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第5話 花はいつまでも

『一月往ぬる二月逃げる三月去る』の言葉通り、両想いになってからあっと言う間に終業式を迎えた。  運悪く終業式の日に日直に当たった智哉。  ペアになっていた野球部の柏田は、ホームルームが終わると智哉に土下座をして謝ると、大荷物を抱えて風の如く教室を出ていってしまった。 「日直、押し付けられたな」 「春の選抜高校野球の出発日って言われたらねぇ」 「誰かと交代すればいいんだ」 「その代わり、寛が付き合ってくれてるじゃん」 「当たり前だ」  今日はどの部活も休みだ。  ほとんどの生徒は帰路につき、春休みを満喫し始めているのだろう。  日誌を抱えた二人は、担任が控えている生物室横の準備室に向かっていた。 「橋田谷先生いますか?」 「はい、いますよ」 「日誌持ってきました」 「ああ、ありがとう。そこに置いてくれる?」 「はい」  橋田谷は定年間近の教師だ。  ポッキリと折れそうな細い体の上に、歳の割に若く見える小綺麗な顔をちょこんと乗せている。  女子生徒には可愛いおじちゃん先生扱いされているが、締めるところは締めてメリハリがあり、教師だけでなく生徒からも好かれている。  彼は事務机から顔を上げて微笑むと、何かの書類が積まれている長机を指差した。  その指示に従い、空いているスペースに日誌を置く。  さて帰ろうかとした時、隣にいた寛が腕を掴んでそこに引き留めた。   「おい」 「何……って、これ」 「どうした?」 「先生、この花」  智哉が指差したのは、壁に掛かった一枚の絵だ。  青々と茂った芝生に囲まれて咲いている花は、寛と一緒に見たあの白い花だった。  橋田谷は目を見開くと智哉を凝視した。   「見たことあるのか」 「はい。去年の秋に、俺たち二人で」 「ああ、なるほど。今年は君たちだったのか」 「え、なんか言いました?」 「いいや」  寛がその問いに答えると橋田谷が何かを呟いたが、それはこもっていてよく聞き取れなかった。  智哉は気になって聞き返すが、それには答えてくれなかった。  智哉はまた白い花の絵を見上げた。  あの日、帰ってから家にあった図鑑で調べたがそれには載っていなかった。  不思議と惹かれるこの花はなんだろうか。   「先生が描いたんですか」 「僕がここの学生だったときにね。この花は僕とパートナーの思い出の花なんだ」 「綺麗ですね」 「そうだね。もう一度見たいんだけど、なかなか見つけられなくて」  懐かしそうに、けれど困ったように笑う橋田谷は、還暦間近の男性に言うのもなんだがどこか儚く感じた。   「特別棟の裏の林で見つけましたよ。もしかしたら来年も咲くかも」 「そうだね。ありがとう」  そんな橋田谷を元気付けたくて、智哉は自分の持っている情報を伝える。  あの花があそこに咲いていたということは、過去にもそこに咲いて種を落としたからだ。  橋田谷がまた白い花を見つけられることを祈り、智哉は橋田谷の控室を後にした。  廊下に出てからはひっそりと寛と手を繋ぎ、家路を急いだ。    *  しんと静まり返った生物室の準備室で、橋田谷は白い花の絵を眺めていた。  これを見ていると学生に戻った気分なる。  還暦も近いというのに、あの頃のことを鮮明に思い出せる。  彼は事務机に戻って椅子に座ると、おもむろに引き出しから革張りの手帳を取り出し、手帳の最後のページに大切に挟まれていた写真を皺が刻まれた手でなぞる。 「紀夫、今年の恋華、ちゃんと咲いてたみたい」    写真には年若い男が二人、幸せそうに笑っている姿が写っていた。  一人は橋田谷で、もう一人は、もう会うことはできない橋田谷の最愛だ。  橋田谷が腕に走る傷跡を押さえて微笑むと、それに応えるように春の暖かな風が準備室に吹き込んだ。

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