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MEET & GREET / # 27. I Know There's an Answer

 久しぶりに戻ったフラットは、いちばん存在感を放っていたソファとテーブルがなく、がらんとしていた。  テディは結局荒らされた部屋を目にしておらず、惨状については聞かされただけだが、切り裂かれたクッションやソファ、壊されてしまったものなどはすべて処分されたのか、もう跡形もなかった。傷が付き、棚板の外されたシェルフに入っていた物は、片隅に整頓して並べられている。ラグが取り払われ、フローリングが磨きあげられている部屋はまるで、これから越してくる新居か、逆に出ていく状態のように見えた。 「これ……ルカが片付けたわけじゃないよね。誰に頼んだの?」 「ああ、どうせ粗大ゴミだらけだったし、業者に頼んでペトラさんに鍵開けて見ててくれって頼んだんだ。壊れたり汚れたりしたものは全部棄ててくれって云って、あとは適当に任せるって。予想してたよりいろいろ残ったな。もっと空っぽになるかと思ってた」  部屋を見て歩きながらルカがそう云うのを聞いて、テディはそりゃあルカがチェックをしてたらほとんどが棄てられてたんだろうな、と思った。見たところ、きちんと分類して置かれている服などは、一度すべて洗濯して畳んであるようだった。小物類もほとんどは元あった場所に収まっていた。ところどころぽっかりと空いているところにあったものは、破損するなどして已む無く廃棄したということなのだろう。 「……またソファとか買わないとね。ツアーが終わってからかな」 「ああ、それなんだけどさ」  がらんとしたリビングを横切り、ルカはキッチンへ行くと冷蔵庫からマットーニを二本だし、カウンターテーブルに置いた。ルカがスツールを引きだすと、テディもありがとうと云いながらその隣に腰掛ける。 「考えてたんだけど、ついでだから引っ越さないか?」 「引っ越し?」  きりりとマットーニのボトルを開けながら、ルカは云った。 「うん、ここも窓からの景色はいいし、気に入ってたけど、そろそろちゃんとした(ハウス)がほしいなと思って」 「家って……戸建て(デタッチドハウス)?」 「うん。ほら、おまえは返事待ってくれって云ったけど……結婚のこととかも考えてさ」  ルカが今、この話をするとは思わなかった。テディは視線を彷徨わせ、返す言葉に困ったのをごまかすように水を飲んだ。  なんだかいろんなことがあって、それどころではなくなっていた。忘れていたというわけではない。他に考えなければならない、優先すべき事柄があっただけだ――それも、自分たちの命に関わるような。それに、思いがけず抱えることになった不安ももうひとつ――  テディは「ごめん、煙草吸ってくる」と云っていったんキッチンを出、無事に残っていたお気に入りのエッグチェアにすとんと腰を下ろした。  いつものように窓を開け、美しいプラハの夜景を眺めながらゴロワーズ・レジェールに火をつける。吐いた煙は暗い空に呼ばれるように生暖かい空気と混じって漂い、消えていった。  ――ファンに囲まれ、頬にキスされていた写真。バッグに入っていた〝口紅〟。それらが実は考えすぎだったとか誤解だったとか、そんなことはどうでもいい――肝心なのは、自分がルカを信じきれなかったということだ。  立ち昇る煙を見つめながら、テディは考えていた。結婚して法的にも完全な家族になれば、ちょっとやそっとではぐらつかなくなるのだろうか。もしも本当にルカが浮気をしたとしても、結婚していれば自分の立場のほうが強いと自信を持っていられるのだろうか。結婚とはそんなことのためにある制度なのか? 指環とは、相手を拘束する手枷のようなものなのだろうか?  ルカは、自分がちょっとしたことですぐ不安定になるから、結婚という確かなものを与えてくれようとしているのかもしれない。しかし―― 「……テディ?」  はっとして、テディは伸びた灰をアッシュトレイに落とし、一口吸って煙草を揉み消した。いつの間にか、ルカがすぐ傍に立っていた。椅子ごとくるりと振り向き、テディは困ったように笑った。 「……いいよ、わかった」 「……まだなにも云ってないよ」  ルカは云わなくたってちゃんとわかるとでも云うように、笑みを浮かべて頷いた。 「まだ気が進まないか、ぴんとこないんだろ?」  