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第10話 バレンタインには程遠い
※『ケーキバース』の2人のお話です。
帰宅すると、部屋の中に甘い香りが充満していた。
胸焼けするほどの咽せ返るその匂いで、今日がバレンタインデーだと思い出した。
道理で道ゆく人々がおしゃれな紙袋を手に持っているわけだ。
「ただいま」
「おかえり」
六畳のワンルームの扉を開けて出迎えたのは、いつの間にか我が物顔で居座るようになった大学の先輩。
連絡先は交換している。
一言でも断りの連絡してから来ればいいのに、一度も来た試しがない。
居座るものの、来る頻度はまちまちで、まるで気まぐれな野良猫のよう。
勝手に他人の家に入って何かを作るその図々しさは見習いたいくらいだ。
まあ、害がないからと何も言わない俺も俺だけど。
「何作ってんの」
「え? 匂いでわかるでしょ?」
「チョコレートの匂いだけな」
「そうそう、チョコレート。ただ湯煎してるだけ」
「は?」
靴を脱いでコートをハンガーにかけた俺は、手招きする春希に誘われて部屋に足を踏み入れた。
ぶわっと甘ったるい匂いが鼻を直撃する。
こんなに匂いを感じていても、口に入れると何も感じないなんてな。
フォークって体質は本当に厄介だ。
キッチンを見ると、湯煎されて艶めいているチョコレートがコンロの上にいた。
ガラス製のボウルの中で揺蕩うそれを眺める春希は分かりやす上機嫌だ。
ああ、これは……。
「食べたい?」
「……何を?」
「それを聞くなんて野暮だね」
湯煎されたチョコレートは火傷しそうなくらい熱くなっているはずだ。
なのに、春希はそれに躊躇いもなく指を入れ、蕩けたチョコレートを指に絡める。
そして、床に茶色の雫をポタポタと垂らしながら俺の口元に差し出した。
これ、誰が掃除するんだろう。
「俺からのバレンタイン。食べてくれるよね?」
有無を言わせない物言いに、俺は逃げ道がないと悟った。
だって、目の前にあるチョコレート塗れの指はとても美味しそうで、目を逸らすことなんかできない。
心臓が激しく脈打ち、溢れ出した唾液が口の端から垂れる。
俺は春希の問いに応えることなく、差し出された指にしゃぶりついた。
ちょっとしょっぱくて、甘くて、美味しい。
その腕を掴み、指先だけでなく手首まで垂れたチョコレートを舌で追いかける。
全部舐め取っても、全然足りない。
もっと、もっと、もっと欲しい。
「剛人、こっち」
不意に俺の口から離れた春希の右手。
それはまたチョコレートを纏うと、今度は赤く色付いた唇をベッタリと濡らす。
手を引かれて春希の胸の中に飛び込むと、彼はこてんと首を傾げた。
「ほら、食べないの?」
「食べる」
俺はその逆側に首を傾け、少し背伸びをして濡れた唇に口を寄せた。
顎に垂れたチョコレートも、口の端に付いたのも、ゆっくりと舐め上げる。
そして、半開きになったそこに自分のそれを重ねた。
瞬間、これまでとは比べ物にならないほどの甘さが口の中に広がった。
なにこれ、やばい、甘すぎ。
チョコレートなんて関係ない。
俺は春希の口内に舌を差し入れた。
絡みつく舌に吸い付き、時に唇を甘噛みして甘露を催促する。
「んふ……」
愉快だと鼻息が告げる。
薄らと目を開ければ、甘く蕩けて揺れる瞳と目が合う。
、腰を引き寄せられたかと思うと、キッチンスペースの壁に押し付けられて攻守交代。
俺がフォークで、春希はケーキ。
なのに、喰われるのはいつだってフォークのはずの俺なのだ。
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