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いつかの、誰かが、見た景色(8)
指宿の旅館に宿泊した翌朝。僕たちは朝食を終えチェックアウトを済ませると、前回も訪れた薩摩半島の南端にある岬へと向かった。
岬の名前は長崎鼻。前回の旅行で一番思い出に残っているのがその場所だった。「そこにまた行きたい」と言ったところ、三間もそのつもりだったらしい。
車を降りると、海の香のする心地よい風が頬を撫でた。
四月に入ったばかりのこの時期は東京ではまだ肌寒さが残るが、本州最南端だけあって、ここ鹿児島は、初夏の陽気と言ってもいいくらいの暖かさだ。桜はぎりぎり見頃の時期らしいので、このあとは、県内の桜の名所の一つとされる公園にも立ち寄る予定にしている。旧陸軍の飛行場跡地の近くにあり、前回訪れた特攻隊の資料館にも近い。
三間が、僕が降りたのとは逆のほうの後部座席のドアを開け、チャイルドシートのベルトを外す。三間の背後に立つ僕を見て、光希が手を伸ばしてきた。
「まー!」
今日は朝起きたときから一度も抱っこしていないので、抱っこを求めているのだろう。
「光ちゃん、ごめんね。ママは今日、痛い痛いだから、抱っこはパパで我慢ちてね」
光希にだけ使う甘ったるい幼児言葉で話しかけながら、三間が光希を抱き上げる。
光希はむくれたように僕の顔を見ていたけど、「痛い痛いなの」と言って僕が自分の腰をさすって見せると、幼いなりに理解してくれたのか、それ以上駄々をこねることはなかった。
「よかったな」と言いたげなしたり顔を軽く横目で睨み、土産物屋が立ち並ぶ小道に向かって歩き出す。
実際は痛いと言うほどではないが、光希を抱っこできないほどに腰が重怠いのは、半分以上は三間の所為だ。昨日は旅館に着いて早々に部屋の露天風呂で致したのだが、夕食後、光希が寝入った後にも、部屋のベッドで二回戦を致してしまったのだ。
「こっちではまだリベンジしていない」という意味の分からない理由で押しきられた。
正常位だったし一度目より時間も長かったから、終わってすぐは自力では歩けないほどだった。浴衣を着させてくれて、光希が寝ている和室まで僕をお姫様抱っこで運んでくれたのも三間だから、面と向かって文句は口にしてないけれども。
月曜日の午前中だからか、観光客はまばらだった。
光希がマスクとサングラスを嫌がるため、三間は伊達眼鏡を掛け、僕は帽子を深く被るだけの簡素な変装で済ませている。
あまり効果はなく、最近は芸能人カップルの人気ランキングで上位に選ばれたりする所為か、近くに人が来ると、すぐに僕たちの正体に気づき、「あっ!」という顔を向けて来た。プライベートでの旅行だと配慮してくれたのか、話しかけてくる人はいなかった。
土産物屋の前を通りすぎ木々の茂る小道を進むと、急に視界が開ける。歩道の終着点に、白く輝く灯台が見えた。
その手前の舗道の脇には観望用のベンチの置かれていて、僕たちはそこで足を止め、右手を見た。
海の向こうに見える綺麗な三角形の山は、開聞岳だ。
特攻隊員たちが見た、最後の本土。
二年前にも思い浮かべたそのフレーズが、懐かしさと共に去来する。
あのとき三間に言われた言葉も、一言一句違わずに思い出せた。
『戦争から帰って来た金田は、寿美子や、赤ん坊を見て、嬉しかったんだと思う……』
今はその言葉が、あの時よりもずっと重く、深く、僕を形作る核のように、胸の中に刻み込まれている。
三間も、金田と同じかもしれないと、今は思っていた。
好意を持っていたわけでもなく、ヒート事故で一度関係を持っただけの相手とその子供。そんな僕達と家族になるために、三間が命を終えてまで時間を巻き戻って来た理由。
それは、嬉しかったからではないかと思う。
地道に積み上げてきた役者としての人生を奪われ、大切な人達を傷つけられて、その上、もしかしたら自分に罪を着せるためだけに、罪のない人間が犠牲にされた。罪悪感から僕に合わせる顔がないと思っていた頃の彼は、僕のことを、立て続けに起こった悲劇の一つとしか見ていなかったのではないだろうか。
それが、あの胎児エコーの写真を見た瞬間に、僕も、僕が守ろうとしたお腹の子も、今も必死に生きているという事実が、現実のこととして初めて認識されたのかもしれない。
寿美子と戦火を潜り抜けて生まれてきた赤ん坊を見て、泣き崩れた金田。胎児エコーの写真を見て、「一生分泣いた」という三間。二人の間には、通ずるものがあるように思えた。
嬉しかったんだと、思う。僕たちが生きていたことが。
