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【番外編】雲間から

 恋人と喧嘩をした。別にこれが初めてではない。彼と出会ってから十年以上の時が経っているが、小さなことから大きなことまで諍いの数を数えたら一畳分の畳の目の数はあるような気がする。原因は振り返ってみてもしょうもないことばかりだ。ほぼ毎回、怒るのは自分で怒らせるのは彼だった。  今回もそうだ。テレビを見ていたら彼が見知らぬ芸能人を「いいカラダだなあ」と言ったことが始まりだった。年上の彼が浮気をすることはなかったが(見ている限りでは)、自分の前では迂闊さを全面に出す。周りの目を気にして完璧でいようとする彼が、自分の前では油断しきっているのは嬉しいが、たまに平気で無神経な言動をする。それは昔からのことで、慣れてはいたし、自分の前で他の男を褒めるなんてこと、嫌ではあるが、そこまで目くじらを立てることではない。ただちょっと、溜まっていたものが吹き出してしまったのだ。  忙しくてなかなか会えない日が続いていたこと、自分も三十になり同棲しようかと話が出ているものの具体的に進まないこと、そういう焦りや失望が薄く薄く重なっていたところに、久々に会えたというのに、平気でそういうことを口にする彼にプツンとキレてしまった。もう十年も一緒にいるのだから自分の怒りポイントくらい押さえて欲しいものである。  まだ暑い日もあるが、確実に秋に近づいている十月の初めのことだった。小児科も兼ねている小さな内科クリニックは、主に子供が多かった。平日の夕方ではあったが、待合室は席が埋まるほど混んでいた。しかし、次々に番号が呼ばれるため回転は速い。恐らく、ここにいる大半はインフルエンザの予防接種を受けに来ているのだろう。自分もその一人だった。 「…………」  落ち着かない気持ちで本を読んだりスマートフォンを眺めていたが、自分の番が近づくたびに心臓が高鳴った。注射が怖いわけでは断じてない。  仕事をわざわざ早上がりしてまで、インフルエンザの予防接種を受けに来たのはちょっとした復讐のつもりだった。復讐といっても恋人である彼に嫌な思いをさせてやろうとは思わなかった。ただ、ちょっと自分の胸がすくだろうと思っただけである。  彼とは先週末に喧嘩をしてから、今週半ばになっても連絡がない。いつも向こうから折れて謝ってくるが、もしかしたら怒りっぽい自分に愛想がつきたのかもしれないと不安になり始めた頃だった。その不安を紛らわすかのように、そして自分も少し別の男に目を向けでもしたらおあいこかもしれない、と思ってインフルエンザの予防接種の予約をした。  そのクリニックで金曜日だけ若い医師が、院長である父に代わって診察を担当しているのを知ったのは少し前だ。  その日も彼氏とつまらない喧嘩をして、気分転換に忘れかけていた男の名前を検索した。ただの遊びのつもりだった。そんな簡単に見つかるはずがない。あの人が医者になっている確証はないし、なんなら生きているか死んでいるかも分からない。どっかで刺されて死んでいるかもしれない。いっそ事件が出てくるかもしれない。と思いつつ地元の名前ととある男のフルネーム、そして病院のワードを組み合わせて検索をかけてみたら、あっさりと『ファミリークリニック和田』と書かれたホームページがヒットした。  医師紹介を見た瞬間、全身の毛穴が開くような感覚がした。ずっと昔に好きだった人の……、初恋の人の写真が掲載されていたのだ。大人になった彼は昔の面影がまだ残っていた。人懐っこそうな笑顔は相変わらずだった。『僕も二児の父なので、お子さんと親御さんに寄り添った診療を心がています』という文句を見た時、ひどく冷めた気持ちがした。同時に長い間封印していた苦々しい記憶が蘇って、すぐにページを閉じて忘れることにした。  それが先日のこと。週末の喧嘩をしてから再び何気なくクリニックのサイトを開いてみると、トップに『インフルエンザ予防接種予約開始』と書かれていた。それで予約をしてしまった。職場指定の医院があるのに、わざわざ何の所縁もないクリニックに予約をしてしまった。相変わらず、自分は時々勢いに任せてよく分からない行為をする。昔のように。  馬鹿だとは思う。恋人と喧嘩をして八つ当たりのように初恋の人に会いに行くとは。まあ、相手はとっくに自分のことなど忘れているだろう。それに、会いに行くといっても予防接種だ。心の浮気と言われれば、そうかもしれないが。  ぼんやり考え事に耽っていると、自分の番号を呼ばれて慌てて荷物をまとめて診察室に入った。 