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第1話 鬼上司とポメラニアン(2)

「あーやっぱり? あの雰囲気でコマンド使われたら、『もう好きにして!』って即オチしちゃいそうっ」 「Normal(ノーマル)なのに何言ってるの、もう。……まあわからないでもないけど」  どうやら、随分と好き勝手に話しているようだ。ちょうど印刷機に用があったらしく、こちらへと向かってくる。  何枚か覚えのない資料が紛れていたから、おそらくはそれだろう。「どうぞ」と羽柴は手渡しながらも、言葉を続ける。 「それと、さっきのちょっとセクハラっすよ」  あまり首を突っ込むべきではないだろうが、みすみす黙っているのも(しょう)に合わない。女性社員らは顔を見合わせていたが、次の瞬間にはギクリとした表情になった。 「え?」  羽柴がきょとんとしている間にも、そそくさと立ち去ってしまう。  なんだったのだろう――と視線を巡らせれば、途端に合点がいった。 「羽柴」 「ひゃ、ひゃい!」  噂をすれば何とやらである。自分は何も言っていないというのに、つい声が裏返ってしまった。 「あの、犬飼主任……もしかしてさっきの話」 「なんだ?」 「いえ、やっぱりなんでもっ」  先ほどより眉間の皺が深くなっている気がする。どうやら、聞こえていたのは間違いなさそうだ。 「それより、提案書の修正は?」 「あっ、はい! 確認よろしくお願いします」  プリントアウトした提案書を手渡す。  犬飼は受け取るなり、素早く目を通していった。幸いにも、今度はすぐにオーケーが出る。 「よし、これなら問題ない。先方にも納得してもらえるだろう」 「はいっ、ありがとうございます!」  羽柴はほっと胸を撫で下ろした。  一時はどうなることかと思ったけれど、ようやく先方への提案を始められそうだ。昼前にチーム内でミーティングをおこない、外回り営業の支度をする。  上司とともにエレベーターホールへ向かいながら頭をよぎったのは、先ほど女性社員が交わしていた言葉だった。 (あんなこと言われるだなんて、犬飼さんも気の毒に……)  時は二〇××年。  世界中で同性婚が認められ、セクシャルの多様性や理解も深まった時代において、《ダイナミクス》という〝第二の性〟の存在が明らかになった。  ダイナミクスは生まれ持つ男女の性とは異なるもので、主にDom(ドム)Sub(サブ)Normal(ノーマル)の三種に分類される。  DomはSubに対して、支配したい/甘やかしたい/守ってあげたいという欲求。逆にSubはDomに対して、支配されたい/甘やかされたい/尽くしたいという欲求を持つ。  ほか、人口の大多数を占めるNormalは、そのどちらにも当てはまらない。  ――簡単にいえば、DomにはSMでいうところの(サド)、Subには(マゾ)の役割がそれぞれあるということだ。  ただ、単なる性的指向の問題ではない。近年、科学的に証明された本能的なもので、欲求が発散されない状態が続くと、自律神経の乱れによる体調不良に陥ることもある。  もちろん抑制剤の服用で、欲求をある程度抑えることもできるが、それでも完全にコントロールできるわけではない。相互的に欲求が満たせる《パートナー》を見つけることが推奨されている――正直、あまり気持ちのいい話ではない。 (……あーあ。俺も早く、に慣れなきゃだよなあ)  羽柴は人知れずため息をつき、目頭を軽く揉んだのだった。

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