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いつかの、誰かが、見た景色(3)
海の向こうに大隅半島を望みながら海岸沿いの道を南下し、約一時間で指宿に到着した。この海岸沿いの道は、前回は指宿から鹿児島市内へ帰るときに通った。行きと帰りで使う道が、前回とは逆のパターンになる。
以前訪れた際にも、広大な土地一面に広がる茶畑に圧倒されたが、4月の今はそれが新芽となり、一年で一番新緑が綺麗な季節だという。そのため、明日は以前通った道を逆行するルートで、山沿いの茶畑にも足を伸ばす予定にしている。
今日泊まる旅館は、2年前に泊まったのと同じ旅館だ。
旅行の計画は全て三間が立ててくれていて、「同じところでいいか?」と訊かれて異論はなかった。
旅館に到着したのは4時前で、光希はチャイルドシートで既に熟睡していた。
昨日から鹿児島市内に滞在していて、今日の午前中は開園と同時に水族館を見て回っている。朝から興奮しっぱなしだったから、エネルギーが尽きたのだろう。
生まれて一年ともなれば、阿吽の呼吸だった。起こさないように僕がそっと光希を抱っこし、三間が三人分の荷物を持ってくれて、旅館のエントランスへと向かう。
以前と変わらぬ風情のある広々とした玄関をくぐると、和装の仲居が深々とお辞儀をして出迎えてくれた。
「三隅様ですね。お待ちしておりました。直接お部屋にご案内いたします」
僕も三間も、変装用の眼鏡とマスクをしているが、すぐに気付いたようだ。仲居は僕たちの親くらいの世代の、おっとりとした雰囲気の少しふくよかな女性で、どことなく見覚えがあるから、前回も接客してもらった人かもしれない。
チェックイン待ちの客が数組いるロビーを横目に、奥の別館へと繋がる廊下へ案内される。客が増え始める時間帯なので、ロビーで身バレして騒ぎにならないよう気をきかせてくれたらしい。
ロビーから離れたところで、仲居がにこやかな笑みを浮かべ、話しかけてきた。
「女将が、夕食の際にご挨拶に伺いたいと申しておりました。そちらのお子様は、あの時お腹の中にいらっしゃったお子様ですか?」
「え……?」
クエスチョンマークを頭に浮かべた僕とは異なり、三間は営業スマイルでさらりと答える。
「よく覚えておいでですね。お陰様で無事に生まれました。あのときは、妊娠している妻のことを気付かってくださり、ありがとうございました」
そこでようやく、僕も思い出した。
そう言えばこの人、前回は、事前の許可もなく僕のことを勝手に『妻』にして、しかも妊娠中だと嘘を吐いていたんだった。
「あのときは、苗字が違っていたので俳優の三間さんとは気づかずに、こちらこそ失礼致しました。あれからしばらくして、よくお二人をテレビで見かけるようになって、『あら、あのときのお二人!』と、思い出しましたのよ」
おほほほほ、と仲居が上品に笑う。
「よくテレビで見かけるようになった」というのが、俳優としての活躍によるものではないため、僕は苦笑いに近いぎこちない笑みを返した。
あの事件の後、当面の間、週刊誌もワイドショーも、その話題一色となった。
月城プロダクションの専務が所属タレントを殺そうとした、という衝撃的なニュースだけでなく、違法薬物をタレントに供与していた事実や、本人の同意なくオメガのタレントに妊娠検査を行っていた事実が次々に明らかになり、事務所には非難が殺到した。根岸議員との癒着も暴かれ、議員は辞職に追い込まれた。
月城プロダクションの主力タレントの多くは他の事務所へ移り、一時は倒産寸前まで経営が傾いていたらしいが、抱えているタレントが多く、全員を移籍させることは難しかった。そのため、会社更生法を申請し、外部から社長を迎えて社名も変え、風前の灯火の状態でどうにか今も存続している。
一方で、三間は僕を命懸けで助けに来たヒーローぶりが称賛され、一躍時の人となった。しかも、それから時を置かずして僕と三間が入籍したため、まるで正義のヒーローとヒロインのように持ち上げ上げられ、その話題もまた、週刊誌の紙面やワイドショーを騒がせることとなった。
僕は事件後すぐにアプローズに移籍した上で実はオメガだったことを謝罪するコメントを出したのだが、幸か不幸か、それは週刊誌にも載らないくらい些末なニュースとして扱われてしまった。
仲居さんの言う「よくテレビで見かけるようになった」の内情は、そんなところだ。
「妊娠中に命を狙われるなんて、お腹のお子様は無事かしらと私どもも大変心配しておりましたから、無事にお生まれになったニュースを見たときは、皆で手を叩いて安堵しましたのよ」
「その節は本当に、ご心配をおかけしました」
さすがに三間は、こういうときも動じない。
明日行く予定の茶畑の話にさりげなく話題を変え、その後も当たり障りのない会話をしているうちに部屋に到着した。
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