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〃 / # 28. The Needle and the Damage Done

 コペンハーゲン、オスロ、ストックホルムの北欧三ヶ所と、ダブリン、マンチェスターでの公演は非常にリラックスしたムードで、演奏も絶好調だった。つい先日までの反動なのかもしれない。ルカとテディの仲もすっかり元に戻ったようで、ロニーは安心してステージを観ていることができた。きっとそれは観客も同じなのだろう、特にマンチェスター・アリーナでの二日めは、楽しげに視線を交わしながら合わせる呼吸から生まれるバンドマジックが、後にジー・デヴィール屈指の名ライヴと謳われるほどの評判を呼んだ。  マンチェスターでの公演を終えれば、およそ二ヶ月にも及んだヨーロピアンツアーも、もうロンドンを残すのみである。  二日めがツアーファイナルとなるO2アリーナでの公演のため、一行は前日にロンドンに移動した。なにかにつけ訪れることの多いロンドンは、もうバンドにとっては第二の故郷のようなものだ。すっかり馴染みになったホテルにチェックインし、小一時間ほど休憩をとったあと。バンドとクルーたちは思い思いに、いくつかのグループに分かれて出かけた。  洒落たスーツを着こんだドリューは約束があると云ってひとりで、エミルやイジー、ヴィトたちクルーは気楽にパブで飲もうと云って八人揃ってソーホーへ、ぞろぞろと連れだってホテルを出た。ロニーとエリー、ジェシはミシュラン・ガイドで二つ星を獲得した日本食レストランへ行こうかと話していたところ、ユーリが日本酒が飲みたいから一緒に行っていいかと訊いてきた。もちろんと答え、てっきりその場にいたルカも同行するかと思いきや、ルカは外に出るのが面倒だと、ホテル内にあるフレンチのレストランで済ませると云って残った。  そしてテディは――誰になにを告げることもなく、いつの間にかふらりと姿を消していた。        * * *  昏く細い路地から街灯が照らす人通りのある広い舗道へ出ると、テディはジーンズのポケットに突っこんでいた手をだし、帽子を目深にかぶり直した。  ホテルを出るとき、エミルやヴィトたちがソーホーまで出ようと騒いでいた。偶々ソーホーへ行こうと考えていたテディは、妙なところでエミルたちと鉢合わせするのを避けるため行き先を変更してタクシーに乗り、テムズ川の向こう、ウォータールーから少し南へ進んだところまで出た。そして、そこからエレファント&キャッスルの辺りに向かって、脇目も振らず歩いた。  高架下に並ぶ寂れた店舗や降りたままのシャッターの周りには、破落戸(ごろつき)なのかホームレスなのかわからない手合が彷徨いていた。用を済ませるとテディは足早にそこを通り抜け、地下鉄(アンダーグラウンド)に潜りベイカールー(ライン)に乗って、ピカデリー・サーカス駅で降りた。  真っ直ぐホテルに戻り、一刻も早くひとりになりたいはずなのに、何故かそうしようという気になれなかった。そうだ、食事に出たことにしなければいけないんだと思いだし、テディはチャイナタウンへ向かうことにした。食べる食べないは別として、なにか好きなものでもテイクアウェイしておけばひとりで出かけた口実になる。そう決めると、テディはコヴェントリーストリートを東に向かって歩き始めた。 「――テディ? テディじゃないか?」  ふと名前を呼ばれた気がして、テディは振り返らず歩く速度を早めた。エミルやヴィトたちなら今、顔を合わせたくはなかった。だが、その声は彼らの誰とも違うような気がした。  テディ、テディだろと追ってくる声から逃げるように、俯き加減にすたすたと歩き続ける。たとえバンドを支えてくれているファンであろうと、今は『ジー・デヴィールのベーシスト、テディ・レオン』として、ルカのように愛想好く対応することなどできないと思った。  しかしその声は、呼び方を久しく耳にしていないものに変え、テディの足を止めさせた。 「待てよ! セオドア・ヴァレンタインだろ、俺だよ俺、エッジワースだ」  懐かしいその名に、テディはゆっくりと振り返った。 「エッジワース……?」  街灯に照らしだされているそこには、切れ長の目がきりりと印象的な長身の男が立っていた。仕事帰りなのかスーツの上着を腕にかけ、手にはブリーフケースを持っている。だがよく見れば、その顔には確かに寮制学校(ボーディング スクール)時代、学校一のやんちゃ坊主だったあのトバイアス・ウィルフレッド・エッジワースの面影が残っていた。 「……トビー? トビーなの? えっ、スーツ着てる……」  思いがけない再会に途惑いながらテディがそんなことを呟くと、トビーは声をあげて笑い、テディに歩み寄って腕を叩いた。 