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第6話 運命の歯車
朝になり、えりこからの電話を取ってからというものシンとコスは入れ替わりながらリビングと玄関を行ったり来たりしていた。
「シン、コス、コーヒーを入れたからこっちに座って?」
苑人は一人だけ冷静さを失っていなかった。
「えりこ、遅いな。今日に限ってこんなに待たせるなんて」
シンは苛立ちを眉間に浮かべ、瞳をせわしなく部屋の中のあちらこちらにさ迷わせていた。
「シン、せっかくエントが淹れてくれたお茶が冷めちまうだろ」
苑人は視線をコスの手元に向けながらポツリと言葉をこぼした。
「あの、お茶の方が良かったかな」
コスは苑人の顔と手元のコーヒーカップを見比べるように視線を這わせ、顔を僅かに赤らめた。
「分かったよコス。せっかくのお茶を無駄にしちゃエントに悪いからな」
シンはさらりと言うと、テーブルに腰を下ろし、カップに口を寄せた。
コスはシンの言葉の意味に気づき、ぷっと頬を膨らませた。
「うん。美味いお茶だ、エント」
「嫌味だな、シン」
少しだけしょげていた苑人の顔に朱が差し、下を向いて笑いを堪えていた。
「あ、エント。美味いよこのコーヒー」
三人は言い知れない不安に包まれ、それぞれの思いを互いに抱え合うように、えりこの到着を待っていた。
「待たせたわね」
「えりこ、どういうことなんだ? エントのお母さんが見つかったって本当なのか?」
えりこが部屋に入るなり、コスは物凄い形相で彼女を睨みつけた。
「やめてよ。まるで親の仇にでも出くわしたような顔しないで。まずは落ち着いてちょうだい」
彼女はテーブルの上に書類を広げた。
「先週、苑人がカメラマンの立木と交わした契約書を覚えている?」
シンが立ち上がった。
「エントを初めてスタジオに連れて行った時だろう? それがどうしてエントの母親と関係があるんだ、えりこ?」
えりこはもう一枚の書類を取り出すと、一番長い文字の列を指指した。
「この住所を見て。エントが契約書に書いた住所と同じよ。エントは記憶を頼りにお母さんと住んでいた住所を書いたの。それを立木が調べてみたらしいの。そうしたら、あったの。この住所に住んでいた人が分かったのよ」
「怪しい野郎だ立木は。信用できるもんか!」
コスがテーブルから視線を逸らし、舌打ちをした。
えりこはコスの肩に手を置き、宥めるように続けた。
「コスの言いたいことはわかるわ。確かに立木はすぐモデルに色目を使うし、スタッフの扱いも決していいとは言えないわ。でもね、何かを見極めるチカラはあるの。まあ芸術的センスとは言えないかも知れないけどね」
「あいつは自分の下半身の奴隷さ。分かっていれば簡単に操れる。使い方次第だよ、コス」
シンが珍しく辛辣な言葉を添えた。
えりこは更にバッグの中から二つに畳んだ書類を取り出し、テーブルの上に広げた。
「これを見て」
「なんだよ、ん? 選挙の広報か? もう選挙は終わっただろ」
「違うわ。この写真の女性を見てほしいの」
シンとコスはえりこが指を指した人物を食い入るように見つめた。
「コス、何だかエントに似ていないか?」
「ああ、俺もそう思った」
「えりこ、その人がまさかエントの?」
えりこはふーっとため息をつき、天井を見上げるような仕草をした。
「その女性なの。エントが覚えていた住所に住んでいた人は。でも今は誰も住んでいないらしいの。さすがに転居先までは一般人には調べられないからね」
苑人は周りの空気を読んでいたのか、ようやくおずおずとテーブルの上の書類を手にした。
「あ、エント?」
シンが書類を掴もうと手を伸ばしたが、徒労に終わった。じっと写真を見つめて、苑人は静かに涙を零した。
「母さん……」
コスがすっと苑人の傍に行き、小さな肩をそっと両手で支えた。
「エント、間違いないのか?」
苑人はシンの言葉にも顔を上げず、小さく頷いた。
「えりこ、それで父親は? 苑人の父親はどこにいるの?」
えりこはじっと苑人の顔を見詰め、ぼそりと零すように話し始めた。
「もうエントだって子供じゃないし、知る権利があるわよね。でもエント、聞いて後悔はしない?」
苑人は顔を上げ、力強く言った。
「僕は平気だよ。どんな話でも僕は知りたい。母さんのこと、父さんのこと」
「わかったわ」
