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第9話
絶えず鼻がムズムズし、目の痒さに涙を流す春は苦手だった。だけど今年はどうだ、窓から射す暖かな陽光はまるで俺たちを祝福しているようだ。
「日和、泣いてるの? お薬飲んだ?」
来る入学式に向けてスーツを着た小春の輝かしいことと言ったら……。優しく輝くアッシュグレーの髪が白い肌にさらりと流れ、この数日花粉症で荒んだ俺の顔面を心配そうに覗き込む。スーツに合わせて結んだ髪が形の良い頭を強調し、細い首筋にはくっきりと喉仏が浮き上がりなんとも言えない色気が露わになっている。それに加えてダークグレーのスーツが小春の瘦身をよりスタイリッシュに見せており、購入した値段よりも遥かに上等な物に見えた。
いつもふわふわかもこもこ、あるいはゆるゆるな部屋着ばかりを着せていたのでこのギャップは眩しかった。可愛いばかりの俺の猫ちゃんが爆イケの美男子である現実を叩きつけられたのだ。
「カサカサのところ小春がお薬塗ってあげるね……」
俺が洟を啜り涙を滲ませると小春は悲しそうに擦り寄った。優しく純粋に育った小春に感動を覚え花粉症とは別に涙が込み上げた。
「泣かないで~!」
「小春ありがとうね……」
ああ、爆イケ猫耳美男子が俺の涙を拭っている……。花粉症で止まらない涙を見て純粋な心を痛めている……。優しい……可愛い……。今年はもっと本気で花粉症対策しよう……。
とうとう小春は転変者用の学校へ入学することとなる。元の種別も年齢も様々な者たちがこの社会で生きるのに必要な知識と常識、そして社会性を身に着けるために通うのだ。人懐っこい小春は入学を心待ちにしており、初めての友達を作ることを楽しみにしている。
その一方で俺は不安を感じていた。
「小春が虐められたらどうしよう……ちゃんと学校に馴染めますかね? 授業とか真面目に聞けるのかな……そんなことよりひとりで通学できるのかな? 変な奴について行ったりとか……!」
「心配事が付きませんねえ」
「小春ちゃんとお勉強するよ!」
小春が問題なくひとりで留守番ができるようになってからクロさんがうちに来るのは月に一回の面談日のみとなり、俺は入学前最後の面談で不安な気持ちをぶちまけた。クロさんはあっけらかんと俺の気持ちを受け止め、クロさんに会えてご機嫌な小春は俺の不安などまったく勘定に入れていない。
「通学は練習した方がいいですね。それから変質者の問題は無視できないので防犯は徹底しましょう」
そう言ってクロさんは自身でも活用している防犯対策について紹介してくれたのだが、防犯グッズだけでも防犯ブザーに催涙スプレー、防犯アプリやGPSなど重装備だった。それが逆に俺の不安を煽る。
「こ、こんなに色々持たなきゃいけないくらい転変者の一人歩きは危険なんですか?」
「私の主人がうるさくて……」
クロさんは俺の反応を見て少し恥ずかしそうにしたが俺にはクロさんのマスターの気持ちがわかる気がした。もしも小春に何かあったらと考えるとできる限りの対策を講じておきたいと思うのは当然だ。
「それから、日和さんは入学式に出られそうですか?」
話題を変えたいような口調でクロさんが切り出した。
「はい、有給が取れそうなので小春の晴れ姿を見に行きますよ」
クロさんにそう伝えると小春は嬉しそうに俺の方へ飛びついた。首元に擦りつく耳がくすぐったい。
「それなら良かった。きっと小春くんの学校生活についての心配はなくなりますよ!」
「どういうことですか?」
「学校楽しみだね~!」
それからは小春も交えて入学案内のパンフレットを見ながら入学に向けてのあれそれを聞き、俺の不安は徐々に楽しみへと変わっていった。
そして迎えた入学式。桜はちょうど満開を迎え、空は澄み渡るような快晴だった。浮足立った小春はこの上ない日和にさらにテンションを上げ、髪に桜の花びらを付けて笑う姿は大袈裟にも幸福の象徴のようだと思えた。いつもなら大きな桜の樹や近所のチューリップの花壇に気を取られてしまう小春だが、道中のワクワクには目もくれず、無表情のサラリーマンたちの間を縫って駅を目指した。
練習通りに通学定期を改札にタッチして小春は満足そうに俺を振り返り手を繋いでずんずんと電車に乗り込んだ。車内でも落ち着かず案内板や窓の外に目を向けて大きな瞳を輝かせている。俺はこの瞳がどうか曇ることがありませんようにと祈るばかりだった。