無念さとか恥とか、それまでの人生とか……、全てのことがくつがえされるくらいに、嬉しかったんだと思う。
そんなことを考えていたら、目頭がじんわりと熱くなってきた。
誤魔化すために何か話題を探す中で、一つ思い出したことがあった。
「そう言えば、晴さん、前回、鹿児島の旅行に誘ってくれたとき、『俺にも目的があるから』みたいなこと言ってましたよね? あれって結局なんだったんですか?」
考え込むように、三間が宙を睨む。ややあって、何かを思い出した顔で口を開いた。
「お前の本音がわかるかなと思ったんだよ。今回はベータのふりをしていたし、再会してすぐは明らかに警戒されていたからな。もしかしたら、俺に罪を着せるために犠牲にされたことに気づいていて、俺を恨んでいるのかもしれないと思っていた。俺なりに歩み寄ってはいたんだが、心を開いてもらっている感じが全くなかったからな。もう少し踏み込んだ付き合いをすれば、本音が見えてくるかもしれないと思ったんだ」
「歩み寄った」というのが「夕食を作ってくれないか」で、「踏み込んだ付き合い」というのが「そうだ。鹿児島、行こう」だったのだろうか。だとしたら、大概わかりにくい男だと思う。
「で、本音は見えたんですか?」
「あぁ」と言って、三間は気まずそうに視線を逸らせた。
その表情に後ろめたさを感じ取り、僕は質問を畳みかける。
「どんな本音が見えたんですか?」
結婚前なら、触れてくれるな、という空気を感じ取って、遠慮していただろう。
遠慮しなくなったのは、愛されている自信からか、母になったからか。
「いや、だから、まぁ、その……、一度目の人生で非常階段に来た理由……とか……、恨んでいる人間に、寝ている隙に髪を触ったりしないよな、とか……そういうのがわかったというか……」
三間の口調は、珍しくしどろもどろだ。
時間を巻き戻っていたことをお互いに認識し合ったのは、専務の起こした事件の後だから、前回の旅行中に一度目の人生の話をするはずはない。と考えて。一つの可能性に思い至った。
「もしかしてあのとき、寝たふりしてたんですか?」
三間が寝入っているのを確認して、一度目の人生の愚痴をぶつけた記憶がある。髪くらいならいいよなと思って、髪も触った気がする。
「眠っていなかっただけで、寝たふりをしていたわけではない」
「そういうのを寝たふりって言うんでしょうが!」
「でも、そのお陰で、お前の本音が知れて、俺も安心できたし……。ほら。|光《こう》ちゃん、お山でちゅよー」
この話題をうやむやにする腹のようで、三間はふいに光希を高い高いしはじめた。
光希がキャッキャと笑うので、僕も、まぁいいか、と思ってしまった。
何度目かの高い高いの後、三間が持ち上げた光希をそのまま肩車する。
僕も念のため、光希の背中に手を添えた。
来週で1歳3カ月になる光希は、つかまり立ちはできるようになったが、まだつたい歩きはできず、保育園の同じ月齢の子と比べたら成長がゆっくりに見える。生まれたときから体も平均より小柄だった。
そのため、首や腰はしっかり安定しているけど、三間も僕も、肩車は二人が揃っているときにだけするようにしている。
「まー!」
光希が開聞岳に向かって手を掲げ、はしゃいだ声を上げた。
「こいつにとっては、『お山』も『まー』みたいだな」
「ですね」
光希の背中を支えながら、くすくすと笑う。
運動の発達と同じで、言葉の獲得も、のんびりペースのようだ。
もしかしたらオメガなのかなと思うくらいで、僕も三間も、それ以上気にしたことはなかった。
母子ともに無事で生まれてきてくれたのだから、それだけで十分にありがたいと思っている。
掲げられた右手の掌に指を持っていくと、ぎゅっと握られる。暗闇の中で握ってくれた手よりも、一回り大きい、ぷにぷにした柔らかな手だ。
三間も、光希の脇を支えていた左手を離し、人差し指を立てて自身の頭の横に持っていった。僕たちの指を掴みたがるのは光希の癖で、いつものように小さな左手はすぐにそれを掴んだ。
光希を間に三人で手を繋いだことになる。僕達は指だけど。
「次に来るときは、3人で手を繋いで歩けるかな」
「ですね」
僕は微笑みを浮かべて愛しい人達の横顔を順に見やり、遠くの景色に視線を馳せた。
穏やかな海の向こうに、開聞岳が見える。
特攻隊員たちが見た、最後の本土。
いつかの、誰かが、見た景色。
生きている。
戻って来た。
そんな感慨が、胸に込み上げた。
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