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第1話

 よく晴れた春のような陽だまりの中、朧げな姿が揺らめいた。大きくなったり小さくなったり瞬く間に姿が移ろう。それでも白い肌は眩しいくらいに輝いて、青く銀色に透ける髪の色だけは変わらない。そうやって少しずつ彼が形づいていく。何かを確かめるみたいに彼の姿が形成されていく。 ——もうすぐだね。  心地よい声が響く。今日は彼の声ができた。きっとこれが俺のもっとも望んでいる声なのだろう。  いつものようにアラームの電子音で目が覚めた。直前まで見ていた夢はいつも煙のように消えてしまうが彼の夢は必ず覚えている。初めて聞いた彼の声もしっかりと記憶にある。それはとても嬉しそうで、何がもうすぐなのかもわからないのに俺も心が弾んでいた。  なおん、と甘えた声がベッドの下から聞こえた。声の方へ視線を落とせば行儀よく座った愛猫が大きな瞳でこちらを見つめている。 「おはよう小春」  微睡から抜け出せないままベッドから腕を伸ばすと小春はその小さな頭を一生懸命手の平に擦り付けた。温かくて柔らかくてなんと愛しい存在だろう。 「ああずっとこうしていたい……可愛い……」  なあん、と鳴くまったりした声はまるで小春が返事をしてくれているようで心地よい。  小春と出会ったのは3年前の秋でまだ就活中の頃だった。その日は良く晴れた暖かな陽気でバイト先へ向かうのが気分転換になるくらい気持ちの良い気候だったのを覚えている。なかなか希望する会社の内定が取れずじりじりとした心境で過ごした。そんな時で少しでも肩の力が抜けるのは有難かった。  日向ぼっこの心地でのんびり歩き、近所の畑に差し掛かった時だった。陽光を浴びあるように空を仰いでいた顔を地面に向けた。無性に脇道が気になったのだ。まるで名前を呼ばれたようにコスモス畑の一点に目が引き寄せられた。  そよ風に揺れるコスモスの影に小春が居た。  大きなヘーゼル色の瞳と目が合い、考えるよりも先に身体が動いた。確かに出会ったのはその時だったのに、まるではぐれた家族と再会したような、当たり前に共に暮らす選択をしたのだった。  コスモスに隠れてしまうくらい小春は小さかった。その日俺はバイトなんてそっちのけで小春をアパートに連れ帰り、彼の世話に明け暮れた。薄いグレーに黒の縞模様、真っ白なお腹はふわふわで愛らしい。可愛くて愛しくて仕方がなくて、子猫の世話は決して楽ではなかったけれど、それでも小春が元気に一日を終えられることが何よりも幸せだった。小春はすくすくと育った。猫を飼うのは初めてだったけれど、小春の性格は明らかに甘えん坊でのんびり屋だった。いつもそばに寄り添ってスキンシップをねだってくる。目が合うとなんとなく小春の要求が伺えた。撫でてほしいとかくすぐってほしいとかトントン叩いてほしいとか。人見知りもせず俺の友人にもよく懐くが、今まで会わせた彼女にはどの子にもあまり寄り付かなかった。もしかすると女の子か、あるいは香料などは苦手なのだろうか。それでも小春に会う人は皆小春を可愛がってくれていた。それは俺の贔屓目抜きにしても美しい姿がそうさせるのかもしれない。  そういうわけで俺は小春が居てくれることで就活も卒論も頑張れたし、新卒の一年間も無事に過ごせた。小春が居ることで不思議と辛いことも和らいだ。俺には小春がいない生活なんてもう考えられなかった。その想いが強過ぎていつか来る小春との別れを想像して涙を流したことは一度や二度ではない。 「ずっと一緒にいたいよ、小春……」  そういう時、小春はいつものように「なあん」と返事をして寄り添ってくれた。  ド平日の朝は慌ただしい。何時間でも小春と戯れていたい気持ちを律して出勤の準備をした。数秒でも余裕ができれば小春を構い労働の意欲を奮い立たせた。小春のために俺は今日も頑張るのだ。一生懸命働いて、少しでも多く金を稼ぎ、少しでも早く家に帰り、少しでも小春と長く居られるように自分と小春の世話をする。  今日も一日頑張るぞ! 「行ってきます小春。いい子でね」 「なあん!」 ——がんばってね! 「え?」  聞こえるはずのない声に、ドアに伸ばした手を止めた。  まさかと思う。まさかと思い気になって気になって仕方がなくても日本のサラリーマンは会社に向かう。駅までの道中、満員電車の中、会社までの数分間、俺はひたすらネット検索した。 【猫 転変 予兆】  人間と暮らす哺乳類は時に「転変」する。まだ謎の多い現象だが飼い主とペットが特別な縁で結ばれるとペットがヒトの姿に変容することがあるのだという。それはとても稀な現象だが確かに起こりうる、ペットと暮らす人間ならきっと誰もが一度は夢に見る奇跡だ。  俺はもちろん小春をこの上なく可愛がっているがそれを特別なことだとは思っていない。ペットを飼っているなら誰しもがこのくらい愛情を持って接しているもので、まるで宝くじが当たるようなそんな幸運に恵まれると思う程自惚れてはいないつもりだ。  だけどもし本当に小春が転変したら……?  俺は夢に見た霞がかった青年の姿を思い浮かべた。今日初めて聞いた声はのんびりした甘えた声ではなかったか。それもおっとりした小春の声にぴったりな……。  ネット検索の結果では転変の予兆として断定されるものは明記されていなかったが、やはりアプローチの傾向があるようだ。意思疎通が図れるようになったり、俺のように夢に見たり、天啓のように予感する場合もあるらしい。  意識してからはほとんど確信に近かった。初めて小春に会ったあの瞬間、俺達は確実に惹かれ合っていた。今思えばあの時に縁が結ばれたとして不思議はない。俺は出社次第上司へ小春の転変の可能性について申告した。  それから数か月、あの日のような小春日和に俺の愛猫はついに転変した。 「あ、わあ、ああ、おれ、おれ! こはる!」  動揺した何者かの声に目を覚まし、隣り合う体温に目を向けるとそこには世にも美しい青年が横たわっていた。薄いグレーに黒が混ざった髪は肩にさらりと流れ、月明かりのような白い肌はカーテンを引いた暗い部屋でも輝いている。小春はヘーゼル色の瞳に自分の指を映し大きな驚きと感動を覚えているようだ。 「小春」  横になったまま名前を呼ぶとそれまで落ち着きのなかった瞳が一気に潤んだ。 「おなじ、こはる、おれ、ずっといっしょ」  まだ腕の使い方がわからないのか、小春は俺の顔目掛けて頭を擦り付けた。さらさらの髪とまだ残るふわふわの猫の耳が頬に擦れてくすぐったい。言葉も覚束ないままに小春が必死に伝えた想いに俺も涙を流さずにはいられなかった。 「うん、うん、俺達ずっと一緒だね、嬉しいな」 「うれしい、すき、すき、こはる、おれ、すき」  新しい小春の身体を確かめるように抱き締めていつものように唇を押し付ける。小春も俺の真似をして俺の背に腕を回した。温かくて柔らかくてなんと愛しい存在だろう。  この日から俺と小春の新しい日常が始まった。

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