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第2話 猫を追いかけた先に

 柏木智哉は走っていた。  購買でサンドイッチを買って教室に戻ろうとしたら、突然現れた猫に追いかけられているからだ。    智哉は猫が苦手だ。  嫌いではない。  むしろ好きだし写真や動画なら大丈夫だ。  だが、実物となるととにかくダメだ。  幼い頃、猫が喧嘩しているところに鉢合わせ、なぜが巻き込まれて腕や足を引っ掻かれた。  それからは画面越しに猫を愛でていた。  そんな智哉に付き纏う酔狂な茶トラ柄の猫の目は爛々と輝いている。  どうやら諦めるつもりはないらしい。 「なんで!? こっち来んなって!」  パニックになった智哉は、どこをどう走っているかわかっていなかった。  学園から抜け出してはいないはずだが、周りは木ばかりだ。  落ち葉を蹴散らし、後ろを振り返りながら走る。  前方確認のため前を見ると、ちょうど林を抜けたからか、眩しくて視界がホワイトアウトした。  何も見えないと思った瞬間、智哉はドンッと何かにぶつかった。 「ぐっ!?」 「うわ!」  ぶつかったそれは地面に倒れ、智哉はその上に乗り上げる。  体の下にあるそれは温かく、硬くもなく柔らかくもない弾力がある。  目をしばたたかせてよく見ると、それは人だった。  智哉の着ている制服と同じ柄が目の前にあり、地面に手をついて腕を伸ばせば、誰を押し倒してしまったのかがわかった。    短く刈り上げられた黒髪は学生らしいく爽やかな雰囲気を醸し出している。  キリッと上がった濃いめの眉。  そして、これまたキリッと上がった細長の目は見開かれている。  口角が僅かに下がっている薄い唇はぽかんと開かれていた。  十月になっても暑いままの気候のせいか、その顔は赤くなっていた。  彼は青嶋寛。  クラスメイトだが、連絡事項を伝える時にしか話したことがない。  無愛想で寡黙なためにいつも一人でいる彼は、実は弓道部のエースで、月一の全校集会で大会の表彰状を受け取っているのを何度も見たことがある。   「うわ、ごめんっ!」 「平気だ」  智哉は寛の上から飛び退くと、寛はその返事通りなんともないといった様子で起き上がった。  やってしまったと思ったのも束の間、ちりっとしたら痛みに右手を見ると、せっかく買ったサンドイッチがぐしゃりと握り潰されている上に智哉を追いかけてきていた猫がそれを強奪しようと爪を立てていた。 「ひぃいいい!」  智哉は猫から逃れたい一心でサンドイッチから手を離して飛び退いた。  猫が転がったサンドイッチに飛び掛かろうとした瞬間、それを見ていた寛がむんずと猫の首の後ろを掴んで持ち上げ、猫と目線を合わせた。 「こらウィート、ダメだろ。お前はこっち」  寛は地面に尻餅をついた智哉から背を向けて猫を地面に下ろすと、ポケットからビニール袋を取り出して封を切り、中に入っていた鰹節を左の手のひらに乗せて猫に差し出した。  猫は「にゃーん」と可愛らしく鳴くとガツガツとそれを食べ始めた。  はぐはぐと食べる音に吸い寄せられて寛の背中越しに覗き込むと、幸せそうに鰹節に食いつく猫が見えた。 (かっ……可愛い! 大人しく食べてる。触りたい、けど、また引っ掻かれるのはなぁ……)  その様子を凝視していると、寛が目線を猫から智哉に移した。  その顔はいつも見る無表情に戻っていたが、視線に込められているのは心配の色だとすぐにわかった。 「手、大丈夫か」 「うん、ちょっと引っ掻かれただけだし平気」 「猫は苦手か」 「好きだよ。でも、前に強く引っ掻かれたことがあってさ。見るのはいいんだけど、触れないっていうか……」 「今なら大人しくしてる。触らせてくれるぞ」 「え!?」 「大丈夫、ほら」  寛は手本を見せるように右手でそっと猫の耳の後ろ側の撫でた。  すると、猫がゴロゴロと喉を鳴らし始めた。 (わ、あ……)  智哉はおずおずと猫の横にしゃがみ込むと、その背中を撫でた。 「ふわふわしてる」 「ああ」  外にいる割にその毛は柔らかく滑らかだ。  厚い毛越しにその体温と鼓動が伝わってくる。  智哉は十数年ぶりに触った猫に感動し、寛の存在を忘れてしばし夢中で猫を撫で回していた。  猫は鰹節を食べ終わると、もう用はないといった態度で智哉たちから離れると、日当たりのいい地面にころんと丸くなって動かなくなった。  どうやら食後の昼寝をするつもりらしい。  猫から目を離せずにいた智哉の代わりに、寛は左手をハンカチで拭くと地面に落ちていたサンドイッチを拾って智哉に差し出してきた。 「ありがとう」 「別に。