えりこは、悲しい決意の迷いを振り払うように、神妙な顔つきになった。
「その写真の中央にいる人物を見て。男の名は小笠原義晴。現役の国会議員よ」
「国会議員?」
シンが思わず声を上げた。
「正確には衆議院議員。今回の総選挙では与党候補として当選したわ。エントの母親、丹治由美子は独身だったの。つまりシングルマザーね。彼女の周りでは父親が小笠原義晴だと思われているらしいの。でも小笠原はもちろん、彼女も頑なに父親の名は口にしなかったの。」
「それにしても随分早く、しかも簡単に分かったもんだな」
コスがえりこの言葉を訝しんだ。
「そうね、立木のチカラは侮れないわ」
えりこはそう言いおいてキッチンへ向かって歩き出した。
「なあえりこ、その話本当に信じられる情報なのか? 」
「どうかしらね。エントはどう思う?」
シンとコスは苑人の様子を伺っていた。そして苑人はポツリと言葉を吐いた。
「父さんは死んだ。ずっとそう聞かされてきたよ、母さんから。でもおばあが言ったんだ。父さんは本当は生きているって。事情があって今は僕を迎えに来られないんだって」
シンが苑人の左手を強く握った。
「エント、これからは俺たち二人がエントの親代わりだ。どんなことがあろうと、俺たちがお前を守るよ」
シンはコスにふっと視線を投げた。
「もちろんだとも。そこまでしてエントを遠ざけているような親より、俺たちはずっとエントのことを愛しているよ」
「違うのよ二人とも。あなた達と本当の両親は違うわ。どんなに頑張っても親にはなり代われないのよ」
えりこの言葉が哀しく響いた。
コスは膨れっ面を浮かべ、コーヒーカップを口元に押し付けた。シンは苑人の頭に優しく触れ、固く口を結んだ。
「シン、コス、僕は二人に本当に感謝しているよ。もちろんこの世界で一番愛してる。でも、でもね。母さんに、父さんに会いたい」
長い長い寂しさは苑人を優しく育て上げた。自分のことよりも、相手のことを大切にする優しさを身に付けさせた。だが今は苑人の心の中にある本当の思いが口を突いて溢れ出た。
シンは苑人の寂しさの奔流を受け止めるように、苑人の頭に両手を添え、厚い胸に引き寄せた。
「会えるのか、えりこ?」
コスが二人に代わり口を開いた。おそらく三人は一様に同じ思いを抱いていた。
「今はまだ彼女の行方はわからないの」
えりこはキッチンから出て、三人がいるダイニングに戻ると、腕を組み、壁に背中を押し付けた。
「じゃあ父親は? 国会議員なんだろ? 彼なら居場所は掴めるだろう?」
コスの言葉に、えりこは一度は開きかけた口を閉じ、そのまま唇を噛んだ。
「えりこにばかり頼むつもりはない。俺たちにも訪ねていくことはできる」
シンの言葉にえりこがテーブルに手を置き、重たげに口を開いた。
「いきなりあなた達が面会を申し入れて、向こうが了承すると思うの? 相手は与党議員なのよ。あなたの息子ですと出て行って、はいそうですかと会ってくれる訳がないわ」
つい口にした言葉に、えりこ自身がはっとして苑人を見つめた。
「迷惑だよシン、お父さんの迷惑になる。僕は迷惑がられるなら会わない……」
苑人の言葉にえりこは目頭を熱くした。そして意を決したように居住まいを正した。
「エント……分かった。私が連絡をしてみる。少しだけ時間をちょうだい」
「えりこ? 連絡を取るって、小笠原義晴にか? いったいどうやって……まさかえりこの知り合いなのか、その男?」
えりこはシンの言葉に返事をせず、バッグからスマートフォンを取り出すと、数回ほど画面に触れた。えりこの耳に当てられた電話から男の声がした。
「どうした? 君から連絡が来るとは思わなかったな」
「義晴さん、久しぶりね。当選おめでとう。活躍はテレビで観たわ。早速だけど少しだけ時間取れないかしら。ええ、都合はあなたに合わせるわ。大切な話があるの。ええ、分かったわ。連絡待っているから。じゃあ」
そう言うと、えりこは通話を終えた。
コスがえりこに掴みかかりそうな勢いで口を開いた。
「どういうことだよえりこ! その男はえりこの知り合いなのか? いや、知り合いどころの関係だとは思えなかった。まるで……」
コスの問いかけに被せるようにえりこが言い放った。
「昔の男よ、私の!」
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