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第2話

   +  瞼の向こうに眩しい光を感じる。  ——ああ……まだ死ねなかったのか。最高の夢を見ながら死ねたらよかったのにな……。  また重く痛む肉体に引き戻されてしまったのかと、もう何度目かもわからない絶望を繰り返す。  だが……。 「……あれ?」  身体に繋がれていたはずのチューブの違和感を感じない。じくじくと息苦しかったはずの胸も容易く上下させることができ、呼吸もしやすい。  それに、妙に気分も清々しい。  ぱっとまぶたを開くと、もはや見慣れた白い天井はそこになく、やわらかな色合いをした規則正しい木目の天井があった。  木製ブラインド越しに差し込む陽光がくっくりとした光の線を描き、部屋の中をほの淡く照らしている。 「え……? また、夢?」  むくりと身体を起こし、手を持ち上げてぺたぺたと顔や身体に触れてみた。ガリガリに痩せ細り、乾いた抜け殻のようだった肉体はそこにはなく、適度に張りのある皮膚がある。 「えーと……」  寝ていたベッドはダブルベッドで、枕は二つ。くしゃりと乱れたタオルケットが腹の上に乗っている。無垢材を生かしたシンプルな内装の部屋で、視線の先にはウォークインクローゼットの扉。  わけがわからず、目を瞬く。  するとガチャリとドアが開く音がして、スラリとした痩身の男が部屋に入ってきた。 「了悟、そろそろ起きないと遅刻するぞ」 「……え? えっ?」 「? どうしたんだよ、幽霊でも見たような顔して」  淡いブルーの半袖シャツに細身のスラックス、腕には黒いスマートウォッチ。  こざっぱりと短い黒髪をセンターパートにした理知的な男が、呆れたような顔で俺を見ている。  ——え? この顔……この顔って……。  見覚えしかない。  さっき夢の中で抱いた相手だ。だけど、さっきの夢で見た姿よりもいくぶん成長しているような……。  伶俐で落ち着きのある表情は大人のそれだが、ほっそりと無駄のない体つきはそのままだ。  だけど、間違いようがない。この顔立ちは……。 「……侑李?」 「はぁ? どうしたんだよ、寝ぼけてんの?」  侑李は眉根を寄せて訝しげな顔をしたあと、ベッドに近づき俺のそばに腰を下ろした。そしてスッと手を伸ばし、ひんやりとした手のひらを俺の額にくっつける。 「熱はなさそうだけど」 「え、あの。あのさ。俺……俺の胃がん、どうなったの?」 「どうなったのって……いやほんと、見つかった時は肝が冷えたけど、早めにわかってよかったよ。健康診断万歳だよな」 「健康、診断……?」 「忘れたのか? 去年健康診断で見つかって、すぐ治療できただろ。転移はなかったけど、ひとまずは経過観察で済んでさ」 「あ……」  おぼろげだった記憶が大波のように押し寄せて、一気に脳裡に蘇る。  検診結果を受けて多少混乱はしたけれど、侑李に言われるがまますぐに治療を開始した。 「発見が早かったので、ごく小さいうちに対処できましたね」と医師に言われて、侑李とともに胸を撫で下ろした記憶だ。  だが同時に、忙しさにかまけて身体の不調を無視し続けていた結果、ステージⅣまで進行していた記憶も、ある。  そして、死にかけながら見た夢の記憶も……。  ——え、なんだ? どういうことなんだ?  ぐるぐると渦巻く記憶の潮流に翻弄され、頭が痛くなってきた。額を押させて項垂れていると、侑李がぎゅっと抱きしめてくれた。 「あの時の夢でも見てたのか? そりゃ不安だったよな、俺も怖かったし」 「いや……うん。そうだな」 「体調悪い? 今日はリモートにしてもらう?」 「あ……いや、どうしよっかな」  俺は教育系企業に勤めていて、今は教育アプリの開発を担当している。俺が企画した商品だ。  そして侑李はプログラマーだ。提携しているアプリ開発企業に在籍し、一緒に教育アプリの開発に携わっていて……。  ——そうか……俺たち、今一緒に仕事してるんだ。それに……。  俺の実家をリフォームして、一緒に暮らし始めたのが三年前。  俺たちは別れることなく順調に交際を続け、こうして一つ屋根の下で生活を共にしているのだ。 「了悟、飯は? 食べれそ?」 「あ、うん。食べる……って、ごめん。今週は俺の担当だったのに」 「いいよ、気にすんな」  そう言って、侑李は優しい笑顔を見せてくれた。  そしてそっと身を寄せて、ぴたりと俺の身体にくっついた。それはとても自然な仕草だった。  侑李の身体を抱きしめて、艶やかな黒髪に頬を寄せる。かぎ慣れたシャンプーの香りが妙に俺の心を落ち着かせ、渦巻く記憶のせいで混乱していた心も、ようやく落ち着きを取り戻していた。  ——ああ……そうか、あの日ちゃんと謝って、素直に気持ちを伝え合えたから別れずに済んだんだ。  あの日から、すべてが変わった。  侑李は感情を言葉にするようになり、俺もありあまる好意を隠すことがなくなった。  すると侑李は驚くほど素直に俺に甘えてくれるようになり、二人の関係は落ち着いた。俺は侑李の浮気を疑うことがなくなり、侑李は煙草をすっぱりやめた。 「カッコつけたかったし、口寂しいから吸ってただけ」という侑李に、「じゃあ口寂しくなったらキスしよう」と俺は提案した。  てっきり鼻で笑われると思ったが、侑李は楽しそうに「それすげーいいじゃん」といって笑ってくれた。  俺たちは時折、大学でもこっそりキスをした。……キスだけじゃおさまらなくて、ひと気のないトイレで声を殺してセックスをしたこともある。  関係が落ち着いてくると学業のほうにも集中できるようになった。お互い就活もうまくいき、望んだ職業に就くことが出来たのだった。  そして今、こうして穏やかな暮らしを送っている——……。  信じられないような奇跡が、俺の身に起きたのだ。  侑李を抱きしめたまま天を仰いで目を閉じ、俺は込み上げてくる安堵と多幸感を噛み締めた。 「侑李」 「……ん?」 「愛してる。これからもずっと、一緒にいような」  万感の想いを込めてそう囁くと、侑李は今もくりっとした目を瞠って俺を見つめた。  そしてすぐに柔らかく破顔して、白い歯をのぞかせて綺麗に笑う。 「なに、朝飯つくったくらいでそんなに喜んでもらえんの?」 「ふふっ……うん、そうだよ。侑李の作る目玉焼き、めちゃくちゃ美味いし」 「えぇ? あははっ、いやいや、目玉焼きなんて誰が作っても一緒じゃん!」 「そんなことないって、侑李のがいちばん美味い」 「なーにいってんだか。ほら起きろって。はやく食べよ」 「うん」  侑李に手を引かれてベッドから立ち上がると、うまそうな匂いが俺の鼻腔をくすぐり、腹の虫が元気に鳴く。  芳しいコーヒーの香りとパンの焼ける幸せな匂いを、俺は胸いっぱいに吸い込んだ。  リビングの大きな窓から見上げた夏空に、綿菓子のような入道雲がふわふわと浮かんでいる。  了

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