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ENCORE / Outro. How Deep Is Your Love
「――壁の色まで変わってる」
プラハに戻り、空港で解散して久しぶりに帰ってきたフラットは、部屋を間違えたのかと思うほどの変貌を遂げていた。
「ああ、いちおうイメージイラスト見せられて、じゃあこんな感じでってだけ云ってあとはおまかせにしといたんだけど、壁だけ真っ白はやめてくれって頼んだんだ。おまえが煙草吸うから」
「これからはリビングで吸っていいってこと?」
「いや、なるべくそこは今までどおりで」
なんだよそれ、と云いながら、テディは部屋のなかをぐるりと見まわしながら、ゆっくりと奥へ進んだ。
微かに黄色みがかった象牙色の、わざと跡を残して塗った漆喰の壁。床も、以前とは違う濃いブラウンのヘリンボーンに変わっていて、新たに作り付けられた背板のない飾り棚が広いリビングを半分に仕切っていた。その手前には以前のようにコーナーにPC、中央にテーブルとソファセットがあり、棚の空いたところから覗く奥のほうには、窓側に一人掛けのチェアが二脚とネストテーブル、キッチン側に大きな丸テーブルのダイニングセットが置かれていた。
テーブルやコンソール、照明器具などは黒が効果的に使われていて、ソファはライトグレー、クッションなどもほとんどがモノトーンのなか、モダンな幾何学模様のラグの一部など、アクセントカラーはテディの好きなティールブルーのままだった。もちろん、壊されることのなかったテディのお気に入りであるエッグチェアは元のまま、窓の傍に残されている。
「……いいね。俺、前よりこっちのほうが好きかも」
「そうか? そりゃよかった。俺もいま見て、想像してたよりいいなって思った」
リビングを一周して寝室のほうを覗いてみる。すると、壁や床がリビングと同じに変えられていて、それに合わせワードローブやベッド、ファブリックなどもすべて新調されていた。
「……ベッドとかは壊されてなかったんじゃ?」
「いや、気持ち悪いだろ。寝室は全取っ替えしたんだ」
「ルカってそういえば、けっこう潔癖だよね」
リビングに戻り、位置と向きが変わった真新しいソファに腰掛けると、ルカがオーディオキャビネットの前に立ち、云った。
「ああ、スピーカーも新しくなってるな。倒されててさ、もし具合が悪いようなら変えてくれって云っといたんだ。前のと似てるけど、音はどうかな」
ステレオコンポーネントシステムの電源を入れるルカをちらりと見て、テディはソファの後ろにある飾り棚の中からCDを一枚取りだした。サイケデリックでカラフルなジャケットのそれを、「試してみようよ」とルカに手渡す。
ルカはそのCD――〈Odessey and Oracle 〉を受け取ると、笑みを浮かべてディスクをトレイに載せ、何度かスキップボタンを押した。
表示されたデジタルの数字は『09』。程無く〝This Will Be Our Year 〟の、あのイントロが流れだす。
――結婚話から喧嘩になって、一人旅に出たルカが偶々事件に巻きこまれて。誤解と思いこみからすっかり仲違いして、事件の謎とともに誤解も解けて、仲直りはしたものの結局、いろいろ考えて結婚は先送りにしたけれど。
パーフェクトにリフォームした部屋で自分たちも心機一転、ふたりでの暮らしがまた今日からスタートだ。
* * *
ツアーを終え、また長いオフに入るということで、ルカたちバンドのメンバーはロニーに呼びだされ、事務所に集まっていた。
五人はいつもの大きなソファに適当に散って坐り、冷たいコーヒーやカフェオレを飲みながら、面倒臭そうな表情でロニーの顔を見ていた。ロニーは腕を組んでデスクの前に立ち、オフの間の行動について、くどくどと念を押すように長い話を続けていた。夏は終わったばかりだというのに、まるで夏休み前の学生扱いである――もっとも、そうさせるほうが悪いといえば悪いのかもしれないが。
「――だから、休みでも自由だとは思わないで! もう云わなくたって充分にわかってるはずだけれど、あんたたちの顔は世界中の誰もが知ってるの。フェイマスな存在だってちゃんと自覚を持って! いいこと? 正体を無くすほど外で飲まない! 危ないことはしない! バイクも車も安全運転! 誰にもなんにも云わないでふらっと旅行に出たりしない! 法に触れることもしない! 屋上で大麻 を栽培しない! わかった!?」
