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第8話

 さて、新年を迎えて俺はいよいよ仕事に復帰することとなった。それまでにあったことと言えばクリスマスの夜に小春に少しだけ酒を飲ませた。小春はケラケラ笑ってすぐに寝てしまったが翌朝枕元に置いたお揃いのマフラーには大喜びしていた。それから実家に小春を連れて行き年末年始を両親や親戚と共に過ごした。小春が俺の親と会うのは二度目だったがパートナーというよりは孫のような扱いを受けていた。親族の集まった新年の祝いの席では集まった人の多さに小春は眩暈を起こして寝込んでしまったが本人は楽しかったらしいので安心した。  そうして賑やかに転変休暇を締めくくり、俺は三か月ぶりに社会人としての生活に戻るのであった。  社会人二年目、ようやく労働という行為が日常として馴染んだ頃での小春の転変であった。上司や同僚たちは温かく迎えてくれて新婚さながらに持て囃されたが俺は仕事に慣れるのに必死だった。久し振りの仕事はとても楽ではなかったが小春が家で待っていると思えばこれまで以上に頑張れた。周囲の人たちの理解と協力のもとどうにか社会復帰しつつある。  そしてようやく心に余裕ができたタイミングだった。同期の佐藤に誘われ、小春が転変して以降初めて飲みに行くことになった。その店は会社の最寄り駅から少し離れた場所にあり、カウンター席がメインであとはテーブルが三つあるだけのこじんまりとした居酒屋だ。親と同世代のママとマスターがふたりで切り盛りしており、俺たちは第二の母のような気持ちでよくお世話になっている。久し振りに会うママには小春が転変したことはもちろん伝えており、ゴールデンタイムで忙しい中にもかかわらず祝いの言葉を掛けてもらった。 「小春くん初めまして~。桜井の同期の佐藤です~!」 『こんにちは! サクライのドウキって何?』  先客が数人いたがカウンターが空いており俺たちは端の席に案内された。いまだ活躍しているペットカメラを通して留守番中の小春と佐藤を引き合わせつつ小春の様子を伺った。 「サクライは俺と小春の苗字だろう? 同期って言うのは、うーん会社の仲間、友達かな?」  それから小春は約束した通り俺が用意しておいた夕飯を食べ、歯も磨いたことを誇らしげに報告してくれた。少し話をして、名残惜しさを感じながら通話を切った。 「写真でも見たけど小春くんイケメンだな~! 四六時中こんな子と一緒にいるってどんな感じ?」  通話が終わっても画面には小春が映っており、ソファーに横になりお気に入りのブランケットにくるまってテレビを観ている様子が見える。佐藤はなおも小春を見つめ関心を示した。 「ずっと見ていられるよ。言うこともやることも可愛くて、本当に一緒にいて飽きない」 「こんなイケメンならずっといちゃいちゃしたくもなるよなあ」  溜息まじりに言った佐藤の言葉に心臓が跳ねた。 「お前って今まで女の子と付き合ってたんだろ? ペットが転変したら男でもいけるもんなの?」  今時同性愛者と異性愛者を隔てる人間は少ないが、これまで異性愛者として過ごしてきた俺が同性の転変者と結ばれたのだからそう思うのは当然だし俺自身も新鮮だった。 「それが不思議なものですごくしっくりくるんだよな。今まで男に惹かれたことはなかったのにさ」 「へえ~。それじゃあ運命の相手みたいな感覚って本当にあるの? よく転変者と結ばれたら浮気できなくなるって言うじゃん」  転変にまつわる話は様々で、強く結ばれる縁についてもおとぎ話のようにロマンチックな伝説が語られているのだがこれが案外馬鹿にできない。そう、俺は日々密かに実感しているのだ。ジョッキに残ったビールを一気に飲み干してこの数か月の変化を打ち明けた。 「……実際、他で抜けなくなった」 「え、まじ?!」  ママにビールのお代わりを頼み、声を潜めて促されるまま続けた。 「違和感はあったんだよ。ただ小春がそばにいて集中できないだけかなって思ってたんだけど、全然違う」  小春が転変して初めてトイレで自身を慰めようとした日、思うようにならなかった。