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第3話

 「これは……海か?」  「想像だけどね」  「ラビが描いたのか?」  ウォルフはグレーの瞳を大きく開きながら垂れ下がった右腕を見た。そんな腕でどうやってと顔に書いてある。  「これでも昔は画家だったんだ。いまはこの通り右腕が使えないから描いてないけど」  救急箱をウォルフの隣に置く。なかには消毒液や包帯、薬草で作った塗り薬がある。  「服脱げる?」  「あぁ」  シャツのボタンを外すウォルフの手は無数の古い傷だらけでそのほとんどが白い線のようになっていた。  「脱いだぞ」  上半身を露わにさせたウォルフは恥ずかしそうに顔を伏せる。鍛え抜かれた胸筋と六つに割れた腹筋。そして腕も丸太のように太い。  だがその身体にも数え切れないくらいの切り傷があり、赤い鮮血が固まり始めていた。  小型のナイフで攻撃されたのが見てわかる。ウォルフは本当に反撃しなかったのだろう。そしたらここまで傷の数にはならない。  「どれも浅いね。消毒して薬を塗れば大丈夫だろう。ただここは折れてるかも」  ウォルフの左手首が青紫色に腫れていた。幸い骨は飛び出ていないが、かなり痛そうだ。  「どうりで痛いと思った」  「我慢してたの?」  「痛みには強い方だから打ち身でもこんなものかと」  ウォルフは無表情のまま左手首を見つめた。  そして握りこぶしを作ろうとすると痛みが走ったらしく表情が険しくなる。  「下手に動かさない方がいい。添え木がいるな」  部屋をあちこちと探し回り、大きな古い刷毛を持 って戻ってきた。  「とりあえずこれで固定しておこう。押さえといてくれる?」  刷毛を手首に当て、右手で押さえててもらい、手と口を使って包帯をぐるぐると巻いてやる。  「手際がいいな」  「片手使えないからって莫迦にしてる? 言っとくけどおまえも一緒だから」  「確かに」  ウォルフは目を細めて笑みを作った。その柔らかい表情はいままで抱いていた肉食動物への恐怖が溶け出していくような温かさがある。  でもそうやって油断させて襲いかかるかもしれない。気を張り直し警戒心を高める。  さらに見分すると身体にも古い傷跡があった。  そのほとんどが白い線になっているが、大きさは 大小さまざまだ。でもそれが全部刃物で切られたと一目でわかる。  (一体何者だ?)  普通に生活していてこれだけの傷を受けることはまずない。それにウォルフは犬とはいえ肉食よりだ。草食動物と違って狙われるようなこともないだろう。  上質な服装や律儀さ。そして複数の刃物の傷跡を合わせてみてウォルフがただの平民ではないのは明白だ。  (厄介な奴を拾っちまったよ)  内心で毒づきながらもすべての傷に薬を塗った。  「ありがとう。助かった」  「別にいいよ」  「感謝する」  ウォルフは深く腰を曲げた。まるで社交ダンスを申し込む王子様のように気高い様式美に見惚れてしまう。  カーテンの隙間から月明かりが差し込み、宙を浮いた埃に反射する。きらきらとウォルフの周りを舞う埃はまるで彼を崇める信者のようにさらに神々しい人物に押し上げた。  青みがかったグレーの瞳を縁取る長い睫毛の揺れがわかるほどの距離にいても鼻がひくつかない。こんなに近くで肉食動物を見たのは久しぶりだ。

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