「ああもう、わかったって」
「危ないことなら自分だってやったろうが」
「五株に減らしてもだめなの……」
ルカとユーリ、テディはうんざりした表情で、そんなふうにぼやいていたが。
「ああ、なんか帰ってきたーって気がしますね」
ジェシが呑気な口調でそんなことを云い、ドリューもうむ、と同意する。
「だな。ロニーが元気に説教をしてるのを聞くと、なんだかほっとするな」
「なに云ってるの、他人事みたいに! こっちは全然ほっとなんかできないわよ! ドリュー、あなたも運命探しはいいけれど、いいかげん手当たり次第、女優やモデルに手をだすのやめなさいよね! パパラッチだって狙ってるんだから――」
響いていた怒号が突然途切れ、ルカたちは猫じゃらしに釣られる仔猫のように一斉に、ロニーの顔を見上げた。
ロニーはまるで充電が切れたかのように、がくりと肩を落としていた。吊りあげていた目は覇気を失い、ぼうっとなにか考えこんでいるように動かない。ルカはああ、とその原因に思いあたり、テディを顔を見合わせた。
もちろん気づいていた。ロニーがステフに惹かれていること、空港でらしくもなく感謝の言葉も充分に伝えないまま背を向け、足早に去ったのは涙を見せないためだったこと――まだ思いきれていないのだ。かといって激しい恋情にまかせ、ステフの胸へ飛びこもうとするには距離がありすぎる――なにしろ彼がいるのはセルビア、ここチェコからふたつの国を隔てたところだ。しかもBIAのエージェントという、自分たちとは違う高さから世界を見ている人間でもある。
気の毒に、えらい人に惚れたもんだよなあと、声にはださないままルカはテディと視線を交わしていた。自分たちの結婚も、先送りにしてよかったかもしれない。こんな状態のロニーに、今度こそ結婚するからスケジュールの調整を……などと、とても云えたものではない。
ルカはそんなことを考えていたのだが、よりにもよってそのタイミングでユーリが云った。
「そういやおまえら、結婚は保留にしたんだって?」
思わず天井を仰いで頭を振る。ルカは顔を顰めて見せ、その話はするなとユーリにサインを送ったつもりだったが。
「つまんねえな。せっかくファックバディから愛人に格上げだと思ってたのに」
悪びれもせずそんなことを云うユーリに、ルカは呆れて溜息をついた。
「おまえ……ちょっとは空気読めよ……」
「空気? おまえに云われたくないな。なんだ?」
「……ルカ。ユーリはよく気がつく男だが、女心だけはわからんのだ。しょうがない」
ドリューがそう云ってユーリを庇う。すると。
「……聞こえてるわよ。いいのよそんな、気を遣ってくれなくたって……」
と、ロニーがそのままくるりとデスクを回り、すとんと椅子に腰を下ろした。置かれていた書類をぱらぱらと捲ったかと思うと、なにもせずそのまま頬杖をついてはぁ、と息を吐く。
こりゃあ重症だ……とルカは、初めて見るロニーの気抜けた様子を眺めていた。
――そのとき。
「やあ、邪魔するよ」
ドアが開き、何気無くそっちを向いてルカは目を瞠った。そこには、今まさに思い浮かべていた人物が立っていた。皆も同じようにステフの姿を見て驚き、ぽかんと口を開けている。
ロニーも顔をあげ、想像もしていなかったであろう突然の来客から目を離せず、茫然としていた。
「プラハまで来たんで、挨拶に寄らないわけにはいかないと思ってね。全員揃ってるとはラッキーだったな」
「あんたは毎度毎度いきなりだな。プラハにはいったいなにしに? 休暇か?」
ユーリが云うと、ステフはソファの空いている場所に腰を下ろし、「いや……仕事でね」と答えた。
ようやく動揺が収まったのか、ロニーが席を立ち、またデスクの前に出てくる。
「仕事って……またなにか事件なの? まさか、テディを拉致した組織の残党が仕返しに来るとかじゃ――」
「ああ、違う違う。もうあの組織についてはまったく問題ない。残っていた構成員らも逮捕したし、下っ端のチンピラ共は関わりがなかったって顔をするのに必死だ。……が、その所為で他の組織が、次はうちがうちがって商売の奪い合いをおっ始めてな」
麻薬密輸組織がひとつ壊滅しても、それでもう麻薬の流通がなくなるわけではない。宙に浮いた収入源の奪い合い、新たな流通ルート、次々と生まれる密売グループ……いたちごっこだとしても、野放しにしておくわけにはいかない。
想像しただけでうんざりだなあと思いつつ、ルカは「大変な仕事だよな」とステフを見た。
