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第1話 鬼上司とポメラニアン(3)
営業から帰社すると、日報と明日の業務確認を早々に済ませた。
時計の針は八時半を指している。すでに就業時刻を過ぎていたが、毎月恒例の予算決算で、結局この時間まで残ってしまった。
「羽柴、いつまで残っているんだ」
不意にかけられた声に振り向けば、犬飼が呆れ顔をして立っていた。
オフィスに残っているのは、もう羽柴と犬飼の二人だけらしい。犬飼は相変わらずの態度で注意を続ける。
「効率が悪い、一人で仕事を抱え込むな。日報にもそうコメントしただろうが」
「あー……でも、仕事量は適切に割り振ってもらってますし。単に俺が遅いだけなんで」
「そんなことは訊いていない。いいから、今日はもう切り上げろ。明日以降どうリカバリーしていくか考えればいい」
「う、うっす」
上司命令とあらば従うほかない。羽柴はパソコンをシャットダウンして、帰り支度を始めた。
とはいえ、上司が残っていると、部下としては帰りづらいもの。ちらと視線を向けると、犬飼はまだこちらの様子をうかがっていた。
「顔色が良くないな。ちゃんと寝ているのか?」
羽柴はギクリとした。犬飼の指摘どおり、ここしばらく睡眠障害に悩まされていたのだ。
いつも入眠に時間がかかるし、やっと眠れたとしても数時間程度ですぐ目が覚めてしまう。特にここ一週間ほどは、まともに眠れた記憶がなかった。
しかし、それを正直に報告するのは気が引けた。社会人として自分の体調管理くらいできて当たり前だし、ただでさえ面倒をかけているのだから。
「大丈夫です、見てのとおり体力自慢なんで。俺、学生時代はラグビー部だったんすよ」
努めて明るく笑ってみせる。が、犬飼にはお見通しだったらしく、あっさりスルーされてしまった。
「帰ったらよく休むように。いいな?」
言って、犬飼は自身のデスクに戻っていく。
羽柴はぺこりと頭を下げ、その場をあとにした。
そうしてロビーの自動ドアをくぐったあたりで、はたと立ち止まる。
「やば、スマホ忘れてきた!」
慌てて踵を返し、オフィスへと足を向ける。
犬飼はおそらくまだ残っているだろう。気まずさはあるけれど、こればかりは仕方がない。
「すみません、忘れ物しちゃって! って、あれ?」
と、戻ってきたものの、予想に反して犬飼の姿はなかった。
デスクの上に鞄が置かれているから、まだ退社していないはずだ。帰り支度の途中で、トイレにでも向かったのだろうか。
ひとまず自分の席へ向かおうとして――そこでふと、あることに気づく。
「な、なんだ?」
隣接している資料室の方から、なにやら物音が聞こえるのだ。
犬飼は資料室にいるというのか。だとしても、こんなにもドタバタと音を立てるのはおかしいはずだ。
(もしかして、泥棒とか!?)
いや、何といったって資料室なのだし、そんなことがあってたまるか。長期保管が必要な資料や記録を管理しているだけで、わざわざ盗むほどの価値があるようなものはない。
ならば、いったい誰がいるというのか。残る可能性は変質者だろうか。
その場合は警備員を頼るほかあるまい。羽柴はそっと足音を忍ばせて、資料室の前まで移動した。
(? なんか、甘い香りがするような)
鼻をヒクつかせつつ、ドアを開いて室内を覗き見る。
そこには予想外の光景が広がっていた。散乱した資料やファイル……そして、それを蹴散らすようにして、
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