1 / 8
第1話
カロカロカロという音で目が覚めた。
飽きもせず毎日毎日カロカロカロカロ……日常を繰り返している。
逸生にはもはや日常などないのに。
理知がいなくなってから時間も人生もないも同然である。
別にそう認識しているわけではないけれど。
ただ起き上がる気力がないだけなのだ。
枕元のスマホがメッセージの着信を知らせる。
〈お昼に迎えに行くね。ランチしよう〉
既読スルー。
寝返りを打ったらベッドから落ちた。ずいぶんと端っこで寝ていたらしい。衝撃を感じる程の高さではない。
こうして落ちる度に、
「おーい。生きてるかー?」
上から声が降って来た。
そうして伸ばされた手を引っ張って、二人で床に転がったものである。
今はもう耳を澄ませてもそんな声は聞こえない。
カロカロ音が遠ざかって行くだけだった。
あの音は何なのか。
戸倉逸生 はこのアパートに引っ越した翌朝あの音に起こされたのだ。
カロカロカロと道を歩いているかのように弾みながら聞こえる音色。鈴にしては低い音である。そんなに大きな音ではないが、何かを打ち鳴らしている音にも聞こえる。
仏具でも鳴らして歩く宗教か? まさか。この辺に怪しい新興宗教団体があったのか?
窓のカーテンを開いても二階のベランダからは下にアパート専用駐車場が見えるだけである。
ベランダに出て身を乗り出して横の道を覗き込んでも遠ざかって行く音の正体は見えない。
新興宗教の疑いは、いや増すばかりだった。
休日に気がつくと、カロカロ音は夕方にも聞こえて来るのだ。なお一層不気味さが募る。
引っ越してから数日たった日曜日。
「見に行こうぜ」
身軽にベッドを飛び出したのは理知 だった。
トランクスの上にTシャツ一枚の姿だったが、構わず逸生のサンダルを突っ掛けて玄関を飛び出して行く。スマホは必ず携帯する奴だった。
逸生も似たような格好だったが、とりあえずパンツの上にジャージを履いて理知を追った。
追いつくと理知は既に遠ざかるカロカロ音の正体にスマホを向けて写真を撮っていた。
ただの犬の散歩だった。
老人に綱を引かれた犬の首輪にはカウベルのような物がぶら下がっていた。
たぶん逸生の親指の先よりも小さなカウベルである。犬が歩くたびにそれが揺れてカロカロ鳴るのだ。
人間の二足歩行とはリズムが異なる。だから謎の響きになったのだ。
真っ白な犬だが老いているのか毛並みは不揃いだった。柴犬のような和犬に見える。足腰も弱っているらしく足取りは遅かった。
連れている老人も側頭部にぱやぱやと白髪が残るばかりで、やはりゆっくりした歩みである。
朝まだき老犬と老人の散歩する後ろ姿。
理知が撮った写真はちょっとした物語のようだった。
「やっぱデザイン学校に行ってるだけあるな」
と逸生は褒めたものである。
「別に写真専門じゃないし」
言いながら少しばかり得意げな理知だった。
谷津理知は服飾専門のデザイン学校に通っていた。正しくはヤツミチトモと読む。
学校ではリッチーと呼ばれているらしかったが、外人名はさすがに恥ずかしく逸生はいつの間にやらリチと呼ぶようになっていた。
ともだちにシェアしよう!