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第1話 呪いの巫女は人間に出会う①
呪いの山の最奥に、リンネは住んでいる。
生き物の気配もない山頂付近、木々に囲まれてひっそりと佇む小屋が彼の住処だ。狭い室内の隅に置かれたベッドの上で、今日も彼は目を覚ます。
静かな朝。
ゆっくりと身体を起こすと、大きく伸びをする。窓から外を覗けば、いつも通り日が翳っている。とはいえ、曇っているわけではない。うっすらと黒い霧が周囲に立ち込めているのだ。
冷たい木の床にゆっくりとつま先を下ろす。起きてまず初めに顔を洗うのが日々のルーティーンだ。寝ぼける間もなく、ローブを羽織って小屋の外に出たリンネは、置いてある水瓶をのぞきこむ。
揺れる水面には、黒髪に黄色い目をした人間の青年が映っている。長いまつ毛に縁取られた猫のように大きな瞳や、すらりとしていながらもあどけなさを残した顔立ちは、一般的に見れば美青年と誰もが認めるだろうが、リンネ本人はそんなことはこれっぽっちも気にしたことはなかった。乱雑に切られた髪や乾燥した肌がその証左だ。人によってはもったいない、と頭を抱えることだろう。
干してあった布で乱雑に顔を拭ったリンネは、次に小屋からさらに奥へと進む小道の方へと向かう。覆いかぶさるように伸びた枝が重なり、朝だというのに日が沈んだ後のように薄暗い。静謐かつしっかりとした足取りで小道を抜けると、ぽっかりと空間が空いていて、中央に建造物が建っている。そこがリンネの目的地だった。
不吉な建造物だ。光を吸収するような、漆黒の石で構成された建物。不吉でありながら、紙一重の神聖さを纏っていて、近付いただけで眩暈がしそうなほどだ。
その建物は神殿だった。年代物で所々欠けてはいるが、綺麗に手入れされ、磨き上げられている。
リンネは一礼すると、重い扉を全身で押し開けた。内部に身を滑り込ませたリンネの背後、扉が音もなく閉まり、窓が一つもない室内は闇に包まれる。同時、壁かけの燭台に青い火が灯り、ぼんやりとリンネを照らした。
光は、却って奥へと続く闇を深くする。全く見通せない空間は、無限に続いているかのように錯覚する。
「おはようございます」
『おはよう、リンネ』
リンネが床の上に跪いて闇の奥へとむけて声を投げかけると、低くしゃがれた声が返ってきた。地を這うような、聞いた者の背筋を凍らせる不気味な声。だが、リンネは怯える様子もなく会釈で返した。ゆらり、と闇が揺れたかと思うと、黒い煙のようなものが部屋の奥から伸びてきて、リンネの頭を撫でる。実態を持たないはずの闇だが、リンネの頭には柔らかな感触が残った。
『もう朝食は食べたかい?』
「いえ、これからです。昨日、麓近くの林檎の木に実がなっているのを見つけたので、もいでこようかと」
『そうかい、生き物は私と違って食事が大事だからね。ちゃんと食べるんだよ』
まるで仲の良い親子のような会話。だが、声の主が影から出てくることはないし、リンネが神殿の奥に踏み込むこともない。
この神殿に祀られたこれを呪いの神と初めに呼んだのは誰だったろう。それは誰にもわからない、遠い昔、人間が麓に町を作って住み始めるより前からこの存在はここに住んでいた。
言い伝えはあながち嘘ではない。山全体には神殿からあふれる瘴気が満ちていて、普通の人間ならば数時間で体調を壊してしまい、数日内に死に至る。それが、呪いだ。
リンネがこの山で暮らし始めたのは、まだ七つの頃である。リンネの母親は魔女と呼ばれる女であった。強い魔力を持っていたとされる彼女は、町のはずれで一人でリンネを育てていたが、リンネが物心つくかつかないかという頃にあっさりと死んだ。
残された幼子は町長をはじめとした町の住人に育てられることとなったが、魔女の血を引くリンネのことを彼らは恐れた。リンネは複数の家を転々としたが、最終的には一人で山に住むように言われ町を追い出された。
『お前はこれからこの山で、巫女として神様に仕えるんだよ』
大人たちは素晴らしい事かのように言っていたが、幼いながらにリンネは自分が捨てられたことを理解していた。
孤独なリンネを今に至るまで育てたのは、人々が忌み恐れた呪いの神だった。ふらふらと、一人で山を彷徨い歩き、傷つきながら神殿にたどり着いたリンネを優しく迎え入れたのだ。
神はリンネに山での暮らし方を教えた。かつて仕えていた人間が遺していったという本や衣服、寝床も与えて、リンネが生きられるようにしてくれた。
人々が恐れる呪いの力というのも、リンネには全く感じられなかった。彼曰く、リンネもまた、強い呪力を持っているかららしい。その事実は、より一層人々の恐れを色濃いものとした。
リンネにとっては、『呪いの神』こそが愛すべき家族であり、反対に人間は自分を傷つけた憎むべき存在となっていた。
皮肉なことに、結果として、リンネは言われた通りに呪いの巫女としての務めを果たしている。
「それでは、行ってまいりますね、お父様」
『ああ、気を付けるんだよ』
「はい!」
リンネは屈託のない笑顔で答えた。
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