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BACKSTAGE / # 19. Stop Breaking Down
スケジュールでは、今日はプラハに戻り次の公演があるコペンハーゲンに発つ日まで、バンドは暫しのオフのはずだった。
スイートルームのソファではっと顔をあげ、ロニーは窓から射しこむ光に夜が明けたことを知った。眠った覚えなどなかったが、一瞬の交睫 の間に数分が経った、というのを何度か繰り返したような気はした。そうでなければさすがにもつまい。
ぐるりと室内の様子を見る。テーブルを挟んで対角線の位置、ソファの端ではルカが見たこともない悄然とした面持ちで、スイッチの切れたロボットのようにぴくりとも動かず項垂れていた。ドリューは一人掛けのチェアで腕を組み目を閉じていて、起きているのか眠っているのかわからない。その横にあるテーブルにはカルロヴァチュコの空き瓶がずらりと並べられていて、床にも数本転がっていると思ったらそこにユーリも横たわっていた。酔い潰れて眠ってしまったのだろう。素面ではとてもいられなかったに違いない。
食事にも会議にも使えそうな大きな楕円形のテーブルセットには、ジェシとエリーがいた。エリーはテーブルにラップトップを置いて、かたかたとキーボードを叩いている。ジェシはその様子を眺めているようなポーズで頬杖をついていたが、今にも落ちそうに眼鏡がずれているところをみると、うたた寝しているようだ。
見ていることに気づいたのか、エリーが顔をあげてこっちを向いた。
「ずっと起きてたの?」
ロニーが尋ねると、エリーは首を横に振った。
「ううん、一時間ほど眠った」
つまり、自分とそう変わらないということだろう。ロニーは背中を伸ばすように坐り直し、今からなにをすべきなのかを考えた。テディの無事を祈り、警察からの連絡――若しくは、攫った犯人からの――を待つのは当然だが、それならホテルに延泊も頼まなければいけない。しかし全員が残る必要もないだろう。
そういえば、とロニーは再度、部屋の隅々までを見まわした。
「ヴィトやドミニクたちは? 部屋に戻ったの?」
「クルーの子たちも心配そうにしていたけど、とりあえず予定通りプラハに帰らせるのに、部屋に戻って荷造りをしておくように云っといた。ルカやユーリたちは帰れって云っても聞かないのがわかってるけど、あの子たちまで付き合わせてもしょうがないと思って」
エリーの判断に、ロニーは「ありがとう」と素直に感謝した。
「たすかったわ。ごめんなさいね、私がしっかりしてなくちゃいけないのに……」
「私だって、しっかりしてるからやってるわけじゃない」
いつも感情を乗せない話し方をするエリーの声が上擦った。「なにかしてないと、他のことを考えてないと堪えられない」
眠っているように見えていたジェシの腕があがり、隣りにいるエリーの髪をそっと撫でた。エリーの目から大粒の涙が落ちる。
「ユーリも、夜中にあてもないのにテディを捜しに飛びだしていきそうだった。飲ませるしかなかったよ」
ドリューも目を開け、そう云った。容易に想像がついた――喧嘩になったとき、ドリューにちくりと云われたときは激高していたが、ユーリがテディのことを真剣に愛しているのは誰の目にも明らかだった。ならば、ルカは。ロニーはもう一度、視線を戻してルカを見た。
「ルカ? ……聞こえてる?」
大丈夫? だなどと莫迦莫迦しい問いかけをする気になれるはずもない。ルカは虚ろな目をただなにもないところに向けているだけで、まったく反応がないままだった。痛々しささえ感じるその様子は、まるで半身を千切られたかのようだ。
もしもテディが無事に戻らなかったら、このまま気が触れてしまうのではないか――ふとそんなことを思い、ロニーはしめつけられる痛みに胸を押さえた。
今、部屋のなかにいるのは自分とエリー、そしてバンドの四人だけだった。ステフはどこに行ったのだろうという疑問が頭を過ぎったが、BIAのエージェントだという彼が、この状況で無駄な動きをするわけがない。なにか手懸かりでも追っているか、他の捜査員と連絡を取ってでもいるのだろう。
――ベオグラードで買ったチョコレートをバッグから持っていくように云ったとき、テディがなにを思ってかUSBフラッシュドライブを持っていってしまったのではないか。ルカがその可能性に気づいたあと、ロニーは彼と一緒に、部屋に残されていたテディの荷物を確認した。だが、フラッシュメモリらしきものなどどこにも見当たらなかった。あらためてよく考えてみても、他にバッグを触った者などいないはずとルカはまた首をひねっていた。