その顔に、ほんの少しがっかりしたような色を見て、テディは「ごめん」と詫びの言葉を口にした。 「ぴんとこないっていうんじゃないんだ。なんていうか……結婚して、これでもうずっとなにがあっても一緒だって、慢心してしまいたくないんだ」 「慢心? そこは安心じゃないのか?」 「安心して、そこにふんぞり返っちゃうのは違うなって思ったんだよ。俺はルカのことを疑った。信じきれなかった。そんな俺がルカと結婚して、本当に家族になって安定した生活ってやつを送るの? 無理だよ……今までより酷い喧嘩をするようになるだけだよ」  ルカは眉間に皺を寄せつつ、黙って聞いてくれている。テディは続けた。「たぶん、俺にはまだ早いってことなんだ。いつか、俺が自分のことにもっと余裕ができて、ひとりでもなんの問題もなくやっていける自信がついたら……ルカがいないとだめだからじゃなくて、ルカのために傍に居たい、結婚したいって思える気がするんだ」  だから、今はごめん。その言葉を再び口にすることはできなかった。ルカは無言で頷きながらテディの肩に手を置き、撫でるように窓側へと移動した。 「わかった。真剣に考えてくれただけで充分だ。そのうち、きっとタイミングがやってくるさ、そのときを楽しみにしてるよ」 「……ルカ」  テディはルカの顔を見上げ、ルカは窓から街灯に浮かぶ通りの景色を見下ろした。テディは、ルカが自分の云ったことを聞いてどう感じているかが気になってしょうがなかったが、ルカはどこか遠くを見ていて、その表情からはなにも読み取れなかった。 「じゃあ、家もやっぱり先送りかな。まあ、まだキッチンもリフォームしてから二年くらいしか経ってないし、もうちょっとここでいいか」 「うん。ここ気に入ってるし、引っ越す必要はないよ」 「よし、じゃあ明日にでも家具屋のコーディネーターに頼んで、北欧廻ってるあいだに部屋らしくしといてもらおう。おまえ、別に拘りとかないよな? おまかせでいいよな」 「うん」  ルカはくるりと踵を返し、空っぽのリビングをすたすたと歩いていった。テディも立ちあがり――ルカはどの辺りを眺めていたのだろうと、窓の外を見やった。軒を連ねているアール・ヌーヴォー様式やネオ・ルネッサンス様式の建物には、ぽつりぽつりと灯りが漏れている。ルカはあの灯りを見ていたのだろうか。だがテディは、その暖かそうな光や街灯の眩さよりも、路地の暗さに気を引かれた。  ヌスル地区、ヴルタヴスカー駅、ヴァーツラフ広場近くの裏通り――脳裏に浮かんだいくつかの場所に、テディは目を閉じ、ゆるゆると首を振った。だめだ。繰りかえしてはいけない―― 「――ぃ、テディー?」  はっとして振り返る。見ると、ドアの陰から顔をだしルカが呼んでいた。「なに?」と返事をすると、ルカはリビングに戻ってきて、面倒臭そうに頭を振った。 「ベッドは綺麗に整えてあるけど、坐るところがなくてなんか落ち着かないと思わないか。今からでもホテルに行くか?」 「ええ?」  ソファがないだけで、坐るところがないというのがなんともルカらしいなとテディは苦笑した。他に椅子がないわけでもないし、冬ではないのだから別に床に直接腰を下ろしたっていい。だが、そんな発想はルカにはないのだろう。 「……ホテルはもういいよ。どうせまたすぐに北欧も廻るんだし。坐るところがないなら、ベッドでごろごろしてようよ」 「ベッドで?」 「うん。ベッドで」  途端になんだか嬉しそうな、締まりのない顔になるルカにくすっと笑う。  云ったとおり、ふたりはベッドで学生の頃のようにじゃれ合いながらいろいろなことを話し、触れあい、そして夜も更けた頃にはそうするのが当たり前のように融けあった。久しぶりのわりにはゆっくりと優しい抱き方だったが、それは頭の傷を気にしたからだろうと、テディはあとから気づいた。  本当は、もっと滅茶苦茶に愛してほしかった――ぐったりと意識をとばして、他のことなどなにも考えられなくなるほどに。        * * *  プラハに戻って暫しの休息も終わり、ジー・デヴィールはヨーロピアンツアーの終盤である北欧に向けて飛んだ。  デンマークはコペンハーゲンにあるロイヤル・アリーナ、ノルウェーはオスロのテレノール・アリーナ。スウェーデンではエリクソン・グローブでの公演を終えてから、TVと雑誌の取材のためにそのまま三日間ストックホルムに滞在する。  そしてアイルランドへ移動、ダブリンでの公演が済んだらいよいよマンチェスターとロンドンで二公演ずつ。