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エピローグ
暗闇の中を歩いていた。
一筋の光もない真っ暗闇なのに、不思議と怖くなかったのは、手を引いてくれる人がいたからだろう。手というか、正確には人差し指のみだけど。
俺の指を包み込めないくらいの小さな手には、覚えがあった。
生きていたときの、あたたかくやわらかい掌も。
初めて抱っこさせてもらったときの、冷たくなって、動くことのない小さな指も。
全部、覚えている。
あんな小さな手に、大の大人が手を引かれるというのもおかしな話だけど。
でも、確かに、俺はその手に導かれて、暗闇の中を黙々と足を動かしていた。
足裏に地面を踏みつける感触がしないから、きっと、現実の世界ではないのだろう。夢を見ているか、あるいは――……。
そこまで考えて、思い出した。
そうだ……。俺はあいつらの墓の前で、睡眠薬を飲んだんだった……。
それに、半年前に夢の中で聞いた、子供の声……。
『――だから、かみさまにおねがいしたんだ。ぼくののこりのじかんを、ママにあげてくださいって。ママが、やりなおしできるように』
「お前、もしかして、希望 か?」
小さな手の主に、問いかける。
「やっときづいたの?」
舌ったらずな子供の声が、夢の中で聞いた声と重なった。
「ということは……。俺は死んだのか?」
希望 が足を止めた気配がする。
実際には真っ暗闇で何も見えないのだが。なんとなくそんな気がして、俺も足を止めた。
しばらく逡巡するような間があり。
「いまなら、まだまにあうよ。ひきかえせば、もとのせかいに、もどることもできる」
返された言葉には、どこか不安が滲んでいた。
半年前も。「パパはどうする?」と訊く声は、不安げだったことを思い出した。
繋いでいないほうの手を胸に当てて、考えこむ。
俺が死んでも、身内はたいして何も思わないだろう。忠さんは怒るし佑美は泣くかな。ファンの中にも、泣いてくれる人はいるかもしれない。
時間を巻き戻って、月城に復讐したいのか? ――いや、違う。復讐したいのなら、今世で生き永らえていればそのうちチャンスは来る。
だとしたら、一度目の人生を後悔しているから?
後悔していることには違いないが、でも、理由がそれだけかと言われると、それも違う気がする。
生きているときにも、同じことを繰り返し自問したことは覚えている。ただ、記憶に霞 がかかっているようで、何か一番大切なことを思い出せずにいた。
俺が死んでまで、人生をやり直したいと思った一番の理由は、何だったのだろう――……。
箱から出したばかりのジグゾーパズルみたいに、頭の中に記憶の断片が散らかっている。それを一つ一つ拾い上げていくと、ひときわ鮮明に、魂に刻まれた光景があったことを思い出した。
母子手帳とそこに挟んであった胎児エコーの写真。
その裏に書かれていた、『この子がいれば、僕は一人じゃない』という文字――。
一つ浮かんでくると、芋づる式にそれに連なる記憶が呼び覚まされる。
警察から返却された押収品の中には、母子手帳だけでなく、文字や数字がびっしりと書き込まれたノートもあった。
役作りのためのそのノートは、元々は彼の母親がつけていた家計簿を引き継いだもので、柿谷の手らしき文字は途中から始まっていた。
母さんの初七日が終わった。
おじさんからは、アパートで独り暮らしするように言われた。
頑張るしかない。頑張らなければ。
ミミズが這ったように歪んだ文字から、それを書いたときの心境が察せられた。
その後しばらくは数字や商品名の羅列が続き家計簿として利用していたようだが、時折り、それ以外の文字が記されていることもあった。それらはどれも、寂しさを吐露したものや、自分を鼓舞する言葉だった。
月城にスカウトされてからは徐々に文字の割合が増えていって、高校を卒業した後は数字はなくなり、完全に役作りのためのノートになっていた。
監督や演出家、先輩俳優に言われたことや、台本に書き込む以外の気づきや課題なんかが細かく書き込まれていて、真面目で、努力家だったことを知った。『小悪魔オメガになる方法』と題がふられたページを見たときは、ちょっと笑ってしまった。
専務がレッスンや現場を見に来てくれたという文章もしょっちゅう出てきて、月城への怒りを忘れるくらい、何も知らなかったあいつがただただ不憫で、胸が痛んだ。
その、抉られるような胸の痛みも、その瞬間に戻ったかのように、痛烈に思い出した。
――そうだ。
俺はただ、会いたかったんだ。
もう一度、あいつと出会って、気づけなかった本当の柿谷夏希を知って、一からあいつとやり直したかった。
生きて、目を覚ましているあいつに会いたかった。
できることなら、次こそは、彼らを幸せにしたかった。
「あいつは? どうしているんだ?」
「あいつって、ママのこと? ママなら、あそこに……」
繋がれていた指を、引っ張り上げられる。
子供の背丈で、そんなに高いところまで手を上げることはできないはずなのに。胸の高さまで上げられた。
人差し指を向けられた先には、小さな光が見える。その光の手前に人影があり、今まさに光の中に入って行こうとしていた。
いまはもう、迷いも、今世への未練もなかった。
「行くよ。あいつが――なつがいる場所に、俺も行く」
――そうだ。
「なつ」と、いつも呼びかけていた。
目を瞑ったままのあいつに。
「そっか」
ホッとした声がし、指に触れていた掌が離れた。
「あとはパパがひとりでいって」
「え? お前も一緒に行くんじゃないのか?」
「ぼくはいけないの。あそこに、ぼくはまだいないから」
「そうか……」
声に落胆を滲ませていたからか。
「らいじょーぶ。パパがママをあきらめなかったら、きっと、またあえる」
励ますように言われた。
「わかった。じゃあ、俺は行くから」
暗闇に向かって右手の人差し指を差し出すと、最後にぎゅっと握られる感触がした。
踵を返し、暗闇の中の小さな光に向かって走り出す。
「ルー! がんばって! みらいでまってるよ!」
舌ったらずなその言葉が、いつまでも耳に残っていた。
――――『嫌われオメガは巻き戻った世界でベータに擬態する』 完 ――――
※ 最後までお付き合いくださり、ありがとうございました。
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