私は、私にできることをやらなければ。ロニーは、自分が仕事のことでストレスを抱えているとき、いつも穏やかに微笑みかけてくれたターニャの言葉を思いだした――とりあえず温かいものでも飲んで、美味しいものを食べましょう。お腹を空かせてちゃいけませんよ、しっかり頑張らなきゃいけないときにお腹に力が入らないでどうするんです。
ロニーは立ちあがり、壁際のライティングデスクにつかつかと歩み寄ると、延泊と朝食のルームサービスを六人分頼むため、受話器をとった。
* * *
自分を見張っている男は、ベッドでひとりカード遊びに興じていた。他の部屋にも何人かいるのか、時折ドアの向こう側から足音が聞こえたりもした。窓には板が打ち付けられ、隙間から細く射しこむ光が薄暗い部屋に舞う埃をきらきらと瞬かせている。灯りと呼べるものは、ベッドの傍にあるテーブルに立てられ、カードを照らしている蝋燭だけだ。
自分をどうするつもりなのかはわからないが、なんとかして逃げだすか、それが無理でもせめて自分がここにこうして捕らわれていることを外の誰かに伝えなければ。テディは落ち着こうと呼吸を整え、男に向かって「ねえ」と、声をかけた。
「あの……トイレに行きたいんだけど」
持っていたカードをばさりと放りだし、男がこっちを向いた。
「しょうがねえな」
自分のほうへ近づいてきて、男は足許にしゃがみこむとテディの自由を奪っているロープを解いた。両手首は背 で縛られたまま、腕と脚はどうにか動かせるようになる。テディは一瞬動かせるようになった脚で男を蹴飛ばしてやろうかと思ったが、中途半端に下手なことをしないほうがいいと考え、ぐっと堪らえた。
「ほら、トイレはここだ。水は出ねえけどな」
男が腕を引き、部屋の奥側にあるドアを開ける。部屋と違ってバスルームのなかは明るかった。見ると、高い位置にホッパーウィンドウがあり、そこから陽の光が降り注いでいた。が、テディは失望に唇を噛んだ――幅はあるが高さがなく、下部に蝶番があり内側に開くタイプのこの窓からでは、とても外には出られない。
「下手な考え起こすなよ。ま、あの窓からじゃ出られねえがな」
それがわかっているから、すぐに頼みを聞いてくれたのか。しかし、なにか方法はあるかもと、テディは振り返って男を見た。
「……手も解いてくれなきゃ、できないよ」
「手伝ってやろうか? 俺が脱がせて、持っててやるよ」
男がそう云い、にやにやと下卑た笑いを浮かべる。頗る不愉快だったが、同時にテディはおや、と思った。さっきも少し感じたが、こいつはどうやら自分に興味を持っているらしい。
――まだ十二にならない頃から、何度も何度も酷い目に遭ってきた。その所為なのかテディは、男が自分に性的な目や欲望を向けてくると、いつからかそれを敏感に察知できるようになった。その勘を信じるなら、おそらくこいつも同類だ。
テディは顔を顰め、困ったように首を振った。
「冗談だろ。なあ、逃げられないのはわかったから、これ、解いてよ。早く済ませるから」
「めんどくせえな。大声もだすんじゃねえぞ、ここで待ってるからな」
意外とすんなりロープを解いてもらえ、テディはほっとした。が、男はドアを開けたまま、そこに立っている。
「……恥ずかしい。見られてちゃできない」
「いちいちうるせえお嬢さんだぜ」
そう云いながらも、男はドアを閉めてくれた。
よし、とテディはバスルームを見まわし、なにか使えるものはないかと探した。が、なにもない。シャワーカーテンすら掛かっていないバスルームの中は、あちこちタイルが罅割れて剥がれ、鏡はずいぶん前に割れたか外されてしまったのか、欠片すら残っていなかった。蛇口を捻ってみたが男の云ったとおり水は出ず、蛇口とハンドル部分がぐらぐらと動いた。
テディはホッパーウィンドウを見上げた。便器にそっと足を乗せ、恐る恐る体重をかけてみる。そして窓枠に手を掛け、もう一方の足もあげて便器の上に立った。
そうしてテディは窓枠に掛けた指先に力を込め、爪先立ちになって横に細長いその窓まで伸びあがると、外を見てみた。辺りには旧い建物が並んでいるのが見えた。が、壁が崩れ、スプレーの落書きだらけで、人が住んでいそうな感じがしない。
しかしテディはあることに気がついた。落書きの文字。自分たちが普段使っているラテン文字ではないものが混じっていた。プラハでもロンドンでも普段目にすることは滅多にないアルファベットだが、自分はあの文字をよく知っている。
「え……でも確か、クロアチア じゃもう……」
過去には使用されていたが、連邦解体後はラテン文字のみになったのではなかったか。
つい、もっと見ようと身を伸ばしたのがいけなかった。つるっと足を滑らせて便器から落ち、テディは「うわっ」と声を漏らし、剥がれ落ちていたタイルを踏んでしまった。かちゃん! と思いの外大きな音が響く。
「なにやってる!」
