出す。  そんな強烈な恋を。

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