「失礼します」  四畳ほどしかない診察室は簡易ベッドと机と椅子が置かれていた。そこに彼が座っていた。ホームページで見た画質の悪い顔写真よりずっと若々しく美しく年をとって、その人はいた。  彼は自分のことを知ってか知らずか手元の書類から目を離さず、こちらに目を向けることもなかった。そばには看護師が控えていて、とても昔の話をするような状況でもなかった。  看護師に促されて、目の前に丸い回転椅子に座る。何気なく机に目をやると一つの写真立てに二人の幼い子供とその母親と思しき女が映っている写真が飾ってあった。きっと彼の妻と子供たちだろう。院長にとっては孫か。  お世辞にも美しい女ではなかった。ふくよかで優しそうではあったが、どこにでもいそうな普通の女だ。それがなぜだか癪に障った。 「インフルエンザ予防接種ですね」  彼が喋った。懐かしいとは思わなかった。こんなに落ち着いた声と口調だったか?と不思議な気持ちになる。 「どっちに打ちますか?」 「えっと……左で…」 「じゃあ、左腕まくって体ごと右向いててくださいね」  指一本触れられることもなく消毒と注射はあっさり終わった。痛みもほとんどなかったので拍子抜けする。 「はい、終わりです。お疲れ様でした」  彼はまた書類に目を落としてこちらなど見なかった。 「あ、ありがとうございました」  椅子から立ち上がると同時に、そばにいた看護師も部屋を出て行った。 「……あの、俺のこと覚えてます……か」  俺は立ったまま尋ねた。少しでも不審そうな顔をされたら秒で出て行くつもりだった。むしろ、そうであれと思った。けれど、 「……覚えてるよ。鳥羽くんでしょ」  と書類に何かを書き込みながら言った。 「!!」  覚えていた。覚えられていた。俺が動揺していると、彼は少しだけ顔をこちらに向けた。昔と変わらないアーモンド形の綺麗な瞳と目が合う。 「じゃ、また来年、打ちに来てね」  と彼は目を細めて笑った。マスクをしていたので目元しか見えなかったが、自分が彼に恋をしていた頃には見ることがなかった笑い方をしているのはすぐに分かった。十年の空白を悟らせるような笑みだった。  それからすぐに手元の書類に目を落としてしまった。それ以上、診察室に残るわけにもいかずに部屋を出た。  あんなに人を好きになったのはあの人だけだった。今の彼だって好きだ。とても好きだ。でも自分は薄情で、愛されていないと思うと気持ちは冷めてしまう。それで何度も別れかけた。けれども医者になったあの人のことは、好きになってもらえないと分かり切っていながら、途方もなく好きだった。  ああ、でも。  つまらない男になったんだな、と安心した。彼は平凡な女の夫で、慈愛に満ちた目ができるような誰かの父になって、町の片隅で町医者を営んでいる。きっと誰かに寄り添って。そんなふりをして生きているんだと思うと、なんだか安心した。  贅沢を言うと、めちゃくちゃ太っていたり、禿げたりしていて、美貌を損なっていてくれたらもっと良かったのになと思った。  もう十年経てばそんな彼の姿も見れるだろうか。一年に一回、彼がますますつまらない男になっていく様を観察するのも面白いかもしれない。  意地の悪いアイディアが浮かんだところで電話が鳴った。彼氏からだった。浮気をしているわけではないのに、少しだけ焦った気持ちで電話を取った。 『もしもし?まだ仕事終わってないよね』 「……いや、今日は早上がりして病院にいた」 『病院……!?』 「……インフルの注射打ってもらっただけ」 『なんだ……驚かせないでよ』 「どうしたの?」 『謝らなきゃって思って…ごめんね』 「……俺のこと好き?」 『好きだよ、好きに決まってるでしょ!』 「…………今日行った病院の先生、注射上手かったよ」 『へー、そうなんだ、良かったじゃん…って今関係ある?』 「ふふっ、ちょっとだけ」 『今日会える?』 「うん……じゃあ一回切るね」  電話を切ると、駅に向かった。これから会う恋人のために何を作ってあげようか、と考える。できれば彼の好物がいい。放っておくとすぐにお菓子に手を伸ばす彼のために、自分が食事を用意する時は質素で健康的なものをと心掛けていた。だが、今日は好きなものを作ってあげたい気持ちになった。浮気をすると罪悪感の裏返しで優しくなるなんていうけれど、その心理が少し理解できてしまった。  秋の空はすっかり茜色に染まっていた。

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