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第1話 知らぬ間に花は朔。

 ひどく喉が乾いて目が覚めた。暑い。  それもそのはずだ。熱帯夜に狭いベッドで男二人が裸同然で寝ていたらそりゃ暑い。  空調は入っていたが、人肌の熱さを思い知る。  スマホを見たら深夜の2時だ。  コココ..と静かに冷気を吐き出すクーラーの音がする。  カーテンを少し開けて窓を見た。細いペンでシャっと描いたような細い月がやけに鋭く見えた。世界はこんなにも鮮やかだったことを知る。こんな何もない住宅街の夜でさえ色とりどりに映る。  ああ、ついに手に入れた。    俺はふふふと笑い出しそうになっていた。許されるなら床を転がったりベッドでジャンプしたり歌ったり踊ったりしたかった。 「どしたの?」  隣で寝ていた男が半分寝ながら話しかけてきた。 「喉乾いただけ」 「ふーん」  と言って彼は再び寝てしまった。俺はそいつの目にかかる前髪をそっと指先でかき上げた。俺は手に入れた。ずっと欲しかったもの。ずっと欲しかった。これが欲しかった。  ──高校3年の夏にひどく狭い恋をした。  それは、授業が始まる前のタイミングだった。 「ねぇ、鳥羽くんだよね」  と後ろから肩甲骨の辺りをつつかれて振り向くと見知らぬ男がいた。4月から通っている予備校には知り合いなどいない。予備校だろうと一定数いるうるさい集団の喧噪をスルーしながら授業の準備をしていた俺はひどく警戒した顔をしていただろう。 「そうだけど」  と俺が答えるとその男は相貌を崩して人懐こい笑顔になった。 「ねぇ、ごめんけど、書くもの貸してくれない?筆記用具全部忘れちゃってさ」 「いいけど、なんで俺の名前知ってんの?」 「2組の鳥羽くんでしょ?」 「?」 「同じ学校だよ。俺5組の和田です」  和田と名乗る男は再びにこやかに笑った。薄くて長い唇から歯並びの良い歯が覗く。二重を乗せたアーモンドのような形の良い目が笑うと月のような形になった。怯えとか不安とか皆無のような瞳だった。生きるのが上手い。タイプなのだろう。  俺は瞬時にしまったな、と思った。同じ学校の人間に会うのが嫌で、少し遠くの予備校に通っていたのに。 「消しゴムまで貸してくれんの?ありがとう!」  和田にシャーペンとペンケースの隅で転がっていたゴミ同然の小さな消しゴムを渡すと大仰に喜んだ。 「なんで」  こんな遠くの予備校にまで通ってるの?と聞きかけてやめた。 「え?」  和田は聞き返してくる。 「いやなんでもない」 「えーなになに、気になるじゃん教えてよ」  と、わざわざ和田は俺の袖口を親しげに引っ張ってくる。言わない方が面倒と判断し、俺は疑問を口に出すことにした。 「いや、ここ遠くない?同じ学校の人なんていないと思ってたから。なんでここにいるのかなって…」 「あー…、彼女がさ、ここの夏期講習に一緒に通おうって言ってきて。でも今朝喧嘩してさ、来ねーの。うけるよね」 「あ、そう…」  何もウケないが愛想笑いとかする気力のない俺は適当な返事をした。和田は俺のノリが悪いことにやや不満だったのか、少しつまらなさそうな顔をした。 「鳥羽くんは?やっぱ同高避けてるかんじ?」  あ、と思った。意地悪な人間が人を少し傷つけて楽しむ時の特有の瞳をしている。悪気はなかったで済ませられる範囲と分かっている確信犯の瞳だ。俺はいつの間にかこういう瞳に敏感になってしまっていた。  こういうのが怠いから遠い予備校に来ているのだ。俺は会話を繋げてしまった1~2分前の俺を恨んだ。 「男が好きってほんと?」  和田は人の良さそうな笑顔を崩さないままそのセリフを吐いた。なんとなく予想していた展開だった。全身がスッと冷えていく感覚がした。そして、出た出た、とうんざりした思いになる。 「最近、流行ってるよね。あ、俺、偏見ないから」  男が好きに流行りもクソもないだろう。偏見ないとわざわざ言うのは、お前は偏見を持たれる側だと宣言しているようなものだ。