それ、買う時は気をつけた方がいい」 「なんで?」 「その玉子サンド、中に鰹節が入ってる。だからウィートに追いかけられてたんだと思う」 「そうなんだ」  初めて聞いた話に智哉はまた目を見開いた。  クラスメイトで同じバレー部に所属している友人に美味しいと聞いて買ってみたが、まさか鰹節が入っていたとは。  購買にはそれがたくさんあるわけで、それを買う生徒も智哉以外にもいる。  だというのに、なぜあの猫は智哉を狙い撃ちしてきたのか。  丸い毛玉を見やるがそっぽを向いて知らん顔をしている。   「なあ、ウィートってあの猫のこと?」 「ああ」 「飼ってんの?」  長い間、猫には触れてこなかったが、あのふわふわとした手触りは野良には思えなかった。  名前もつけて餌付けをしているくらいだから、寛がブラッシングなどの世話をしていてもおかしくはない。  となれば、飼い主は寛ということになる。   「いや、近所で飼われてる猫らしい。名前は勝手につけた。俺は柏木みたいにその玉子サンド食べてる時に襲われて、それからは猫用の鰹節をやるようにしてる」 「猫用の鰹節?」  寛が鰹節の入っていた袋を見せてきた。  そこにはデフォルメされた可愛らしい猫のイラストがプリントしてあり、デカデカと「猫用」と書いてある。  コンビニで酒のつまみと間違って猫缶を買う人がいるくらいだ。  これくらい大きく書かないと誤認されるのだろう。   「人が食べるのは塩分が多いから、猫用があるってペットショップの人が言ってた」 「そうなんだ」  猫用の鰹節を買うためにペットショップまで行ったのか。  クラスメイトの意外な顔が知れて、智哉は胸が高鳴った。  いつも無表情の彼が驚いたりたくさん喋っているのはとても新鮮だった。   「食えそうか?」  智哉より少し背の高い寛がじっとサンドイッチを見ていた。  そう言われて智哉は手の中でサンドイッチを転がした。  ぺたんこにひしゃげたパンからぐちゃぐちゃになった玉子が飛び出しているが、ビニール袋は破れていない。  慎重に袋を開けて食べれば問題はないだろう。   「袋破れてないし、まあいけるかな」  こうなってしまえば仕方ない。  他に食べるものもないし、これを食べるしかなさそうだ。  やれやれと顔を落とすと、寛の半歩離れた右後ろの存在に気付いた。   「あ、花が」 「ん?」  雑草と枯れ葉の中で輝くような純白の花。  一輪だけ咲いた花は五百円玉くらい大きさで、花弁は芙蓉の花のように根本から外に向かって幅が広く丸みを帯びている。  見たことがない花だが、野花であれば名前を知らなくても仕方がない。  それがぺちゃりと地面に伏していた。   「これ、俺が青嶋を押し倒したときに潰しちゃったのかな。ええっと……」  智哉は地面を舐めるように見回して小枝を探した。  ちょうどいい長さの小枝を三本見つけると、その端っこをバレーをする時に前髪を結んでいる細くて小さな髪ゴムで束ね、反対側の先端を三方向に広げた。  それを花が倒れた側に置き、花を支える支柱代わりにした。  これで花が復活するのかはわからないが、何もせずに枯れてしまうよりいいだろう。 「うん、これでよし」 「上手いな」 「親がガーデニング好きでさ。小さい頃から手伝わされてたから自然とね」 「へえ」  ガーデニングが趣味の両親は、結婚して二十年以上経つというのに子どもの智哉も驚くほど仲がいい。  馴れ初めは耳にタコができるほど聞いてきた。  遠方のイングリッシュガーデンでバラを鑑賞中に、同じバラをカメラで撮影しようとしてぶつかってしまったのがきっかけだとか……。  ガーデニング愛好家同士で結婚すればどうなるか。  家の庭には一年中花が咲き誇り、休日は花で有名な公園や庭園に連れ回される。  ついでに情操教育でガーデニング技術もみっちり仕込まれた。 「この花の名前、わかるのか」 「いやー流石に野花はわからないな。あっでも、例えば例の恋を叶える花だったら素敵だよな」 「言い伝えの?」 「白い花だっていうじゃん。まあ、そうそう見つけられないだろうけどさ」 「そうだな」  智哉は白い花を見下ろした。  恋を叶える花の言い伝えは知っているが、智哉自身はあまり興味がない。  そもそも色恋に興味はないからだ。   「そういえばここってどこ? 学園の敷地内だよな」 「ああ、特別棟の裏にある林だ。ここは広場になっているが人はあまり来ない。知ってる人も少ないと思う」  特別棟の裏であれば二年生である智哉が知らなくても無理はない。  特別棟は物理や家庭科の授業でしか行かないし、バレー部が活動する第二体育館とは反対方向だ。  外練で走り込みするコースとも外れている。   