それでおよそ二ヶ月かけて廻ったツアーも終了である。  コペンハーゲン、ロイヤル・アリーナでのコンサート終了後。チボリ公園近くにあるデンマーク料理のレストランで、バンドとクルーたち、エリー、そしてロニーといういつもの面々は恒例の酒宴を開いていた。が、今回は終えたばかりのライヴの話ではなく、無事に解決した一連の事件が話題の中心になった。  ちょうどポータルサイトのニュース一覧のなかに、『海の底から七十キロのヘロイン――ヴァルナ港、ブルガリア』という見出しをみつけたばかりだった。そういえば、今回いろいろなことがあったにも拘わらず、タブロイド紙やゴシップ雑誌に書かれるようなことがなかったなと、ロニーは気づいた。そのことを疑問に思い、レストランへ向かうタクシーの中でエリーに話してみると、彼女はステフが押さえこんでいたのだろうと云った。  確かにそうかもしれない、とロニーは思った。なにもバンドのためを思ってのことではない。周囲にパパラッチなどが押しかけてくるようなことになったら、捜査の邪魔になるうえ、余計な犠牲が出かねないからだろう。  レストランに着くと、一同は先ずテディが無事に救助され戻ってきたことを乾杯した。そのあとは皆、起こっていたことについてテディにあれこれと質問をした。どんなところに監禁されていたのか、逃げようとしたと聞いたが怖くなかったのかなど――彼はちょっと困った顔をしていて、ロニーはもうそんなことはいいじゃないと、話を変えようとした。 「もう、せっかく無事で今ここにいるのに、そんな話はやめましょ。テディだって困ってるじゃない」 「だな。テディにとっちゃ早く忘れたい、怖ろしい出来事だろう。もっと酒が旨くなる話にしようぜ」  ユーリがそう云うとヴィトやカイルたちはすみません、と謝った。ロニーも心のなかでユーリに感謝した。事件に纏わるいろいろなことを忘れたいのは、ひょっとしたらテディよりも自分のほうかもしれなかった。  だが、テディが「でも」と話し始め、ロニーは意外そうにその表情を見つめた。 「最後、ちょっと危ないところをたすかったのはドミニクのおかげなんだ。まだ云ってなかったから俺、ドミニクにお礼を云わなくちゃ」  それを聞いて皆は一斉にドミニクの顔を見た。だがドミニクはなんのことかわからないというように、ぽかんと口を開けている。ロニーもいったいどういうことかと首を傾げ、テディに尋ねた。 「それってどういうこと?」 「うん、実はチューリヒでさ――」  ハレンシュタディオンでの公演を翌日に控え、チューリヒのホテルで暇を持て余していた日のこと。ちょっといつもとは違ったストレスの解消にいきますかと云われ、テディとユーリはドミニクとブルーノにあるところに連れていってもらった。  チューリヒのホテルから車を走らせること、およそ三十分。シュプライテンバハというスイスで最も小さい都市のひとつへと向かい、ドミニクが着きましたと云って指したのは射撃場だった。それもグアムなどにあるような、外国からの観光客がちょっと撃って愉しむというようなところではなかった。  入り口でカードを提示し、利用者名簿にサインをしながらドミニクが説明してくれた――スイスにはこういった射撃場がいくつかあるのだが、どこも大抵は会員制で、しかもその会員にはスイスに国籍があり、審査に通った者しかなれないのだそうだ。が、会員のゲストとしてなら外国人でも施設内への立ち入りと見学が可能で、銃の構造の理解、分解、組み立て、扱い方など基本から学べば射撃体験もできるのだという。  テディとユーリは、家族ぐるみで会員なのだというドミニクとブルーノのゲストとして、銃についての基本からきちんとレクチャーを受け、セミオートマティックの拳銃(ハンドガン)、ボルトアクション方式のスナイパーライフル、そしてアサルトライフルまで使用しての射撃を体験させてもらった。 「――だから、そいつの銃のスライドが戻ってないのを見て弾切れだってわかったんだよ。おかげで落ちた銃と弾倉(マガジン)を拾っても、すぐに装填して撃てる状態にできたんだ。もしドミニクがあそこへ連れていってくれてなかったら撃ち方もなにも知らないままだったし、弾切れなのもわからなかったよ」  その話を聞いて、ロニーは手にしていたオープンサンドからぽろりと海老が転げ落ちても気づかないほど驚いた。 「ちょっと、そんなことなにも話してくれなかったじゃないの! 射撃場!? 銃を!? 犯人に向けたの!? テディ、あなたが!?」 