俺は前も向き直せずに、かといって和田の顔を見ることもできずに自分のスニーカーを見つめながら心の中で悪態をつく。 「男とやったことある?」  和田はとっておきの秘密の話をするようにコソコソっと聞いてきた。俺は奥歯を噛み締めた。 「あったら何?」  俺はなんとかそれだけ言うと勉強道具を片付けた。ちょうど良いタイミングで講師が入ってきたので、不人気の前の席に移動する。そのまますぐに授業になった。  その後、和田のことは一切見ずに帰宅した。 「昨日、シャーペンありがとね」  予備校の自習室で勉強していると突然、右頬に冷たいものが当てられ、俺はイスから転がりそうになった。 「わっ!」 「あはは、めちゃ驚くじゃん」  和田だった。和田はスポーツドリンクのペットボトルを俺の前にドンっと置いた。買いたてのようだった。さっき頬に当たった冷たいものの正体はこれだろう。校内は一応冷房は効いているが、夏の酷暑は既にペットボトルをびしゃびしゃにしていた。今年の夏はひどく暑かった。 「それ、お礼」  と、スポーツドリンクを指差しながら言う。和田が乱雑に置いた水滴だらけのペットボトルは俺のノートを濡らした。 「別によかったのに、返さなくても…しかもお礼なんて…」  俺は差し出されたシャーペンと消しゴムを受け取りながらつぶやく。社交辞令ではない。本当に和田と絡むのが心底嫌だ。 「俺、知り合いいないし寂しいじゃん」  和田は語尾に(笑)をつけたような軽薄なしゃべり方をする。それがまた神経に触る。 「彼女は?」 「なんかさー、今日も来ないんだよね。一緒に数学受ける予定だったのに。連絡も返ってこないし、これって別れたのかな?」 「あ、そう」 「それ口癖?」 「え?」 「あ、そうってやつ」 「別に」  和田は用事が済んだのに去ろうとしなかった。 「鳥羽くん、昼まだ?食いに行かない?」 「は?」 「もう12時過ぎてるよ。授業13:30からでしょ?」  俺はゼリー飲料とコンビニのパンで済ませるつもりでもう買ってあった。 「昼もう買ってる」  和田は机の隅に置いてあるコンビニの袋を一瞥した。 「そんなの明日の朝にでも食えばいいじゃん。行こうよ」  と強引に腕を掴まれ立たされそうになった。 「ちょっと!」  俺が抗議の声をあげると、どこからともなく舌打ちの音が聞こえた。俺はハッとする。静かな自習室では俺たちはさぞうるさかっただろう。 「はぁ?今、舌打ちした奴いる?」  俺はぎょっとした。和田が突然イラついた声を上げたのだ。元々シンとしていた自習室はさらに息をも殺したような沈黙が上塗りされ、空気が張りつめる。肌がピリピリと痛む気がした。 「やめろよ、行こう」  俺は慌てて荷物をまとめると、さっきとは逆に俺が和田の腕を掴んで強引に自習室の外に連れ出した。 「はーー、感じ悪ぃ奴いたなー」 「いや、この場合感じ悪いの俺らだから。浪人生とかもいるんだから、突っかかるのやめろよ」  自習室に居られなくなった俺は仕方なく和田と昼食を取りに行くことした。二人で無機質な予備校の廊下を歩く。誰かと連れ立って歩くということが久しぶりの俺は、少しだけそわそわしてしまった。 「まぁ、いいやどこ行く?俺この辺詳しくないんだよね。鳥羽くん、なんか知ってる?」  和田は先ほどの諍いなど既に忘れたような素振りだった。俺はまだ神経が高ぶっていたので、和田の切り替えの早さに再びぎょっとしてしまった。 「知らね。いつもコンビニだし」 「ふーん、あ、結構カフェあんじゃん。混んでるかな」  和田は最初から俺の情報など当てにしていなかったようで、スマホでずっと検索していたようだった。 「うわ、あつっ」  予備校を出ると和田は形良く整えられた眉を顰めた。7月の午後の日差しが容赦なく照り付ける。30度はゆうに超えているだろう。  俺と和田はすぐ隣のビルに入っていたチェーン店のカフェに入った。オフィス街でもあるこの場所はサラリーマンとOLでひしめき合っていたが、だらだらと居座っている客は少なく、すぐに席を取ることができた。  