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小ネタ 一輪のバラを、君に
予定していた業務もようやく終わり、羽柴は取引先を出たところで、スマートフォンを取り出した。
「犬飼主任、本日の訪問すべて終えました。タンソンニャットの物流倉庫ですが、先方の意向により、二区画分の契約を検討してほしいとのことで……」
通話の向こうで、低く落ち着いた声が応じる。いくつか業務連絡を交わしたのち、ふっと空気が和らぐのを感じた。
『ご苦労、よくやってくれた。今日はもう遅いし、直帰して構わない――いや』
犬飼はそこで言葉を区切って、
『せっかくだから、ホテルのラウンジで飲まないか?』
思わぬ提案をしてくるものだから、つい羽柴の足が止まってしまった。
「これからですか?」
『そうだ。今日はバレンタインデーだろう』
まるで業務連絡の延長のように、淡々と告げる犬飼。
ここしばらく仕事が立て込んでいたのもあって、まさかそのような意識があったとは思いもしなかった。
「では、後ほど」と通話を切ったあとも、羽柴の胸は落ち着く気配がない。
(勝手に浮かれるのも、どうかと思ったんだけど……)
ベトナムでは通称、《Ngày lễ tình yêu 》といい――日本のように義理のチョコレートを配る文化ではなく、まさに恋人たちのイベントといった風潮がある。
しかも贈るのは男性から女性へ、花束が主役。とりわけ一輪のバラが定番だと聞く。
その証拠に街のいたるところで、山のようにバラを積んだ自転車が、何台も見受けられた。
「――……」
公園のベンチで寄り添う恋人たちを尻目に、羽柴は小さく息をつく。それから意を決したように、再び歩き出したのだった。
◇
待ち合わせ場所は、旧市街の橋のたもと。犬飼は先に到着していたようだった。
「すみません。お待たせしちゃいましたか?」
「いや、俺もついさっき来たところだ」
言って、ためらいなく手を差し出す。その指先に握られていたのは、一輪の赤いバラだ。
「これを、君に」
一瞬だけ言葉を失う。犬飼は本当に、今日というこの日を意識していたらしい。
「ありがとうございますっ――その、俺も!」
羽柴もまた、後ろ手に隠していたバラを差し出す。お互いに交換しながらもクスクスと笑い合った。
「ありがとう。郷に入っては郷に従え、というわけだな」
「ですね、まさか二人して同じこと考えていただなんて」
「ああ、まったく……喜ばしいことだ」
夜の灯りのもと、バラを持つ姿がやけに絵になる。
こんなにも花が似合う男がいるのかと、羽柴は半ば本気で思った。ぽうっと見惚れていると、犬飼がいたずらっぽく目を細める。
「ほら、どうした。こういったときは、君がエスコートしてくれるものだろう?」
「っあ、はい!」
羽柴は飛び跳ねて、反射的に相手の腰へと腕を回す。
職場では上司と部下の関係だが、今は対等なパートナーだ。低く笑う声には、確かな信頼が滲んでいた。
「ハハッ、頼もしい限りだ」
「もう……笑うことないでしょう? 蓮也さんってば、相変わらず厳しいんだから」
軽口を交わしつつ、川沿いの道を並んで歩き出す。
二人の手にはそれぞれ赤いバラ。甘い夜の始まりを告げるように、上品で華やかな香りがふわりと揺れた。
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