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第11話 隣BL〜名前も知らないお隣さん〜

※2024.3.10 J. GARDENで無料配布したものです。    授業開始まであと二分。  だからといって、別に慌てることはない。    縦に三分割された二人席の、黒板を背にして右側。  その最前列の中央側にある俺の定位置は、絶対に埋まることはない。  誰だって教授の視界に、簡単に入る席は嫌だからな。    それに、教授は開始時刻から一分後に講義室に入ってくる。  だから正確にはまだ三分の余裕があるし、多少遅れたところで怒る人ではない。    さて、今日も励みますか。    黒色のシンプルな、けれど撥水効果は抜群のデイバッグから筆箱とルーズリーフ、飲みかけのカフェオレが入ったペットボトルを取り出して机の上に並べる。  バッグは椅子の背に置いてクッション代わりにした。    教授がくるまであと二分。  くわっと大きな口を開けてあくびをすると、俺は目を閉じて講義室に響く音に耳を傾けた。    学生たちの談笑。  よっぽど面白い話だったのか、手を叩く音もする。  かと思えば、バイトの愚痴や友人の悪口も耳に入ってくる。  おいおい気をつけろ、丸聞こえだぞ。    有象無象の騒めきはネタの宝庫だ。  今日もありがたくいただきます。    そんな中、俺の耳が捉えたのは、ペラリと捲れる紙の音。    今時、若者の暇つぶしといえばSNSと動画だ。  飽和状態のコンテンツは廃れを知らない。    逆に、読書をする人は珍しい。  加えて、読書のツールは電子書籍が主流だ。  スマートフォンという個人情報の塊の中であれば、多少如何わしい内容でも家族に知られずに読むことができるし、持ち運びも便利だ。    そんな時勢の中、俺の隣に座る彼はいつも紙本を読んでいた。  薄い文庫本だったり、分厚いハードカバーだったりと形は様々。  速読しているのかページを捲る速度が速い時もあれば、文章を噛み締めているのかそのページから前に進まない時もある。  けれど、常に背筋がピンと伸びた綺麗な姿勢で、静かに文字を追っていた。    顔は黒板に、薄らと目を開けてチラリと盗み見すれば、綺麗な横顔が拝める。    アッシュブラウンのツーブロックヘア。  細く整えられた眉に切れ長の目。  右の目尻にポツリとある小さな泣き黒子が印象的だ。  少し低い鼻。  薄く横に引かれた唇。  それらがシャープな顔の輪郭の中に絶妙に配置されている。  服はストリート系。    陽キャな見た目をしているのに読書家。  ついでに、俺は彼が誰かと一緒にいるところを見たことがない。  学部も違うはずだし、この授業しか被らないから当然だが、それにしたって彼はいつも一人でいる。    授業が始まる前の数分間。  俺は、彼の隣に座って、彼が静かに読書をしている姿を見る時間が好きだった。    そして願うのだ。  どうか、彼の世界の片隅に俺の物語がありますように、と。  その願いが叶っていたと知ったのは、雪がちらつく冬の始まりの日。    商業ビルの八階にある大型書店。  その一角に設けられた大きなパネル。  その上部には『矢加部辰馬さんサイン会』とある。    俺はそのパネルの前に設置された机と椅子に座り、長い列を作る「矢加部辰馬」のファンと挨拶を交わし、渡された本にサインを書いていく。  普段、一人で孤独に執筆していると、これは面白いのか、この物語に読者はいるのかと、不安や焦燥感に駆られる。    リアルな読者と触れ合えるサイン会は、そんな負の感情を吹き飛ばす最高のイベントだ。  もちろん、ネットに書き込まれる感想や編集部から転送されてくる手紙も嬉しい。  でも、リアルで読者と交流するのは別格だ。  彼らの物語への好意は俺のエネルギーになり、もっと良いものを書きたいという欲に繋がる。  だから、俺はサイン会が大好きだ。    一時間かけて列を短くしていく。  最後の一人になった時、俺と彼は揃ってぽかんと間抜けな顔をし、互いの顔を見つめ合った。   「え……っと。矢加部辰馬先生?」 「そっそう! うん、そうだよ。あああの、昨日ぶり?」    なんだよ「あああの」って。  壊れたおもちゃか。  でも、大学のたった一コマの授業のみが被り、その授業で隣の席に座っている名前も知らない読書家の彼が、まさか俺のサイン会に来るなんて。  そんなの、嬉しすぎて正気じゃいられない。   「昨日ぶり。……って本当に!?」 「うん」 「おおおお俺! 矢加部先生がネットで最初に作品を投稿された時からのファンです!」 「へぁ!?」    嘘だろ!  俺のヘッタクソな小説を読んでくれていた古参ファンだって!?  待て待て理解が追いつかない時よ止まれ!    そう心の中で叫んだところで時が止まるはずもなく。   「矢加部先生、サイン」    俺の傍らで補助役をしてくれていた担当編集さんがこそりと耳打ちをする。    そうだ。  彼が今回のサイン会の最後の参加者とはいえ、時間には限りがある。  場所を提供してくれた書店に迷惑はかけられない。    俺はふぅ、と息を吐いてどうにか気持ちを落ち着けた。  そして、彼に向かって手を伸ばす。   「サインするので、本を」 「あっああ……。お願いします」    手のひらの上に置かれた俺の最新作。  僅か五百グラムのハードカバーはずしりと重い。  そっと体に引き寄せて机の上に置き、固い表紙を捲る。  左手で押さえ、右手でサインペンを握り、いざ。    初めてのサイン会で、初めてサインした時よりも心臓がバクバクして、手に汗が滲んで震える。    シュッシュッ、キュッ……。    担当編集さんと一緒に考えたサインはなんとか綺麗に書けた。当然だ。  今日一番緊張したけど、その分、今日一番集中して丁寧に書いたんだから。  よしと頷き彼に渡そうとして、大切なことを忘れていた。   「あの、名前は?」 「あ、はい。俺は……」    その名前を聞いた時、彼にぴったりな名前だと思った。  舌で転がして、嚥下して、胸がほわりと温かくなる。  その温もりを噛み締めながら、サインよりも一層丁寧にその名前を宛名として書き記す。    この先、彼が俺の人生に寄り添っていくことを、この時の俺はまだ知らない。

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