「ああ、現地の警察は抗争の後始末ぐらいが精一杯だし、密売組織なんか本当に潰しちまおうとするなら、需要のほうをなくすべきだろうが……ま、なかなか難しいよな」
そう云ってステフはこっちを――否、隣のテディを見た気がした。が、ルカは特に気に留めず、そういうものを撲滅するのは夢のまた夢だろうなと話を聞いていた。
「まあそれで、またインターポールの仕切りでいくつかの国から捜査員が集められてな。俺たちBIAからも何人か動員された。今までどおりアフガンも監視してるし、トルコもブルガリアも、スロベニアにも行ってるが、ルーマニアを経由するって情報もあってな。
近々クロアチアは移民問題でセルビアとの国境を閉鎖するようだし、そうなるとどこの組織が後釜に収まったとしても、チェコ が西へ抜けてく重要なルートになるのは確実なんだよなあ」
「そんなことぺらぺら喋っていいのか?」
「だめなことは喋ってないさ」
「本当に大変なお仕事ね。ところで、その……ステフ、チェコにはどのくらい……」
ロニーが尋ねると、ステフは「それなんだよ」と肩を竦めた。
「数ヶ月やそこらで終わるような仕事にはなりそうもない。おそらく一年……三年……、ひょっとしたらずっとプラハ駐在になる可能性もあるんだ。まあどこにいたって、必要なときには地球の反対側にだって飛ぶだろうが……。なんで、とりあえずプラハで住むところを探してるんだ。どこかいいところを知らないか」
ロニーの表情が変わった。目を見開き、頬を紅潮させて、なにをどう云おうかと迷うように口を半開きにして固まっている。ルカはテディと顔を見合わせ、にっと笑って頷いた。
「いいところ、知ってるよ。ここの前に事務所として使ってた、3 ベッドルームの広い部屋がある。ゲストルームにはシャワーもついててキッチンとリビングも広いし、場所も便利のいいところだよ」
「それって……! な、なに云ってるのルカ、あ、あ、空いてる部屋ならテディが前に住んでたフラットがあるじゃない。あそこはどう?」
「え、俺は別に使ってないからいいけど……」
「ばか、おまえ、使わせないって云わなきゃ」
「えっ、でもそれってロニーの住んでるところにステフも……ってことですよね? それはちょっと、いくらなんでも急かし過ぎじゃないですか、まだデートもしてないんでしょう?」
「あ、あのね、あんたたちちょっと――」
「まだデートもしてなくて焦れったいから、もう転がりこませちまえって話だろ」
「いきなり同棲ですか!? いくらなんでもそんな――」
「ああ、名誉童貞は黙ってろ」
「ちょっとユーリ、名誉童貞ってなんですか!?」
「恋人ができようが脱童貞しようが、相変わらずおぼこいこと云ってるからだ」
「まあ確かに、一度寝ちゃえば話も早いし、いろいろわかることもあるよね」
「うむ。運命を確かめる最良の手段ではあるな」
「……もう、あんたたち、いいかげんにしなさい!!」
ロニーの怒号が響く。ルカはテディと、他のメンバーもそれぞれ顔を見合わせぷっと吹きだした。ステフもくっくっと声を殺して笑っている。
「とりあえず、今日はこれで解散! また取材の申込みでもあったら召集かけるから、連絡は必ずとれるようにしておくこと! 頼むから問題は起こさないでね!」
はいはい了解、とルカたちは揃って事務所を出ると――少し歩いたところで足踏みをフェイドアウトさせ、その場に留まった。
そしてそっとドアに近づき、耳を当てて中の様子を窺う。
「――とりあえず、今晩食事でも。どこか気楽に飲めるいい店を知ってる?」
「……そうね、ええ……。いくつかいい店はあるけれど……」
伝わってくるいい雰囲気に、聞き耳をたてているルカはにっと笑みを浮かべた。
「いい感じじゃないか?」
「しっ、静かにしなきゃ。……ねえ、そういえば」
囁くような小声でテディが云った。「事件に巻きこまれた原因でもあるけど、ふたりが出逢ったのはルカのおかげだよね」
こくこくとジェシが頷いた。
「そうですよね。ルカがひとり旅でブルガリアに行ったから、こうしてロニーに……って、そういえばルカ、なんでひとりで観光なんてしてたんですか?」
ひそひそと耳に口を寄せてジェシが尋ねる。ドリューが「おい、今はそれよりロニーのほうを――」と云いかけたが、ルカは「ああ、それは」と自分のほうを振り向いているテディの顔を見た。
