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第8話
結局その日、佐藤和生は泊って行った。
佐藤和生 は農業大学を卒業して農業試験場に勤める公務員とのことだった。
道理で植物にやたら詳しいわけである。
意外にも逸生より年上の二十八才だった。
家族や仕事や来し方など、これまでのデートで共に曖昧にしていた事どもを飽くことなく話し続けた。
その間、並んだ二人の腕や膝などどこかしら身体が触れていた。
ちょんとキスして「えへへ」と無垢なカップルのように二人で赤くなったりして。
激しい愛撫や口づけより、そのさりげない温もりが逸生には涙が出るほど嬉しかった。
もっとも激しいそれらが欲しくないわけでもなく……。
散々に話して朝は過ぎ、やがて昼下がりの情事へと移行するのだった。
裸の枕が転がったベッドに和生を誘ったのも逸生からだった。
抱き合って眠った二人が目を覚ましたのは窓から夕陽の赤が差す頃だった。
カロカロカロと小さな音が近づいて来る。犬が夕方の散歩に出ているのだった。
「ねえ。腹減らない?」
「カズキはすぐに腹が減るんだな」
「イツキが小食過ぎるんだよ」
などと起き上がると、連れ立って部屋を出る。外で夕食にするつもりだった。
アパートのドアを開けて外廊下を階段に向かうと、道の遠くから飼い主に引かれたカロカロ犬がやって来るのが見えた。
階段の踊り場に着くうちに一人と一匹はこちらに近づいて来る。
相変わらず首輪に小さなカウベルを下げた白い犬だった。
「あれ、カロカロ犬て言うんだ」
振り向いて和生に言った逸生は、視線を犬に戻してから、
「え?」
と驚きを声にしていた。
それは老犬ではなかった。つやつやした真っ白な毛並みの、見るからに年若い犬だった。
引き綱を引いている飼い主に目をやれば、老人ではなかった。
ホームウェアらしいワンピースの上にUVカットパーカーを着た中年女性だった。あの老人の娘か嫁か、そんな年頃の女性だった。
だが、首輪に付いている小さなカウベルはあの老犬の物に違いない。
階段の踊り場に足を止めて眼下を犬と飼い主が通り過ぎて行くのをただ見下ろしていた。
「何?」と和生に袖を引かれて呟いた。
「変わってたんだ」
言いながら逸生は淡い微笑みを浮かべていた。
カロカロ音は変わらないのに、中身は変わっていた。
逸生が失った恋を見ないふりして時を止めている間にも、犬と飼い主は流れる時の中にあったのだ。
世代交代をしていたのだ。
あの老犬と老人の行方を思えば笑うのは不謹慎な気もするが、それでも逸生の口元は緩んでいた。
首を傾げる和生の肩に手をかけて二人並んで階段を降りて行く。
先に一階の地面に足を着いて逸生は振り向いた。
まだ段の上にいる和生は自分より少しばかり背が高くなっている。
身長181㎝の逸生には、このシュチエーションはあまりない。
背伸びをして和生と同じ目線になってから唇を寄せた。
「よせよ。見られる」
言いながらも逸生の唇をちゅんと吸って、照れ笑いをするサトウカズオである。
いや、サトウカズキである。
その首っ玉に腕を掛けて強引に一階に引っ張り降ろした。そのまま二人で肩を組んで歩いて行く。
逆に大っぴらにした方がいやらしく見えないものなのだ。
それは理知が教えてくれたことである。置き土産……などと思ってみる。
カロカロ音が遠ざかる茜色の道を、身を寄せ合った二人の男が歩いて行く。
夕陽の名残りに照らされて、地に伸びる二つの影はどこまでも長い。
〈了〉
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