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第20話 キャンプ場の優しい熊

お題は「旅」です。 *  旅の恥はかき捨てって言うけどさ。  そうしたくてしたかったわけじゃない。   「うっ……く……ふ、う……」    涙は拭いても拭いても溢れ出し、鼻水も垂れてくる。  嗚咽はしゃっくりのように止められない。  全部止めようと思っても、余計に出てしまう。    ああ、もう嫌だ。    人目を憚らずに号泣する成人男性。  周りの人たち道に遠巻きにされるのも当然のこと。    だけど、理性と感情は別物だ。  悲しくて辛くて、胸に刻まれた傷を抉る。    なんで泣いているかって?  彼氏の浮気が発覚した挙句、車でしか来れないこのキャンプ場に置き去りにされたからだ。    三ヶ月前から計画していたしていたキャンプ。  一年付き合っている彼氏のミニバンで山奥のキャンプ場に来たのが一時間前のこと。  テントを張り終え、焚き火の準備も完了して、いざキャンプ飯を作ろうとしていたときだ。    ピロン……ピロン……ピロン……!    鳴り止まない彼氏のスマホ。  チラリと見えてしまった画面には『一昨日は最高の夜だったね♡明日の夜も来るよね?』のメッセージと、裸で抱き合う彼氏と知らない可愛い誰かのツーショット写真。    全身から血の気が引いた。  なのに、心臓はバクバクと跳ねてうるさい。    ――今の、何……。    いや、もうわかっている。  認めなくないけれど、なかったことにはできないほど俺の網膜に刻まれてしまった。  あれが理解できなほど、俺は馬鹿じゃない。    固まる俺に気付いて画面を開いてサッとスマホを隠す彼氏に、浮気を確信する。  その瞬間、胸に広がった悲しみは怒りで焼き尽くされた。    本当なら、逃げ場もないくらいガチガチに証拠を固めてから追い詰めたほうがよかったんだろう。  でも、そんな理性は俺に残されていなかった。    烈火のごとく怒った俺に、あろうことが彼氏は「証拠もないくせに疑ってくるな」と逆ギレ。  俺を川岸まで追いやると、岩場に突き飛ばしてきた。  俺は川の浅瀬に尻餅をつき、尻から太ももが濡れてしまった。  岩で打った尻より、胸が痛かった。    俺が服を絞っている間に彼氏は荷物を車に押し込む。  そして、俺の荷物だけポイっと放り投げて走り去ってしまった。  残ったのは浮気され、突き飛ばされ、服が濡れてしまった俺ひとり。    荷物の中に財布はある。  でも、スマホは川に水没して壊れてしまい使えない。  タクシーを呼ぼうにも呼べず、もし仮に呼べたとしても濡れていることを理由に乗車拒否されるだろう。    浮気したクソ野郎に一矢報いることもできず終わってしまい、悲しくて、悲しくて、悔しくて。  そして、俺はボロボロと号泣しているのだ。    でも、泣いていたってどうにもならない。  今は昼過ぎ。  装備も無しに山で過ごすなんて無謀だ。  早く山を降りないと暗くなってしまう。    止まってしまいそうな足を叱咤して歩く。  ああ、なんて惨めなんだろう。   「お兄さん」    キャンプ場から出て道路に出たとき、後ろから呼び止められた。  山道には俺しかいない。  俺にあてた呼びかけなのは間違いないのだけど、止まる気にはなれなかった。    俺と彼氏――いや、もう元彼だ――との修羅場を見た人だ。  俺を揶揄うか、この修羅場を肴に美味い酒を飲みたいだけだろう。  だけど、声の主は俺の予想に反して優しかった。   「風邪ひきますよ」    肩にかけられたダウンジャケットは膝までの長さで、とても温かい。  さっきまで着ていたんだろう。  それから、炭火の臭いがする。  きっと、優雅にキャンプ飯を食べていたに違いない。    途端、腹が鳴った。  なんで今なんだ。  