ドアが開いた。はっとしてテディは男を見た。逃れる間もなく大きな手で頭を鷲掴みにされ、テディは投げるように壁に叩きつけられた。
ず……と壁に血の痕を残しながら、テディは床に倒れこんだ。意識を失う寸前、躰の下からかちゃりと陶器の触れ合う音が聞こえた。
――額に冷たいタオルの感触がして、テディは薄っすらと目を開けた。
「乱暴してすまなかった。頭は大丈夫かな、気分は?」
ゆっくりと意識が浮上し、テディはまた椅子に坐らされ、縛られていることに気がついた。傍らには見張りの男――バスルームで自分を張り倒した男が立っていて、おもしろくなさそうな顔で濡れタオルをテディの頭に当てている。
眼の前にはさっきはなかった椅子が置かれ、そこにスーツ姿の男が腰掛けていた。恰好だけ見れば洒落たイタリアンスーツを着こなす若き実業家というところで、言葉遣いも丁寧だったが、その眼には剣呑な光が見て取れた。冷たく鋭い、人を殺すことをなんとも思っていないような人間の眼。見れば、背後には他にも四人の男がいた。皆スーツの男を見守る護衛のように、壁際に立っている。
「まあ、あまり居心地は良くないだろうが、もう少し辛抱していてくれ。あとで君の大切な恋人に電話をかける。そのとき、声を聴かせてやってくれるとありがたい」
「……プラハのフラットと、事務所と、サズカ・アリーナの楽屋を荒らしたのはあんたたちなんだな? ネムリーテジク・スポーツアリーナでエミルを襲ったのも、警備員を撃ったのも。……なんなんだ。いったいなにが目的なんだ? 教えてくれよ、さっぱりわけがわからないんだ」
「うん、君はわからないんだろうな。だから本当に申し訳ないと思ってるよ……恨むんなら君の恋人を恨むといい」
テディはその言葉に眉根を寄せた。
「……ルカは、いったいなにをしたんだ? あんたの女房と寝た?」
すると男は、さもおかしそうに大口を開けて笑った。
「それはおもしろい。おもしろいが……残念ながら俺は独り者でね。もちろん、ベッドで愉しむ相手は掃いて棄てるほどいるが」
違うのか。じゃあいったい……と、テディは男の顔をまじまじと見つめた。
「まあ、安心してくれ。ルカやロニーや、ユーリ、ドリュー、ジェシ……彼らが下手な小細工をしてこなければ、君は無事に彼らのもとへ帰れる。もちろん、全員の命も保証する。彼ら次第だ」
ひとりひとりの名前をわざわざ云ったのは、仲間のことをすべて把握しているぞという脅しだろう。それを聞いてテディは、立ちあがって背を向けた男に「待ってくれ!」と身を乗りだした。
「部屋を荒らされたりしたとき話してたけど、ルカはなんにも心当たりがないんだ! あんたたちがなにを要求するつもりなのか知らないけど、なにか誤解があるんじゃないのか!? あの鏡のメッセージの意味だって、さっぱり――」
必死に食い下がりながらテディはがたがたと椅子を揺らした。ほとんど動けない躰でもがくように、必死に部屋を出ていこうとする男に近づこうと暴れる。すると――
「もう少し辛抱していてくれと云ったろう」
男の声が低く、凄みを増した。「誤解かどうかはもうじきわかる。それまでおとなしくしていてもらおう……ああそうだ。テディ、君はそういえば俺たちにとってはお得意さんだったな。……いや、元か」
なにを云われているのかわからず、テディは途惑って小首を傾げた。
くるりとこちらを向き、男はにやりと笑った。
「まったく、便利な時代になったもんだ。君らが有名なおかげではあるが、調べるまでもなくネットを見ればなんだって書いてある。君が子供の頃、母親の男に性的虐待を受けていたことも、男娼 をやっていたことも――ヘロイン中毒者 だったことも、なにもかもだ」
それを世界中の誰もが知っていることくらい、とっくに承知している。テディはだからどうしたと開き直ったような表情で、男を睨んだ。だが――
男はテディの傍までやってくると椅子の背に手を置き、テディの耳許に顔を近づけた。
「いいかテディ。妙な考えは起こさないことだ……もし君が望むなら、いやでも静かにしていられるよう、うちの商品を使ってやってもいいがな」
「商品?」
テディは眉根を寄せ、聞き返した。
「うちのは効くぞ? もっとも、量に気をつけないと天国から帰ってこれなくなるかもしれんがな。なにしろアフガン産、まだ混ぜ物もされてない、とびきり純度の高い物 だ」
息が触れる距離で聞こえた悪魔の囁きに、テディは大きく目を見開いた。
ぞくりと肌が泡立ったのは恐怖のためか、それとも――。俄 に喉の渇きを覚え、テディは自分をこんな目に遭わせ、ルカやバンドの皆を悩ませているのが想像していたよりも遥かに危険な相手なのだと覚り、ごくりと唾を呑んだ。
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