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真相(8)
専務は仰向けになった三間の瞼を引っ張って、白目になっているか確認しているようだった。
「佑美さんを孕ませなかったことと番 にしなかったことだけは、礼を言おうと思ってたんだけどな。もう聞こえてないみたいだね」
ペチペチと頬を叩き意識を失くしていることを確信したのか、ハンカチを拾い上げて腰をあげた。こちらに歩いて来る彼の無機質な表情からは、何の感情も読み取れない。
言葉の端々に垣間見える佑美さんへの執着すらも、少しの熱量も持たないもののように思えた。
「あとは一人で大丈夫だな?」
「妊娠中でしょ? ヒートの来ないオメガなら、赤子の手をひねるようなもんすよ」
「どうしてそれを……?」
声を出す気力も湧かないと思っていたが、専務と男の会話が引っかかり、気づけば訊ねていた。
まだ、専務にもマネージャーにも話していなかった妊娠のことを、何故この男が知っているのか。
はっ、と鼻で笑い、答えたのは専務だ。
「オメガの寮で何のために月一回メディカルチェックをしていると思っているんだ。抑制剤の調整のためという建前にしているが、一番の目的はそれだよ。堕ろせなくなった時期に実は妊娠していましたと言われても、困るだろう?」
さも当然のような顔と声で返される。
「まさか勝手に調べていたんですか?」
今回はオメガ専用の寮に入ってすぐに、僕のためだけに非定期のメディカルチェックがあった。採血と尿検査もあったから、妊娠の有無を調べられたとしたらあのときだろう。
けれどまさか、僕だけでなく全員が、同意もなく毎月調べられていたとは思いもしなかった。一度目の人生でも、結果報告の用紙には妊娠の項目はなかったはずだ。
「こちらで管理しなければ、君達は仕事の都合も考えずに、好き勝手にセックスして、子供を作るだろう? 抑制剤を飲んでいたって、君のように耐性ができて発情期 が来ることもある。会社がやるべき当然の義務だよ。もっとも、アプローズのように、そんな最低限の義務もやっていないところは多いがね。……まぁ今回は、浮気相手の君が妊娠していたほうが、『痴情のもつれの末に殺してしまった』というシナリオが信憑性を増すからね。オメガの悪癖に助けられたよ」
僕には一瞥もくれず、専務が勝手口のほうへと歩いていく。
「君には何の恨みもないんだが、悪いね。君が自分に正直に、オメガとして生きていたら、三間君が油断することもなく、君が巻き込まれて犠牲になることはなかったはずだ。自分の撒いた種だと反省して、次に生まれ変わったときはもっと正直に生きたらいい」
正直に生きたつもりだった。ベータだと偽ったこと以外は。
だからそのこと以外、後悔はないが、偽らなければ正直に生きられなかったことへの悔しさはある。
できることならオメガのままで、自分に正直に生きたかった。
「暴れられたら面倒だから……、あのテーブルを使うか」
専務がいなくなり、首にナイフを当てたまま男に歩かされる。
無理かもしれないと思いながらも、一度目のときと違って、僕はまだ諦めてはいなかった。
僕が諦めたら、二人分の命と、一人の真っ当な人生が、奪われてしまう。
ナイフを首に当てられている間は駄目だ。抵抗して頸動脈を切られたら、そこで終わる。
専務との会話から察するに、絞殺で殺したがっているようだった。抵抗するなら、奴がナイフを離した瞬間しかない。
頭の中で恐怖と混乱が渦巻く中、まるで自分の中に誰か別の人格がいるように算段を立てられているのは、役者という仕事のお陰かもしれない。
自分の中に、僕とは別の冷静沈着な誰かを作り出すことで、パニックになりそうな自分を押し殺せている。
けれどその考えの甘さを、直後に思い知らされることになる。
首にナイフを当てられたまま、テーブルの上に仰向けに押し倒された。後頭部が硬い木の表面にぶつかり、ゴンッ、という音と衝撃が頭蓋に響く。
首を絞められるときは、ナイフが離れると予想していたけど。首筋のナイフは中央に移動し、喉元に切っ先を突きつけられた。
「動けば、喉を突きさされて苦しみながら死ぬ。じっとしていたら先に意識がなくなる。どうせなら、楽に死にたいだろう?」
人を殺すのは初めてではない。
慣れた手つきと迷いのない声から、それが伝わってくる。
暴れるなら今しかない――。そう思うのに、喉にナイフが突き刺さった自分を想像すると、恐怖で体が硬直する。
「俺は昔、柔道をやっていてね。寝技が得意だったんだ。10秒我慢してくれたらいい」
薄い手袋をした男の左手が、首に伸びて来る。
怖い…………。でも、諦めたくない――――!
無意識に、手がお腹へと伸びていた。
『らいじょーぶ。ママがママらしく生きていたら、きっと、また会える』
暗闇の中で聞いた声を思い出した。
お願い! 僕に勇気をちょうだい――!
人差し指をくるんと包んでいた、やわらかく、小さな掌の主へ、必死に祈った。
「あ、三間さん!」
絶望から希望へ――。
声を弾ませ、ぱあっと瞳を輝かせて、誰もいない、男の背後を見つめる。
もしかしたら、これが人生最後の演技になるのかもしれない。
一度目の人生も含め、4年分の経験を詰め込んだ、渾身の演技だった。
男が、「えっ?」という顔で背後を振り返る。
今だ――――!
ナイフを掴んでいる男の手を両手で掴み、渾身の力で払いのける。首に鋭い痛みが走ったから、少し皮膚が切れたようだ。血は噴き出さなかった。
そのまま男を押しのけ、走り出そうとしたが――。
襟の後ろを掴まれ、地面に引き倒された。
尻もちをついたところに男が馬乗りになってきて、上半身を押し倒される。肉厚な掌が両側から首を包み、ぎゅうと締め上げられた。
苦しい。息ができない――。
足をばたつかせ、両手で男の手を引き剥そうとするが、男の手はびくともしない。
酸素を求めて必死に胸と喉を喘がせるが、ひゅうひゅうと掠れた音が洩れるのみで、空気は一向に入ってこない。
筋肉がひきつり、血液が逆流するような感覚が頭を重くしていく。
――ごめん。今回も、守れなかった……。
涙で視界が滲んだ。
徐々に意識が遠のいていく。
視界がじわじわと狭まり、暗闇が迫る。
完全に意識を失いかけたとき。
気道を締め付けていた力が、ふいに緩んだ。
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