「うん。ステフ、その話はしてなかったのか。俺が犯人に銃を向けて、それで確保って声がしてBIAが突入してきたんだよ」 「まじっすか、俺のおかげでたすかったってんならめっちゃ嬉しいですよ。まじでよかったー」 「ってか、めっちゃかっこいいじゃないですか。映画みたいだ」  ドミニクやブルーノは愉快そうに盛りあがっていたが、ロニーはなんて怖ろしいと首を振り、グラスの水を一息に飲んだ。ルカもそんな話はいま初めて聞いたというように、ユーリを睨みつけながら溜息をついていた。 「結果としていいほうに転がったからよかったものの、おとなしく救助を待ってればいいのに危ないことばっかりして……」 「まあまあ。もうこんなことには巻きこまれたくないが、銃くらい扱えて損はないさ。むしろ扱い方も知らないのに、撃たなきゃいけないような場面に遭うほうが怖いだろ」  ユーリの言い草にますますありえないというように、ルカが首を振る。 「そんな場面、もうあってたまるかよ」 「ですよねえ。あ、そういえば、そもそも巻きこまれるきっかけになったフラッシュメモリって結局、どこにあったんですか?」 「そうだわ。そのことだけ、いくら訊いても教えてくれないのよね……。もういいじゃないテディ。どこに隠してあったのか教えなさいよ」 「えぇ……云いたくないなあ」 「それだけ頑なだとかえって聞きたくなるな。そんな、云えないような場所っていったいどこなんだ」  ユーリにまでそう尋ねられ、テディはうーんと迷うような表情をしながら、ちらりとロニーのほうを見た。そして隣りに坐っているユーリの肩に手を掛け、顔を近づけ耳打ちをする。すると、ユーリが眉間に皺を寄せ、目を丸くしてテディを見た。 「――あそこに?」 「うん。……云ったらまずいよね?」 「しかし、BIAは回収に行ったんだろ?」 「まあ、法的にはアウトじゃないし、そもそも管轄外だろうから……」 「おい、なんかやばそうな会話が聞こえてるんだが」  ユーリとテディが小声で話すのを聞き、ルカが眉をひそめて突っこんだ。ロニーもなんだか聞き捨てならない気がして、厳しい目でふたりを睨む。 「ちょっと、真面目に説明してもらおうかしら。テディ、あなたいったいどこにメモリを隠したの? なにが管轄外なの、云いなさい」  するとテディは苦笑を浮かべユーリと視線を交わし、云った。 「屋上だよ」 「屋上? ……って、事務所のところの?」  テディは観念したように頷いた。 「ルカのバッグから口紅がでてきて、てっきり浮気相手のものだって思いこんで……棄てるのもなんだし、でもそのまま持ってるのも嫌で、ユーリと屋上に行ったときにプラスティックバッグに入れてしっかり(くる)んで、に埋めたんだ」 「鉢?」  屋上に鉢、と聞いて皆は首を傾げていたが。 「……大麻(カナビス)だよ。栽培してるんだ」 「はあ!?」  ドリューやジェシは驚き、エミルやドミニクたちクルーはなるほどといったように笑ったが、ロニーは目を吊りあげ椅子から立ちあがった。 「屋上で大麻って、あ、あんたたち事務所のあるところでなにやってくれてるのよ!」  怒りも顕に声を荒らげ、テディがきゅっと首を竦める。 「や、でもロニー、チェコじゃひとり五株までは栽培していいことになってるし、別に捕まったりはしないよ。だからそんな、怒らないで――」 「それにしたって! 自分ちでやんなさいよ、なんであそこの屋上なのよ! ……待って。ひとり五株まではわかったけど、ユーリ、あなたは栽培してないの?」 「いや、俺も自分のぶんとして五株ちゃんとある。テントを設置して固定して、電源引っ張ってライトやサーキュレーターもつけて、温度管理も万全にしてあるんだぜ」 「テント? ……そこに、ひとり五株までだから、十株あるってこと?」  テディとユーリが揃って頷く。ロニーは目眩がしたように額に手を当てながら椅子に腰を下ろし、がっくりと項垂れた。  気を取り直して顔をあげ、息を深く吸うと、ロニーはユーリとテディに真っ直ぐに向き、睨みつけた。 「――そんな理屈が通るわけないでしょ!! 人数集めさえすれば、いくらでも栽培できるってことになっちゃうじゃない、ありえない! 考えたらわかるでしょ!!」  あ、やっぱりだめ? と、テディとユーリが肩を竦めて顔を見合わせるのを見て、皆は腹を抱えて笑った。

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