俺たちは注文をすべくカウンターに並んだ。俺は和田の後ろに並び、なんとなく和田の後ろ姿をぼんやり見ていた。和田のうなじは綺麗だった。美容院に行きたてなのか首筋には無駄な毛は一切なく、後頭部の下半分はスタイリッシュに刈り上げられている。上半分は不自然なほどナチュラルにスタイリングされたショートレイヤーだ。和田にひどく似合っていた。『普通な感じ』を演出するのが上手い。首にはシルバーのネックレスが巻かれていた。シンプルすぎてブランドは分からないが留め具に『925』と刻まれている。それから、白に近いラベンダー色という微妙なカラーのオーバーサイズのTシャツをゆるっと着ていた。けれど決して首周りがヨレていたり、毛玉がついていたりしなかった。その辺のファストファッションの店で買ったものではないのは明らかだ。  表情と一緒だなと思った。人懐こい笑顔を浮かべておいて自分を見下すのは許さない。警戒心を抱かせないふりをして隙がない。  俺は手持ち無沙汰のせいで何気なく、本当になんとなく、その着飾られた服の下を想像してしまった。腹筋や胸筋はどの程度か。鎖骨やあばら骨の造形はどんなか。  俺の想像は妄想に飛躍する。セックスの時にもこいつはネックレスは外さなそうだ。覆いかぶさられた時にきっとこのシルバーチェーンはブランコのように揺れるだろう。ゆるいトップスから伸びる長い腕で抑えつけられたらどんな感覚だろうか。きっと熱くて少し痛い。 「ねぇ、アプリにクーポンあるよ」 「!」  不意に和田が振り向いたので、俺は咄嗟に下を向いてしまった。 「あ、そう……」  俺は急に恥ずかしくなり、和田なんかで変な想像をしてしまった自分の見境のなさに呆れた。 「俺、タコスフォカッチャとカフェラテにしよ」  和田は俺の反応なんか見てもいないし聞いてもなさそうだった。  俺は無難にサンドイッチとただのアイスコーヒーを頼んだ。別に好物ではない。どちらかというと米派だし、和食が好きだった。無駄な出費をしたと思うとさらに美味しくない。食べたくもないものをうっすら嫌いな相手と食べるのは苦行だと思い知った。 「っていうか、和田ってなんなの。俺のこと気持ち悪くないの?それとも好奇心?」  なんだか俺は少しだけやけくそな気分になってしまい、思っていたことを聞いてみた。 「えー、別にどうでもいいかな」  和田は本気でどうでも良さそうに答えた。目線はテーブルに置いたスマホに向けたままだ。SNSを見ているらしい。 「鳥羽くんってさ、女子に結構人気だよ。きれー系だしさ。男が好きなのもったいなーいとか言われてるよ」  和田はスマホに視線を落としたまま薄ら笑いを浮かべながら喋る。交友関係の広さのアピールや第三者の高評価を屈託なく伝える良い奴を装っているのが透けて見えて嫌だった。  自分でも自分を屈折していると思うが、和田も和田で多分良い人ではない。 「あ、そう…」 「ほら!また言った」 「え?」 「『あ、そう』って。うける」 「うけない」  俺が憮然と言い放つと和田は楽しそうに笑った。 「鳥羽くん、おもしろ」  何が面白いのかさっぱり分からないが、和田はけたけた笑っていた。  午後の授業は、和田からもらったスポーツドリンクのせいで表紙がべろべろに濡れたノートと過ごした。授業が終わる頃には乾いたけれど、ずっと波打ったままだった。  貸したシャーペンと消しゴムはなんとなく使う気になれずペンケースの奥底にしまい込んだ。  この日以降、俺と和田はたびたびつるむようになっていく。  その夏を俺は一生忘れる事はできないだろう。  俺はこの時、好きか嫌いかで言えば和田が嫌いだった。いやこの時に限らず、ずっと、高校を卒業した今でも、きっとこれからも俺の人生で1番嫌いな奴だ。    だけど、馬鹿みたいに恋をしたのは、恋をして馬鹿になってしまったのは、生涯で和田だけだと思う。

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