学校の最寄り駅に下りるとそこには小春と同じく動物の耳や尾を持つ者が大半だった。これまで通学の練習で何度か来たことはあったがいつも休日あったため転変者を見掛けることがなかったため、これほど転変者がいるのは不思議なように思えた。
「わ、わ、みんな耳と尻尾がある! すごいね、すごいね!」
どうやら小春も同じように転変者の多さに驚いており、しきりに俺の腕を引き、たくさんの友達候補に興奮を抑えられない様子だ。
駅の正面にはすぐに学校の塀が構えており、背の高い塀の内側にはさらに高い樹が校舎を守るように立ち並んでいる。閉じられているところしか見ることがなかった重厚な校門が今日は小春たちのために開かれている。まるで城のような門をくぐるには特別な感情を覚えた。興奮しておしゃべりが止まらなかった小春もさすがに何かを感じたのか押し黙って俺の手をきつく握っていた。
「こんにちは! 私はこむぎ、兎なの! あなたは猫さん?」
「えっ?!」
緊張する小春に向けて突然声が掛けられた。それはまったりとした愛らしい女の子のものでまっすぐ落ちてくるゴムボールのような無邪気さがあった。対してまごまごと緊張している俺たちは驚きの声を上げたが、男二人の他に女性の声も重なっていた。それは“こむぎ”のマスターの声だ。
「むぎ、急に話し掛けたらびっくりしちゃうでしょ?」
黒のスーツを着たショートヘアの女性がふわふわの小麦色の髪を三つ編みにした小柄な女の子を諫めた。女の子は大きな垂れ目をマスターに向けて不思議そうに抗議する。
「だって素敵な子がいたからお友達になりたかったの。元気に挨拶するのは大切ってママが言ったんじゃない」
ふくふくとした頬の“こむぎ”はなんの臆面もなく小春を褒め、褒められた小春は「素敵だって!」と嬉しそうに瞳を輝かせて俺を振り向いた。
「ねえ、君もとっても素敵だね!」
ヒトの年齢で言えば小春は二十二歳、相手は二十歳になるかどうかという頃だろう。そんなふたりの男女が素敵だねと言って褒め合うのは一種異様と思える光景だ。しかし保護者が間を取り持つ隙もなく確かにふたりの友情が芽生えた瞬間だった。
「ひらひらってして、たくさんおしゃれだ!」
周りの女子生徒は年齢によっては女子高生のようなブレザー風のスタイルかスーツが多い一方で、兎のこむぎちゃんは首元にフリルの付いたブラウスを着てクリーム色のジャケットと同じ色のフレアのワンピースを着ており彼女のふわふわとした雰囲気によく似合っている。
「ありがとう! ママと一緒に選んだの!」
そう言うとこむぎちゃんは自慢の服をよく見せようとその場でくるりと回って見せた。ふわふわのお下げが弾み、スカートの裾が花開くように広がってあたりに居た者の視線を華麗に攫ってしまう。柔らかそうなふっくらとした太腿と、対照的な細い足首が露わになってこむぎちゃんのマスターは慌てて制した。
「こむぎ! お行儀よくしなきゃ!」
「はあいママ」
マスターに叱られしゅんとしたこむぎちゃんは血色の良い唇を尖らせたがすぐに笑顔を見せて小春を見上げた。
「またあとでね!」
そう言うとマスターの腕にぎゅっと抱きつき正面玄関へ向かい多くの人達の中に紛れて行った。俺は小春に引けを取らない、むしろ小春を凌ぐ人懐っこいこむぎちゃんに呆気に取られてしまったが当の小春は初めての同級生とおしゃべりができて大満足なようで握った手のひらが汗ばむほどに熱くなっているのが伝わった。
「良かったな小春」
小春の頭を撫でると小春も嬉しそうに抱きついて来た。普段なら家の外ではくっつかないように言いつけるのだが周りはマスターにくっついている子ばかりで機嫌の良い小春に水を差す気にはなれなかった。
入学式が始まる前、小春の教室に入り驚いた。元々転変者が容姿端麗であることは察していたが個々の発するオーラが独特なのだ。小春やこむぎちゃんと違って好奇心旺盛な子だけでなく、マスターにべったりで人見知りをしている子や緊張しているのか表情の硬い子など、ヒトと同じく性格の差はあるのだが、どの子も等しく愛されオーラが滲み出ているのだ。転変者のアイドルは非常に人気があるが、もしやここはアイドル養成所なのだろうか……?