「あはは、普段はこんな恰好じゃないんだけどな。今日はちょっと打ち合わせで客んとこに行ってたもんでさ。……いや、びっくりした。テディかな、あれテディだよなって思ってずっと見てたんだ。久しぶりだな、元気か?」  快活な表情ではきはきと喋るその様子は、学生の頃とまったく変わっていなかった。テディは「うん、まあ」と頷きながら、懐かしいその顔をじっと見つめた。 「打ち合わせ……トビー、仕事はなにしてるのって訊いてもいい?」 「ああ、いつだったっけ、云ったろ? 舞台美術を学びにリーズのアートカレッジに行くって。おかげさんで今はそういう、演劇やイベントなんかでの舞台装置や演出を請け負う会社をやってるんだ」  テディは少し驚き、目を丸くした。 「会社? 会社をやってるって、トビーが社長なの?」 「おう、まあ、そういうこった。でも小さい会社だし、肩書がそうってだけで、俺も現場ではハンマー持ってるけどな。それがやりたくて始めたんだから」 「でも……夢を叶えたってことだよね。すごいや、おめでとう」 「なに云ってんだ。おまえとルカのほうがよっぽどすげえよ。初め知ったときはまじで驚いたって。おまえらがバンドやって世界中の人気者になるなんて、誰も想像してなかったよな」  話しているうちに人の往来が増えていた。つい立ち止まったまま話していたテディは人を避けて道の端へ寄ったが、トビーは「歩きながら話そう」と云って肩にぽんと手を置いた。  人の流れに逆らわず足を運びながら、想い出話や質問などにつくり笑いをしながら相槌を打つ。テディはチャイナタウンでなにか買ったら早くホテルに戻るつもりだったのに、とつい思い、そのことに罪悪感を覚えた。  ――久しぶりに友人に会ったというのに、そんなことを思う自分は最低だ。 「そうか、明日明後日はO2でライヴなのか。悪ぃ、毎日忙しくってそういう情報までは知らなかったわ。でもアルバムは買ったんだぜ?」 「そうなんだ、ありがとう」 「で、今はメシ食いに行くのか? ルカは?」 「ルカは……外に出るのが億劫だとか云って、ホテルのレストランでなにか食べるって残ったんだ」 「あいつ相変わらず面倒臭がりなのかー。一緒に出てきてれば俺に会えたのにな」 「ほんとにね」  交差点を過ぎると、角にレコードショップがあった。ポスターが何枚も貼られたウィンドウに強く視線が吸い寄せられる。店内にはジー・デヴィールの最新アルバムがディスプレイされていて、小さなモニタで二〇一二年にリリースしたライヴビデオが映しだされていた。「おっ」と足を止め、トビーは映像を眺めて笑みを浮かべた。その横顔を見つめ、テディは頭のなかで甦る遠い日々を避けるように帽子の鐔を抓み、くいと下げた。  ――あの頃だって自分はろくでなしだったし、厭なこともあった。学生の頃に戻りたいとは思わない。それでも、こんな自分でも、何年かぶりに会った友人が思い起こさせる青春の日々は、こんなにも眩しい。 「テディ?」  その声にはっとして顔をあげる。トビーの視線が自分の隠したい部分に刺さる。 「なんでもない。……ごめん、俺、そろそろ――」とテディが云いかけると、トビーはがしっと肩を掴んできた。少し驚き、テディははっとトビーの顔を見た。 「……俺も演劇の世界を見てるからわかる。音楽もきっと大変な業界だよな、いろいろあるんだろうけど……がんばれ。応援してるから」  不意にそんなことを云われ、もう堪らなくなった。テディは熱くなった目許を隠すようにトビーの胸に顔を伏せた。涙を堪らえようとして肩が震える。おいテディ、と声が聞こえたが、トビーはちゃんとハグするように受けとめてくれ、そしてそっと肩を押して身を離した。  真っ直ぐに見つめてくる眼。やんちゃだ問題児だと云われてはいたが、実は誰よりも正義感の強かった男の眼。テディは思わず目を逸らし、顔を隠した。 「おまえは大事な友達だ。ちゃんとずっと見てる。連絡をくれりゃいつだって愚痴でもなんでも聞いてやるよ。……でも、縋る相手は間違えちゃだめだ。おまえにはルカがいるだろ」  そんなふうに云ってもらう資格なんかない。まさに今、間違えようとしていたのだと、テディは自分がなにをしようとしていたのか洗い浚いぶちまけたくなった。が、声にならず、ただ俯いて子供のように頷くしかできなかった。  トビーの呆れたような声が降ってくる。 「まったく、TVで視てるとあんなかっけえのに、中身は変わってないんだなあ。ほら、もうホテルに戻ってルカに甘えてこい。明日のライヴ、しっかりな。……ってかおまえ、ロンドンで演るならチケットくらい送れよー」  まったくだよなと笑わされ、テディは顔を見られないように俯いたまま、ゆっくりと息を吐いた。 