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小ネタ そのとき、犬飼さんは…(第1.5話)

『ねえ。加藤ちゃん。このオフィス、らしいって知ってる?』 『って?』 『もう、幽霊に決まってるでしょ? それも犬の幽霊で、夜中に鳴き声が聞こえるんだって』 『何それ、アホらし! 人の霊ならまだわかるけど、犬とかあり得なさすぎでしょ!』  いつか耳にした、女性社員らの会話を思い出す。  犬飼とて、くだらない話だと一蹴したいところだが――まあ心当たりしかなかった。     ◇ 「クゥン……」  脱ぎ捨てられたスーツの中から、ひょっこりとポメラニアンが顔を出す。噂の元凶といったら、これしかないだろう。 (ああ、またか)  犬飼はを見下ろしながら、内心でため息をついた。  悪寒を感じて資料室に駆け込んだところ、速攻でこのざまである。スーツを隅に追いやってしまうと、思うがままに駆けだした。 「ハフハフッ!」  情けないことこの上ないが、こうなったからにはストレスを発散するほかない。  だが、その日はいつもとは違っていて――、 「っ、Stay(待て)!」  突然聞こえたコマンドに、犬飼の体がピタリと止まる。声の主は見知った人物だった。 (くっ、羽柴か!)  先ほど帰したばかりだというのに、何故か戻ってきたらしい。  ……隙をみて逃げ出すか? いや、それだと人間の姿(全裸)に戻ったとき、社会的に死んでしまう。  と、犬飼が思い悩む間もなく。羽柴は困惑した表情を見せながらも、「Come(おいで)」と指示を出してくる。 「よしよし、いい子だね! 言うこときけてえらいえらい!」  従順にも駆け寄れば、大袈裟に褒められてしまい――犬飼の中で欲求が満たされていくのを感じた。  Subとしての服従心に加え、犬の本能が刺激されているのだろう。理性に反して、体が勝手に動いてしまう。 「キャンキャン!」  気がつけば、もっと命令してほしいとばかりに訴えかけていた。  羽柴はこちらの注意を引き付けると、次なるコマンドを繰り出す。 「じゃあ、これできる? Take(取ってこい)!」  犬の低い視力では、何がなんだかわからなかったが――羽柴が投げた物を、反射的に追いかけていた。口に咥えて戻れば、羽柴はわしゃわしゃと頭を撫でてくれる。 「そう、お利口さん! えらいね、もう一回しよっか?」  そうして、再び繰り出されるコマンド。犬飼はそれに嬉々として従いつつも、内心で頭を抱えていた。 (た、楽しい……くそっ、こんなもので)  投げられたものを取ってくるだけだというのに、楽しくて仕方がない。ましてや、たびたび褒められるものだから、つい「もっともっと」と欲が出てしまう。  が、そんな時間も長くは続かなかった。先ほどコーヒーを口にしたせいか、はたまた犬の習性なのか――突然の尿意が襲ってきたのだ。  しかも、そのことを察したらしい羽柴が、排泄を促すように新聞紙を広げだす。当然、犬飼はぎょっとした。 (冗談じゃない!)  そうは思えど、体は言うことをきいてくれない。羽柴に声をかけられれば、余計に尿意が膨らんでくるようだった。 「ワンツー、ワンツー。ほら、おしっこしていいよ?」 (うっ……)  犬飼のなかで、理性と本能がせめぎ合う。最終的に勝ったのは――、 【第1話 鬼上司とポメラニアン(5)へ続く】

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