「青嶋はなんでここに?」 「飯を食べに。入学して一人になれる場所を探してたらここを見つけた」 「ああ、昼休みは見かけないと思ったらここにいたんだ」 「うん」  寛は智哉が見る限り教室でも一人だが、より一人になれる場所を探していたということは、寛は静かな場所が好きなのかも知れない。  一人納得していると、寛が花の近くに落ちていた本をさりげなく拾ってさっと後ろに隠すのが目に入った。   「待ってその本……」  智哉がそう口にすると、寛がびくりと肩を跳ねさせた。   「知ってる、のか?」  動揺している寛の気持ちはよくわかる。  その本は全年齢対象ではあるがBL小説だからだ。  なぜ智哉がそうだと知っているのか。   「ああ、ええっと……、姉ちゃんの本」 「姉ちゃん?」 「そう。その本書いてるの、俺の姉ちゃん。ちなみに誤字脱字チェックは俺がしてる」  智哉の姉である柏木美波の職業は小説家だ。  TL小説で商業デビューしており、南夏子のペンネームで知られている。  一方でBL小説でもひっそり商業本を出しており、それは並木オークという別のペンネームを使っている。  両名義とも固定ファンがいるほど人気で、商業本の番外編を同人誌で出している。  智哉は姉から小遣いや食べ物を貰う代わりに、取材の補助や誤字脱字のチェックを手伝っている。  不本意で始まった助手ではあるが、それ相応の対価も貰えるため今ではノリノリで手伝っている。    先週はちょうど日本最大のBL同人誌のイベントが開催された。  流石に智哉を売り子にするのは気が引けるようで、新刊が出る時は毎回通販の手続きを任されている。  まさか、その買い手に寛がいるとは思いもしなかったわけだが。   「そうなのか。あの……、このことは」 「言わないよ。青嶋がそれ読んでるのは意外だけど、いいと思うよ。俺も読むし」 「そうなのか」  寛の険しい顔が一瞬で明るくなった。  目を輝かせ口元が僅かに弧を描くだけの僅かな変化だったが、間近で見ていた智哉にはそれがわかった。  初めて見るクラスメイトの笑った顔に今度こそ智哉はノックアウトされた。  普段の無表情からこの笑顔を見せられたら、誰だってそのギャップにときめくだろう。  だが、その笑顔を引き出したのが智哉自身ではなく姉の美波であることにモヤッとする。  この気持ちは何なのか。  知りたいような、知りたくないような。   「姉ちゃんの影響だよ。じゃなきゃ誤字脱字チェックしないし。でもまあ、周りには気ぃ遣う読み物だよな。だからここでご飯食べてるんだ」 「そういうことだ」  寛に促され、二人はベンチに腰掛けた。  そこには小さなトートバッグがあり、中には弁当箱が入っていた。  食べた様子は見られず、寛も昼食がまだなのだとわかった。  偶然とはいえ、せっかくの機会だからと智哉は寛と食べることにした。  智哉は慎重にビニール袋を開け、玉子が落ちないように気をつけながら口元に運んだ。  寛の言う通り玉子の中に鰹節が混ぜられていて、より複雑な旨みが口の中に広がった。  友人の美味いという評価は正しかった。   「姉ちゃんの本、どこまで持ってんの?」 「商業本は全部。同人は二年くらい前から、全年齢のやつだけだ」  美波の商業活動は三年前から、同人活動は七年前からだ。  同人誌は何度か再販はしているが、二年前だとすでに発行していないものもある。   「コンプしてないんだ。二年より前のやつ、貸そうか?」 「いいのか?」 「家にあるし、姉ちゃんも喜ぶと思うよ」 「ありがとう」  寛がまた僅かに笑った。  その笑顔から目を離せずにいると、キーンコーンと予鈴が鳴った。  昼休みの終わりを告げる合図だ。  そんなに時間が経ったようには感じなかったが、それだけ楽しかったということだ。  名残惜しいが仕方ない。 「あ、じゃあ明日の昼休み、ここに持ってくるよ」 「すまん、ありがとう」 「四限、間に合うかな」 「走れば大丈夫だ。行こう」 「うん」    後ろ髪を引かれつつ、二人は慌てて荷物をまとめて手に持った。  智哉はバレー部、寛は弓道部だ。  運動部の二人にとって、ここから教室までは大した距離ではない。  二人は並んで教室へと走り出した。    そのため、二人はそれを見ることができなかった。  寛が背中で押し潰し、智哉が小枝で支柱を立てて再起を図った小さな白い花。  その花弁が、光の欠片となってハラハラと散っていくのを。  見ていたのは日向に寝そべっていたウィートだけだった。

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