あれから万全の対策を練ってお気に入りの動画たちと何度か自慰に挑んだが、これほど味気なく、義務的でつまらない自慰はないと虚しくなるばかりであった。しかし一方で脳裏に小春を思い浮かべるだけでそこは情熱的に盛り上がり、あっという間に果ててしまうのだから決定的だ。 「会社に出てきてから実感したけど、可愛い子に話し掛けられても前みたいに意識しなくなって今まで性欲に振り回されてたんだなって思い知ったわ」 「なにそれ悟ってんじゃん……」 「それがそうとも言えない現状があってさ、」  と、ここまで話したところで二杯目のビールを注いでくれたママがカウンター越しに声を掛けて来た。 「日和くん、小春ちゃんのこと改めておめでとう。小春ちゃんはサバトラちゃんだったかしら?」  ママは黒いハイネックのセーターの袖を捲り、ビールのジョッキを握る指の関節は節くれ立ちよく働く女性の手をしている。しかし耳には大振りのピアスが揺れ、形の良い唇には深い色をした口紅がよく似合っていて、母親と同世代の人だけど確かに色っぽくて綺麗な女性だと思う。  きりっとした気の強そうな目尻とは裏腹な、いつもと同じ優しい口調で聞いてくれた。 「ありがとうございます! 細かく言うとサバ白だったんですけど転変したら白要素はなくなっちゃいました」  そして自慢の小春のイケメン写真をママに示す。白いシャツのボタンを外そうとしているところで伏せ目と少しだけ開いた口が物憂げで神秘的だが実際はまだ指の使い方がおぼつかず小さなボタンに苦戦しているワンシーンだ。まさかこの直後に泣き言を言い出すようには見えまい。 「まあ素敵なお兄さんになって! ねえ、黒崎さんも見せてもらって」  そう言ってママはL字型のカウンター席の反対端にいるひとりの男性客に声を掛けた。歳は四十代に見えるが体格がよく清潔感がある。端正な顔立ちと雰囲気は良い意味でこの店からは浮いた感じがする。 「日和くん、いいかしら?」 「え? はいもちろん……」  ママに小春が映し出されたスマホを預けると黒崎さんと呼ばれた男性に画面を見せた。黒崎さんは少し戸惑った様子もあったが小春を見るとぱっと目を見開き、興味深そうな顔で俺を見た。 「この子は最近転変したの?」  見た目の通り、低めで落ち着いた色気のある声色だ。 「はい、秋に転変したばかりで」 「じゃあまだ手が掛かる頃だね」  黒崎さんは優しい目をして改めて画面の小春を眺めた。 「あのもしかして」  そう言い掛けたところで出来上がった状態の常連客三人組が来店し、カウンターは随分と賑やかになってしまった。 「せっかくの機会だから黒崎さんとお話ししてみる? 今ならテーブルが空いてるからそっちで、ね?」 「いや、だけど、迷惑じゃないですか?」  上機嫌に酔った客の相手をしながらママは俺にスマホを渡した。黒崎さんの方を見ると彼もやはりこちらを見たままだ。 「あの人の話も聞いてあげてほしいの」  わはは、と上がった笑い声に隠れてママが囁き、俺たちはテーブル席へと移った。 「ええと、桜井です、こっちは会社の同期の佐藤で」 「佐藤です、どうも」 「黒崎です。なんだかすまないね……」  席を移動してからというものカウンター席はますます盛り上がりゆっくり話すにはむしろちょうど良かった。俺と佐藤は隣り合い、黒崎さんは俺の正面に座った。転変者を共通の話題として席を共にしたが佐藤は佐藤で小春のことに興味があるらしく黒崎さんと飲むことを快諾してくれた。 「黒崎さんのおうちも転変したんですか?」  早速切り出したのは佐藤だ。 「ああ、うちのも元々猫でね。もう働いていてしばらく経つよ」  そう聞いて俺は小春が社会人として働いている姿を想像してみる。俺ですらまだ社会人の自覚が薄いのに、ひとりで買い物すらできない小春が働いているというのはどんな感覚なのだろうか。ただスーツを着る小春はとびきり格好いいだろうな……。 「その様子を見ると小春くんはまだまだ甘えん坊だね?」 「わかりますか? ひとりで風呂に入らせるのも一苦労で、一緒に入るって言って聞かないんですよ」 「あはは、可愛いじゃない」  黒崎さんは微笑ましいと笑い、横にいる佐藤が話に食いついた。 