「日和さん、小春くん!」
ここにいるはずのない聞き慣れた声に振り返るとそこにはスーツ姿の黒い猫耳を生やした中性的な男性がいた。
「え、クロさんなんでここに?」
「わあクロさんだー!」
いつもうちに来る時のラフな服装と違い上質なスーツを着ているクロさんはとても大人びて見えていつも以上に中性的な美貌が際立っている。いまや彼もこの学校の卒業者だと思うと納得の美しさだ。
「今日は担当している子の付き添いなんです」
そう言うと後ろに控える大柄な男の子を紹介した。
「千堂大和くんです。小春くん、仲良くしてあげてね」
小柄で細身なクロさんよりも二回りは大きそうな“大和”は真っ白な髪の間から大きな三角の耳を覗かせ、腰からはふさふさとした立派な尻尾がぶら下がっているのが見えた。アイスブルーの瞳は鋭く氷のように透き通っている。「千堂です」と短く発した声は低く硬派な印象を与えた。正直言って強面なのだが、小春は興味津々のようだ。
「こんにちは大和くん! 桜井小春です、よろしくね。大和くんもクロさんと仲良しなの?」
事前にたくさん練習した挨拶を張り切って披露した小春の成長に感動を覚えつつ俺はふたりのやりとりを見守った。でかくていかつい大和くんはよく見てみるとまだあどけなさの残る顔つきをしているのがわかった。
「クロさん……?」
少し驚いた表情を見せた大和くんはクロさんの方を見た。
「ああ、元々私の名前はクロだからね」
そう言われて思い出したが元はと言えば小春がクロさんの名前を正しく呼べなくて今の呼び名を使わせてもらっていたのだ。クロさんのマスターからは猫の時代の名前のまま呼ばれているとかで俺も小春と揃えてクロさんと呼ばせてもらっているが、そもそもそれはニックネームだった。
「小春くん、もう私の名前ちゃんと言えるようになったんじゃない?」
「? クロさんはクロさんじゃないの?」
「この人は黒崎さんだ。名前は正しく覚えた方がいい」
大和くんの言葉を聞いて俺の脳裏に何かが過ぎった。
黒崎さん、元猫、働いてしばらく経っている、歳の離れたマスター……。
そうだ、クロさんの名前は確か、
「琥珀さん……?」
「まあ、よく覚えてましたね! 多分最初のご挨拶でお伝えしたきりでしたよね」
「コハク? 小春と似てるね!」
小春とクロさんと大和くんが盛り上がる中で思い出すのはもちろん先日居酒屋で出会った黒崎さんのことだった。ダンディーで上等な男性だった。あの人がクロさんの……と思うがそれと同時に黒崎さんと店のママとの微妙なやり取りも過ぎる。これまで俺はてっきりクロさんは歳上の恋人にたっぷり可愛がられているのだと思っていたが、その当人である黒崎さんは頑なに恋仲であることを否定していた。確かにあの日一緒に飲んだ黒崎さんは“琥珀”を大切に想っていることは伝わってきたのだが……。
「さあ大和くん、席に座ろうね」
教室に担当教員が入って来たことで雑談が中断され、クロさんはまた頼れるシッターさんの顔になった。
今日の仕事が終わればあの黒崎さんの元に帰るのかと思うとなんだか不思議な気持ちになった。
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