「喧嘩はしたけど、どうせすぐに仲直りできるだろうって俺にはわかってた。で、そのときにあらためて結婚の話もするだろうな、新婚旅行はどこがいいかなって思って……下見のつもりだったんだ。テディはけっこうあちこち知ってるから、難しいなって悩んでてさ……どうせ知ってるなら懐かしい場所もありかなってベオグラードにも行ったんだけど、どうも決め手に欠けて」
新婚旅行と聞いてテディが目を丸くした。
「で、行き先はもうどこでもいいや、テディが喜ぶのはなにかって考えて、やっと思いついて……でも結婚は先送りになっちまったし、もういいんだけどな」
「おい、あとにしろ。聞けよ、ロニーだと思えないくらい、いいムードだぞ」
ユーリがしっと親指を立ててみせる。するとドリューが「俺も聞きたい」と小声で云ってテディの頭の上に顔をだし、ドアにぴたりとくっついた。
「……ゆっくり楽に飲みたいなら……近くのホスポダでデリバリーを頼めば、飲んだあとそのまま眠れるわ」
「……君の部屋で? そりゃあありがたいけど……でも、それじゃもう帰る気がおきなくなるかもしれないな」
「いいわ……ずっと、空いてるの。だから――」
そこで会話は途切れ、もうなにも聞こえなくなった。皆はおや? と顔を見合わせ、もっとよく聞こえるようにとさらにドアに身を寄せた。
「――ドリュー、重いよ」
「おいルカ、もっとそっち側に詰めろ」
「あっ、まずいですよ、そんなに体重かけたら――」
誰かがうっかりノブに手を掛けたのかどうしたのか――ばたん! といきなりドアが開き、五人は折り重なるようにその場に倒れてしまった。
抱きあい、口吻けを交わす寸前まで顔を近づけていたステフとロニーが目を丸くしてこっちを向き、ルカは笑ってごまかそうと頭を掻いた。が、なにやってるの大丈夫? なんて優しい言葉をかけられるはずもなく。
「――あんたたち……、ほんとにもう、いいかげんにしなさーーい!!」
呆れを含んだロニーの怒号がまた響き、ルカたちはやばい、と廊下を駆けだし、今度こそ事務所を後にした。
階段を駆け下り転がるように建物から出て、息を弾ませて笑いながら事務所の窓を見上げる。
「――ねえルカ」
隣に立つテディがそう声をかけてきて、ルカは「ん?」と顔を見た。
「さっきの、思いついたって……なにか訊いてもいい?」
新婚旅行の話か。ルカは「ああ」と頷き、窓に視線を戻しながら答えた。
「行き先はどこを選んでも、おまえが住んだことがあるかツアーで行ったことがあるかって感じだからさ。それなら道中を楽しめばいいんじゃないかって思ったんだよ。それで、オリエント急行 に乗せてやれば、ミステリ好きなおまえは喜ぶかもって思いついたんだ。調べてみたらブカレストやイスタンブルに行くやつがあって、あっち方面ならまだ行ったことないはずだし、ありかなって……でも、それももうおあずけだな」
「オリエント急行!?」
テディが興奮気味に顔を真っ赤にする。「そ、それは……乗りたいかも」と云ったテディに、ルカは呆れたような顔をした。
「はぁ? おまえ、そんなもんに釣られてやっぱり結婚するとか云うなよな」
「そこまでは云ってないだろ。お、俺はただ、オリエント急行に乗りた……あ、いや、ルカと一緒に乗りたいなって、そう思って」
「どうだか。云うんじゃなかったな……おまえ、ひとりで勝手に乗ってったりするなよな」
「ルカがそれを云うの? ひとりで勝手に旅行したのはルカのほうじゃない」
「だからおまえ、それは――」
「おいおまえら、もう喧嘩か? よく飽きねえな」
揶揄 うようにユーリに云われ、ふたりは顔を見合わせた。
するとちょうどそのとき。ロニーとステフが揃って窓を大きく開け、自分たちを見下ろした。
「ま、こうなっちまったらどっちにしても、ロニーを差し置いてってわけにゃいかないよな」
仲良く並んで微笑んでいるふたりを見上げ、テディも頷く。
「そうだね。まずはロニーのドレス姿を見せてもらわなくちゃ」
こっちに手を振り、仲睦まじくなにやら話すふたりの姿を見つめ、ルカは微笑んだ。そして手を振り返すと、ユーリ、ドリュー、ジェシも同じように高く手を振り、声をあげた。
「よかったな、ロニー!」
「ロニー、おめでとうー!」
「お幸せにー!」
皆が口々に云い、口笛を吹いたりしていると。
それに応えるように窓際のふたりが、見つめあってキスをした。
- THE END -
𝖹𝖾𝖾𝖣𝖾𝗏𝖾𝖾𝗅 𝗌𝖾𝗋𝗂𝖾𝗌 #𝟫 "𝖣𝖮𝖴𝖡𝖫𝖤 𝖳𝖱𝖮𝖴𝖡𝖫𝖤"
© 𝟤𝟢𝟤𝟦 𝖪𝖠𝖱𝖠𝖲𝖴𝖬𝖠 𝖢𝗁𝗂𝗓𝗎𝗋𝗎
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