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第17話

 「どうした? 泣いてる、のか?」  伊賀良はおどおどしながらも背中を撫でてくれる。同情は嫌い。でもいまは少しだけこの情に甘えたい。  「家が燃えて住むところがなくて困ってる」  「昨日の火事って真夏んちだったの?」  「そう」  どうやら火事があったのは知っていたらしい。アパート一棟焼けるほどの大火事だったから話題にもなるだろう。  大きな目をさらにまん丸とさせた伊賀良は背中に置いてくれた手に力を込めた。  「じゃあオレんちにいろよ」  「でも、伊賀良に迷惑かけるわけには」  「オレたち家族だろ」  伊賀良はやさしい。高校生の多感な時期に施設で同室になり、毎日喧嘩をして職員に迷惑をかけてきた。  でもその分、お互いの気持ちをすみからすみまでぶつけてきたからこその絆ができて、誰よりも信頼できる。  伊賀良はエプロンのポケットから鈴の付いた鍵を差し出してくれた。信頼できる、大切な家族からの申し出は単純に嬉しかった。いまはもう疲れた。  八木のことも家のことも将来のことも考えなければならない課題はたくさんあり、伊賀良のそばにいれば少しずつ前向きになれるかもしれない。  「真夏!」  名前を呼ばれて振り返ると紙袋を下げた八木が走ってきた。ふわふわの髪が汗を含みぺしゃんこになっている。  「どうしてここが」  「ここでバイトしてるって菊さんが前に教えてくれたんだよ。ほら、帰ろう」  差し出された八木の手を伊賀良が払いのけた。  「あんた、真夏のなに?」  伊賀良は鋭い眼光を八木に向けた。まるで母猫が子猫を庇うように抱き寄せられ、警戒している。  八木は長い前髪の隙間から伊賀良を睨みつけている。  「こいつがバイトしてるコンビニの店長。いいから手を離せ。俺はこいつに話がある」  「ただの店長が追いかけてするような話ってなんだよ」  「おまえには関係ないだろ」  八木と伊賀良の言い争う声に近隣の店の従業員や客たちがわらわらと集まってくきてしまった。このままだったら警察を呼ばれて大事になってしまうかもしれない。  伊賀良の手かはそっと離した。  「迷惑かけてごめん。話してくるよ」  「真夏……」  集まってきた野次馬に頭を下げ、八木の手を引いて家へと帰った。  玄関のドアを開けてから八木はぼそりと呟いた。  「悪い。無神経なこと言った」  頭を下げる八木の形のいいつむじを眺めているとさらに続けた。  「姉弟って血じゃない、過ごした時間の長さなんだと思ったんだよ」  失言を悔いているのか八木の表情は暗い。真夏と有希を重ねていたわけではなかったのだろう。  ただ血が繋がっていなくても似ている姉弟だと励ましたかったのかもしれない。  八木はふうと小さく息を吐いた。  「おまえ、有希が好きだったんじゃない?」  「そんなこと」  ありえない、と続けられなかった。  八木が真夏に有希を重ねたように、自分は八木に有希を求めていたという事実を見ないようにしてきた。  有希が愛した男を好きになればこの喪失感がなくなるような勘違いをしていたのだ。  やさしくて頑張り屋の有希が大好きだった。  だからこそ一緒に住むことなんてできない。弟だと言われて面白くなかった。彼氏ができたの、と八木との写真を見せられたときの衝撃をいまでも憶えている。  目頭が熱くなってきて拭うと手の甲に涙の粒が乗った。有希が好きだという気持ちを形にしたらきっとこんな綺麗な水滴なのかもしれない。  「でも俺は有希じゃない。もういないんだ」  「そんなのわかってる」  「いいや、わかってない。いま、ここで、はっきり 有希は死んだと言え」  八木のあまりの剣幕に喉が鳴った。一体なにをさせたいのだろうか。  ほら早く、と急かされて口を開いた。  「有希ちゃんは、死んだ」  「もっとはっきり」  「有希ちゃんは死んだ」  「もっと」  「有希ちゃんは死んだ!」  風船がぱんと弾けたように両目から涙が溢れてくる。頬を伝いフローリングに落ち、涙の水たまりができた。  (もう有希ちゃんはいない)  その事実をやっと飲み込めた。  「うわあああぁあああ!」  フローリングに這いつくばり、獣のような雄叫びをあげながらわんわんと泣いた。その間、八木は隣に座るだけで背中を撫でてくれたり慰めてくれたりしない。でもこれでいい。  大切なものを失った心にどんな慰みの言葉もなんの意味もないと八木は知っているのだ。  どのくらいの時間泣いていたのだろうか。涙が枯れ果て、水分の乾きを訴えるように喉がヒリヒリする。  八木と目が合うとにっと口の端をあげた。  「飯食おうか」  なんだか拍子抜けしてしまった。大丈夫、の一言もないらしい。  八木は淡々と食事の用意を始め、珍しく火を使っていた。肉じゃがと豆腐の味噌汁。有希の好物だ。  「美味しい」  「有希直伝だからな」  懐かしそうに目を細めた八木は肉じゃがから立ち上っていく湯気を見つめている。  有希に肉じゃがの作り方を教わったときのことを思い出しているのだろうか。八木の表情が春の日差しのように柔らかく、慈しみを感じられる。  でも不思議と嫉妬をしなかった。身体に残っていた有希への想いを全部出し切ったせいだろうか。  風呂から出ると今日買ってもらったばかりの下着やパジャマを着た。洗面台にはいつ買ったのか歯ブラシが二本立てかけてある。  八木一人分だったものにいつのまにか自分の存在があった。無遠慮に居座り、威張っているように見える歯ブラシは八木に会ったばかりの自分に似ている。  『店長のことが好きです!好きになりました』なんてよく正面切って言えたもんだなと思う。八木に一日でも早く有希を忘れてもらおうと必死だったとはいえ、酷すぎる。  「そりゃ木っ端みじんにフラれるよな」  それでもめげなかった。何度折られても空を目指すつくしのような不屈な精神を持っている自分だからこそできた荒業だ。  「でももうおしまいにしよう」  コンビニを辞め、新しい部屋を見つけるまで伊賀良の部屋で世話になろう。  買ってもらった服は一着だけ鞄につめ、八木の部屋をぐるりと見回した。  ほんの数日だったが八木と過ごせて楽しかった。有希の言う通りやさしく頼りがいがある。  有希が好きになるのも無理はない。  八木が風呂に入っている間に姿を消そう。  鞄を持って玄関へ向かうと風呂に入ったはずの八木は壁に寄りかかるように立っていた。  「こんな時間にどこ行こうってんだよ?」  眉間にぐっと皺を寄せる八木の表情は怒っているように見えた。

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