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海外ロケとスキャンダル(2)
3月中旬ともなれば、日中は初夏の陽気だが、朝晩はまだ冷え込む。そして、「春眠暁を覚えず」というくらいで、とかく布団から出るのが辛い。
空が白み始めたばかりの早朝。部屋を出た瞬間に肌を刺した冷気に、起き抜けのぼんやりした頭を引き締められながら、僕は路肩に駐車していた車の後部座席に乗り込んだ。
「朝早くから、すみません」
「これも仕事だからね。気にしないで」
7時前という通常のサラリーマンなら就業前の時間にも関わらず、マネージャーの白木さんが普段通りの髪の乱れ一つない完璧な身だしなみと爽やかな笑顔で迎えてくれる。
「忘れ物はないかな?」
「あ、はい。昨日の夜、3回チェックしたので、大丈夫と思います」
それでも少し不安で、僕は座席の傍らに置いた大きめのボストンバックに視線をやる。
「なら、出発するよ」
車がゆっくりと発進する。
今日は海外ロケが行われるマレーシアに出発する日で、参加者のほとんどは都内の撮影所に集合し、そこからロケバスで成田空港に行くことになっている。撮影所まではタクシーで行くと言ったのだが、『スタッフに挨拶したいから』と言って白木さんがアパートまで迎えに来てくれたのだ。白木さんは今回のロケには帯同しないので、撮影所への送迎だけしてくれる予定だ。
「体調は問題ないかな? 酔い止めとか風邪薬とか、緊急用の薬も準備しているよね?」
海外ロケに向けての体調管理や持参する薬については、3月に入ってから顔を合わせるたびに口を酸っぱくして言われていた。
「必要そうなのは一通り準備しているので、大丈夫と思います」
発情抑制剤も病院からの処方箋があるので、機内への持ち込みは大丈夫だろう。保安検査のときに抑制剤だと同行者に気づかれないかだけが心配だ。
「何か困ったことやおかしなことがあったときは、一人で悩まずにすぐに三間さんに相談するんだよ」
さも当然のことのように言われて、ふと、違和感が胸を掠めた。
そう言えば三間も、以前、『何か身の回りでおかしなことがあったら、すぐに白木さんに相談しろ』と言っていた。二人が頼りになることは否定しないが、別の事務所なのに、なんだか随分とお互いを買ってる気がする。
「白木さんと三間さんって、もしかして昔からのお知り合いとかですか?」
答えが返ってくるまでに、一拍の間があった。
「――いや。お会いしたのは柿谷君と同じで、年末のNG大賞のときが初めてだよ。どうしてそんなこと訊くの?」
「三間さんも白木さんも、お互いのことを信頼しているようなので……」
「えー。それって三間さんが僕の仕事ぶりを高く評価してくれてるってこと? 光栄だなぁ」
珍しく、白木さんがはしゃいだ声を上げた。
なんとなく、はぐらかされたような気がしないでもないが。
「三間さんは海外ロケも慣れてるし、今回のロケの役者陣の中では最年長でしょ? 何か困ったことがあったときは絶対に力になってくれるはずだから。そういう意味だよ」
確かに、初めての海外ロケでマネージャーもいない中、三間が一緒でよかったと思っている。
ただ、彼に夕食を作ることがなくなった今、ギブアンドテイクの関係ではなくなったわけで。当時に比べて、困りごとを相談するには、ハードルが高くなっている。気楽さで言えば、断然、稲垣のほうが悩みを打ち明けやすい。
撮影所に到着し、先着のスタッフ数名に挨拶しロケバスの近くで待機していると、三々五々に人が集まり始めた。
三間と稲垣は、三間のマネージャーが稲垣も迎えに行ったようで、マネージャーを連れた3人で現れた。彼のマネージャーも、今回のロケには帯同しないらしい。
「おはようございます」
僕の挨拶にパッと顔を綻ばせたのは、稲垣だ。
「おはよう、夏希。寒いから先にバスに乗ってたらよかったのに」
「そんなに寒くないので大丈夫ですよ」
僕も笑顔で返す。
三間は最初から視線が合わない。
わざとなのか特に意図はないのか。その眼差しは僕ではなく、ずっと白木さんに向けられていた。
白木さんが三間と稲垣に僕のことを慇懃によろしくお願いし、僕たちはバスに乗り込んだ。
初めての海外ロケは、そんな出だしだった。
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