恥の上塗りじゃないか。   「俺、ひとりでキャンプに来てるんです。でも、なんだか寂しくて……。一緒にご飯、食べてくれませんか?」    引き止めるように背中に添えられた手。  早口で捲し立てられた、あくまでも声の主の都合としてのお願い。  俺を傷付けないための、優しい嘘。    じんわりと胸が温かくなり、その温もりの泉を探して振り返る。  そこにいたのは、俺よりもデカくて熊のような威圧感のある男性だった。  天然なのかパーマをあてているのかわからないけど、ウェーブした黒い短髪。  垂れ目気味の目は心配の色をたたえている。    彼を見た瞬間、心臓を鷲掴みにされた。  目が離せない。  彼はきっと、俺に酷いことはしない。  直感が間違いないと言っている。  不思議な感覚に体を任せ、俺は彼の提案にこくりと頷いた。    じゃあ、と案内されたのはキャンプ場の奥だ。  ここまで奥まで来ているキャンパーはいなくて、俺はほっと胸を撫で下ろした。    おそらく二人用のテントと、その前にセッティングされた焚き火台。  その傍には作業台があって、切り掛けのエリンギが転がっていた。  道具はどれもそれは使い込まれていて、彼がかなりのキャンプ好きだとわかる。   「これ、着替えです。大きいかもしれないけど使ってください。今履いているズボンはそこの木の枝で乾かしましょう」 「ありがとう、ございます」    テントの中に押し込まれ、どう見ても俺には大きいジーパンとポケットティッシュを渡された。  俺は言われるがまま受け取ってテントで着替え、鼻をかんで涙を拭いたあと、少し離れた木の枝にズボンを掛けて乾かす。  その間、彼はお湯を沸かし、エリンギを切ったりしていた。    俺が戻ってきたことに気づくと、彼はアウトドアチェアに俺を座らせた。  そして、アルミのコップにお湯を注ぐ。  甘い匂いが鼻腔を擽る。  微妙に鼻が詰まっているのに甘い香りがするってことは、相当強い香りだ。    引き寄せられるようにして口をつけると、温かいココアのほろ苦さと甘さが広がった。  まるで今の俺みたいだ。  無性に安心して、また涙が溢れてくる。  そんな俺を、彼はそっとしておいてくれた。    風が木の枝や葉を揺らす音、川のせせらぎ。  焚き火が爆ぜる音が支配する森の中、彼は黙々とキャンプ飯を完成させていく。  それを、ひとつしかない皿と箸で共有する。    何も話さないのに居心地がいい。  元彼といたときには感じなかった安らぎがそこにあった。    やがて日が暮れ、夜になる。  焚き火を堪能したあと、モコモコの寝袋とふわふわの毛布に包まれて眠りにつく。  朝は太陽の光で目を覚まし、コーヒーと目玉焼きを載せたトーストで腹を満たす。  朝食のあとは火の始末をし、皿を洗い、テントを畳んだ。  それを軽バンに乗せ、キャンプ場をあとにする。    最寄りの駅に着くまで、俺たちはほとんど言葉を交わさなかった。  それでよかった。    優しさが十分に伝わってきて、俺の胸に開いた傷は一晩で癒えた。  彼がどこの誰であろうと知ったこっちゃない。  この事実以外、何もいらなかった。    彼も、俺に見返りを求めはしなかった。  別れ際はあっさりしたものだ。   「気をつけて帰ってくださいね」 「はい。ありがとうございました」    ただ、これだけ。  連絡先の交換もしない。  でも、それだけで、俺はこの先ずっと幸せでいられる気がした。  それから二ヶ月後。  新入社員の教育係をする順番が回ってきた俺が担当したのは、熊のような威圧感のある彼だった。  まさしく熊のような執念で情熱的に口説かれ、大人の理性を破り捨てて付き合い始めたのは、梅雨明けを知らせるニュースが流れた日のことだった。

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