「ラブラブじゃねーか! 惚気やがって羨ましい!」 「いやいや実際は大変なんだよ、理性と本能のせめぎ合いだぞ」 「なんでだよ、お互いに『運命』なんだから遠慮する必要ないだろう?」  佐藤の言うように俺も小春が転変するまではそう思っていた。運命の相手と四六時中一生涯ラブラブでいちゃいちゃで……と楽園のような毎日になると。  しかし俺は小春と三か月一緒に暮らし、転変休暇はハネムーン期ではなく育児休暇と同義であると理解した。これが現実だ。 「苗字の概念もないような相手に手なんか出せるかよ……」 「でも可愛いんだろ?」 「可愛いほど大事なんだよ。でも可愛いの限りが小春に向いててもうほんと毎日やばいんだ……」  そう、毎日が生殺しの生き地獄なのだ。小春の可愛い精通を迎えたあの日から俺は一切そういった意味で小春に触れることをしていない。あくまであれは性教育の一環で悪戯ではないと自分に言い聞かせるためだった。幸い不思議なことにあれから小春が欲情することもないので俺だけが性欲を持て余す日々を過ごしている。 「わかんねえなあ、どうせ手出すんだろ?」 「それは、まあ、そうだろうけど……。でも今の小春はあまりにもあどけなくて良心が耐えられないというか……黒崎さんはどう思います?」  この葛藤がわからない佐藤を脇に置き、先輩マスターに助言を求めた。 「私はその気持ちよくわかるよ。こんなに純粋で可愛いのは今だけさ。学校に通うようになったらこれまでと比べ物にならないくらい大人になっていくからね、きっとその頃に折り合いがつけられるようになるんだろうね」 「小春のシッターさんも同じようなことを言ってました。黒崎さんのところもそうでしたか?」  クロさんが言っていたのは学校で性教育も受けるから遠慮するな、的なことではあったけど。 「……うちのも、学校に入ってからしっかりするようになったかな」  と、黒崎さんが言ってから気が付いたが、転変者向けの学校に通っていたということは相手は恐らくパートナーとして転変したのだろう。主の子どもとして転変する場合はほとんど乳幼児となりヒトの子と同じ教育機関に入るのが普通だ。 「じゃあ黒崎さんも美人なパートナーと毎日ラブラブなんですか? いいなあ~!」  佐藤も同じことに気付いたらしく明け透けに言った。 「いや、うちはそういうんじゃ」 「まあ黒崎さんたらまたそんなこと言って」  ママがカレイの煮付けとメンチカツをテーブルに置いて黒崎さんにちらっと目をやった。黒崎さんは一瞬たじろいだように見えたがすぐ頑なに返した。 「ママ、琥珀は違うったら」 「そうかしら。琥珀ちゃん寂しがってるんじゃない?」 「ママ!」 「余計なお世話かしら」  黒崎さんはほんの少しだけ威圧的に制した。それはママの言葉に動揺していると白状しているのと同じで、ママは黒崎さんに背中を向ける形でにっこりと微笑みながらカウンターへ引っ込んでいった。その表情はまさに「してやったり」だった。  それからもしばらく佐藤から小春とのことに突っ込まれ、その度に俺と黒崎さんとで応えつつ案外楽しい時間を過ごすことができた。話の途中で黒崎さんのスマホが鳴り仕事の電話とのことでその日は解散となった。 「小春くんとの時間を大切にね」  その日何度目かわからない言葉を最後に黒崎さんはタクシーに乗って帰って行った。  佐藤と別れた後は無性に小春が恋しくなった。小春の精神は今後目覚ましく成熟していくだろう。学校に通い友達ができて、それから社会に出て、たくさんのことを経験するだろう。嬉しいことも苦しいこともたくさんあるだろう。 「おかえり日和!」  玄関の扉を開けると同時にうたた寝をしていたらしい小春が飛びついて来た。まだ風呂に入っていないらしい様子にこれからまた一緒に風呂に入ると駄々をこねだすのが目に見えている。骨が折れると思いながらも、ただいま、おかえりと言い合えるならどんな関係でも幸せだと思えた。

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