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第22話 倒れた人数 二人

♦  オキンの部屋を出たフリーは、寄り道せずニケのいる部屋へと戻る。 「ニーケ。ただいま~。手ぬぐいもらっちゃった~」  笑顔で報告すると、椅子に座って書物を読んでいた犬耳がきっと睨んできた。吊り上がった大きなお目目が可愛い。いや、すべてが可愛い。  書物を閉じると、それをフリーにぴっと突きつける。 「遅いっ。五分で戻って来いと言っただろうが。何してんだ」 「フリー君。ちゃんと五分以内に戻ってきたよ……?」  斜め前で苦笑しているキミカゲの声が耳に入っていないのか、黒い尾がぶんぶんと揺れている。  フリーは両手を挙げ全身で喜びを表現しながらダッシュすると、その勢いのまま正座する。  正座のまま滑ってきたフリーは椅子のすぐ隣で停止し、ぺこっと低頭した。 「好きです(寂しい思いをさせてごめんね)」 「ふんっ。でもちゃんと戻ってきて偉いぞ?」  椅子の肘置きから身を乗り出し、愛玩動物の頭を撫でるように白髪をぺしぺしする。 「……」  後輩の奇行にも慣れてきた(嬉しくない)リーンは、一部始終を見なかったことにして、異国の書物に目を戻す。  読書タイムだったのだ。  カーペットの上を滑ったフリーに恐怖心を抱いたのか、リーンはそそくさとオットマンの上に逃げる。 「ニケは何を読んでるの?」  フリーがオキンの部屋に行く前までは、ニケはひたすらくっついていて何も読んではいなかった。  背もたれがあるので横から覗くと、難しい文字の整列が見えた。植物の絵も描いてある。 「薬の作り方と薬草図鑑が合体したようなものだ。薬草の種類と、薬の作り方が記されてあるんだ」  貴重な書物が当然のように置いてある。漢字が多く読むのに時間がかかるが、台風が去るまでに一冊は読破したい。覚えて損はない知識だし、翁の役にもっと立てるようになるはずだ。  と、せっかく説明してやっているのに、この白髪は聞いていないのか、頬をニケの頬にぽよぽよとくっつけては離して遊んでいる。真横にいるのだから聞こえてはいるのだろうが、聞く態度ではないな。むすっ。  ふにふに。ぷにぷに。 「しあわせ~」  嬉しそうな声と共にフリーのちょっとひんやりした頬が、優しくぶつかってくる。 「……」  ぽいんぽいん。  話を聞かないうえに書物を読んでいるのに邪魔である。頁を閉じて横に置くと、小さい両手でフリーの頬を挟み込む。 「うぎゅっ?」  力が強かったのかフリーがタコさんになってしまっているが、普段からマヌケ面なので格段変化はない。 「にふぇ(ニケ)?」  見つめ合うタコとニケ。  ついでなのでぶっちゅーしておいた。光栄に思うがいい。 「ふ、フリー君! ……脈がない。誰か、AEDをっ」 「誰ですかっ? えーいーでーって⁉」  泡を吹いて動かなくなるフリーに周囲が騒がしくなるが、翁が居るから大丈夫だろう。  ぺらり。  背もたれに身体を預け、ニケは読書を再開した。  十分後。 「…………」  脈は戻ったが意識は戻らないフリーを椅子に座らせる。その上に当然のようにニケが座るとコアラとなり、書物を読まなくなった。 「ふふっ」  天使な笑顔だが口づけ一発で巨人を死に追いやった(未遂)幼子だ、油断はできない。  頑張って心臓マッサージをしてへとへとになったリーンが、額の汗を拭いながらオットマンに座る。しかし、胸を強く押して心臓を動かすとは、いい経験が出来た。 「……」  リーン以上にぐったりしているのはキミカゲだ。ぼさついた髪を結びなおしている。  蘇生中。リーンは見学しているニケをフリーの顔にそっと乗せておいた。その方が早く復活すると思って……。呼吸出来なくてフリーは真面目に死にかけ、まあ、過ぎたことだ。 「ニケ君? 今の口づけは同意のもと、だったのかな?」 「ぎくっ」  翁の優しげな問いかけに、ニケの肩が跳ねる。  口笛を吹いて誤魔化そうと一瞬していたが、ニケの性格上苦痛に感じたらしい。素直にキミカゲの足元で正座して小さくなった。  ぺたんと犬耳がしおれる。 「嫌がらないと思ってやりました」 「嫌がっては、なかったけどな……」  いまだ現世に戻ってこないフリーの顔を見る。死にかけたのに肌艶がうるおい増しているのはフリーだからだろうか。考えるのは止そう。 「私も嫌がらないなとは思うけど。むしろ嫌がったらフリー君じゃないとまで思うけど。一応ね?」 「ひゃい……」  理解して反省している子どもに、これ以上言う必要はないだろう。めり込みそうなほど落ち込んでいるニケを抱き上げ、  ぐきっ。  嫌な音が鳴った。確かに鳴った。  かたかたかたかた……と、おじいちゃんが震え出す。小刻みに。  耳が痛くなるような静寂の中、脂汗をだらだら流して固まっていたキミカゲが、ニケを持ち上げようとした態勢のまま椅子から落ちた。 「あぶねっ」  頭が床にぶつかる前にリーンが片足を滑り込ませ、クッションとなり事なきを得た。 「き、キミカゲ様?」 「翁……? あの……?」  何が起きたのか分からないが、やばいことが起きたということだけは理解できたらしい。  狼狽えている場合ではない。  口を開けたまま、キミカゲ以上に汗を流すふたりは恐る恐るキミカゲの顔を覗き込む。 「だ……ひゃいひょうふ(大丈夫)。ひ、ひひへふ……よ(生きてるよ)」  いつもの笑顔だったが、大丈夫でないということは伝わった。  リーンの顔が引きつる。 「えっと? ……どうなさ、どうしたら、いいですか?」 「僕らにやってほしいことがあれば、い、いい、言ってください?」 「……」  何かを伝えようと唇が動くが音が出ていない。ひゅーひゅーという呼吸音に変わったので、こうしている場合じゃねぇと、リーンはキミカゲの頭を丁寧に床に置く。 「オキ……ボス呼んでくるわ! って、台風なのに巡回行くとか言ってたな。どうしよう」  頭を抱えるリーンだが、ニケが何か妙案が思いつく前に部屋を飛び出していった。 「リーンさん!」  迷うよりまず行動! なのがリーンらしくていいと思うが、ちょっと話を聞いてほしかった。  〈黒羽織〉になったばかりの少年が、ばたばたと邸宅内を走る。ベゴールからもらった簡易地図の存在もすっかり頭から抜け落ちていた。  現在地がどこなのかも分からず走り回り、適当に見つけた襖を遠慮なく開けた。 「開けます!」  パンッ。  中には十人ほどおり、蝋燭をひとつ付けただけの暗い部屋で円になり、なにか話しているようだった。広い部屋に、重い異様な空気が充満している。オキンほどではないが、その十名はよほどの強者だと、リーンの本能が恐れた。  急に誰かが乱入してきたというのに、誰一人動じない。それどころか目を向けてきたのはたった一人だけだった。

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