60 / 63
小ネタ そのとき、犬飼さんは…(第1.5話)
『ねえ。加藤ちゃん。このオフィス、出るらしいって知ってる?』
『出るって?』
『もう、幽霊に決まってるでしょ? それも犬の幽霊で、夜中に鳴き声が聞こえるんだって』
『何それ、アホらし! 人の霊ならまだわかるけど、犬とかあり得なさすぎでしょ!』
いつか耳にした、女性社員らの会話を思い出す。
犬飼とて、くだらない話だと一蹴したいところだが――まあ心当たりしかなかった。
◇
「クゥン……」
脱ぎ捨てられたスーツの中から、ひょっこりとポメラニアンが顔を出す。噂の元凶といったら、これしかないだろう。
(ああ、またか)
犬飼は変化してしまった体を見下ろしながら、内心でため息をついた。
悪寒を感じて資料室に駆け込んだところ、速攻でこのざまである。スーツを隅に追いやってしまうと、思うがままに駆けだした。
「ハフハフッ!」
情けないことこの上ないが、こうなったからにはストレスを発散するほかない。
だが、その日はいつもとは違っていて――、
「っ、Stay !」
突然聞こえたコマンドに、犬飼の体がピタリと止まる。声の主は見知った人物だった。
(くっ、羽柴か!)
先ほど帰したばかりだというのに、何故か戻ってきたらしい。
……隙をみて逃げ出すか? いや、それだと人間の姿(全裸)に戻ったとき、社会的に死んでしまう。
と、犬飼が思い悩む間もなく。羽柴は困惑した表情を見せながらも、「Come 」と指示を出してくる。
「よしよし、いい子だね! 言うこときけてえらいえらい!」
従順にも駆け寄れば、大袈裟に褒められてしまい――犬飼の中で欲求が満たされていくのを感じた。
Subとしての服従心に加え、犬の本能が刺激されているのだろう。理性に反して、体が勝手に動いてしまう。
「キャンキャン!」
気がつけば、もっと命令してほしいとばかりに訴えかけていた。
羽柴はこちらの注意を引き付けると、次なるコマンドを繰り出す。
「じゃあ、これできる? Take !」
犬の低い視力では、何がなんだかわからなかったが――羽柴が投げた物を、反射的に追いかけていた。口に咥えて戻れば、羽柴はわしゃわしゃと頭を撫でてくれる。
「そう、お利口さん! えらいね、もう一回しよっか?」
そうして、再び繰り出されるコマンド。犬飼はそれに嬉々として従いつつも、内心で頭を抱えていた。
(た、楽しい……くそっ、こんなもので)
投げられたものを取ってくるだけだというのに、楽しくて仕方がない。ましてや、たびたび褒められるものだから、つい「もっともっと」と欲が出てしまう。
が、そんな時間も長くは続かなかった。先ほどコーヒーを口にしたせいか、はたまた犬の習性なのか――突然の尿意が襲ってきたのだ。
しかも、そのことを察したらしい羽柴が、排泄を促すように新聞紙を広げだす。当然、犬飼はぎょっとした。
(冗談じゃない!)
そうは思えど、体は言うことをきいてくれない。羽柴に声をかけられれば、余計に尿意が膨らんでくるようだった。
「ワンツー、ワンツー。ほら、おしっこしていいよ?」
(うっ……)
犬飼のなかで、理性と本能がせめぎ合う。最終的に勝ったのは――、
【第1話 鬼上司とポメラニアン(5)へ続く】
ともだちにシェアしよう!