「そうだね、うん。次は送るよ。……トビー、ありがとう」  泣いていることに気づかれただろうか。ぽんぽんと肩を叩き、じゃあなと去っていく大切な友人に、テディは自分が救われたことを知った。  悪い星の下なんて、もう思うことはないだろう。自分の悪運の強さに少し笑いながら、テディは頬を濡らした雫を拭った手をポケットに入れた。取りだした小さな袋の中に入っているグラシン紙の包を、テディはひとつひとつびりびりと破いていった。ルカが歌っているライヴビデオの前で紙吹雪が散り、まるでスモークのように細かな白い粉末が風に吹かれて消えていく。  そうしてすべての包を破り終え――テディは踵を返すと、ちょうど通りかかった空車のタクシーに向かって手をあげた。        * * *  ロンドン、O2アリーナでのツアーファイナルはアンコールを三度繰り返す大盛況。およそ二ヶ月をかけて十七カ国二十四ヶ所を廻ったジー・デヴィールの二〇一五年ヨーロピアンツアーも、これで終了である。途中とんでもないトラブルに見舞われたにも拘わらず、こうして一公演も中止することなく終えることができて、ロニーはほっとしていた。  いつもよりも長丁場になったライヴのあと、一行は打ち上げということでヴィクトリア駅からウエストミンスター方面へ向かったところにある老舗のパブに来ていた。  近代的なビルディングに囲まれた、ぽつんとそこだけがタイムスリップしたかのようなノスタルジックな建物は、ぐるりと格子窓が並ぶバルコニーに花が飾られかなりフォトジェニックな見栄えだった。インテリアも歴史を感じさせる格調高い雰囲気で、一行は二階を貸し切りにさせてもらい、フィッシュ&チップスやステーキ&エールパイなどイギリスらしい人気料理とビールを堪能していた。 「――ねえねえ、アップルパイとアイスクリーム追加するけど、誰かなにか要るー?」 「まだ食うつもりか? ロニー」 「ビールも相当飲んだだろ。また明日になってから肥った肥ったって騒ぐなよな」 「ジェシ、半分こする? じゃ私も。アップルパイとアイスクリーム」 「おう、俺はビールとテキーラとランプステーキ串、追加で」 「おまえらよくそんな食えるな」  和気藹々とたわいも無い話をしながら、皆はツアー最後の夜を存分に楽しんでいた。もうこれで最後! と云いながらロニーが追加のオーダーをし、それが運ばれてきたとき。あとから来たもうひとりの店員が、大きな花束を届けてくれた。 「あら、綺麗! ありがとうございます――」 「いえ、我々からではないです。下へいらしたお客様が、こちらへ届けてほしいとおっしゃられまして……」  では失礼いたします、と店員が戻っていくと、ロニーは誰からかしらと渡された花束を不思議そうな顔で見つめた。ピンクとイエロー、淡いブルーとカラフルに彩られた花束をくるりと回してみると、ラッピングフィルムの中にカードが挟まっていた。それも二枚。  半分に折り、シールで封をされたそのカードを取りだして見てみる。宛名として書かれているのは自分の名前と、もう一枚のほうには―― 「――テディ。あなたによ」 「え?」  テディ宛のカードを渡し、ロニーはその大きな花束を膝の上に置くと、自分宛てのカードを開いてみた。そこにはたった一言『おつかれさま』とだけ書いてあった。誰からなのかを察し、ロニーはカードを見つめたまま苦い笑みを浮かべた。 「どうしたテディ?」  ユーリの声に、ロニーはふと我に返ってテディを見た。テディはカードを手に席を立ち、窓から外を見下ろしたかと思うと、慌てた様子でフロアを飛びだし階段を下りていった。 「なんだあいつ、いったいどうしたんだ?」  途惑った様子でルカが云い、ユーリが後を追おうとする。ロニーは「待ちなさい。……大丈夫よ」とユーリを止めた。  なにが書いてあったのかわからないが、たぶん神出鬼没なあの人はもう、その辺りにはいない。すぐに戻ってくるだろうと思っていたら、本当にそのとおり、テディは何故かなんだか少し悔しそうな顔で、ゆっくりと階段を上がってきた。 「なんだったんだ?」 「ううん、なんでもない」  なんでもないと云いながら、テディは開いたカードをじっと見つめ、ふっと笑ったかと思うとそのカードをポケットに入れた。  店を出たあと、テディの隣に坐っていたブルーノが、そっと教えてくれた――カードには、『助けがほしいときは連絡しろ』という一言と、メールアドレスかなにかが書いてあったそうだ。  ちょっとだけ、テディったらずるい、とロニーは思った。

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