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第63話 9章 母との別れ

「尚さん、ちょっといい?」  尚希が客室へ尚久を呼んだ。二人で話したいことがあるのだ。 「なんだ?」 「僕……やっぱりマンションへ帰ろうと思って」 「なんでだよ?」 「なんでって……悪いっていうか……」 「だから、遠慮はいらないって。あお君だって母さんもそう言ってたろ。あの二人、遠慮される方が嫌うぞ。甘えて欲しいって思ってるから」  それは、尚希も感じた。感じたけど、やっぱり遠慮はある。そして、もう一つ、尚希には懸念があった。 「うん、それは分かるけど……そして、えっと」  相変わらず遠慮深い。それが尚希と言えるが、尚久は次の言葉を促すように、尚希を見つめる。 「えっと……ここ、彰久先生の思い出が詰まっているんだよね。だから僕が使っていいのかなと……」 「ああ、この間の話気にしていたのか。まあ、確かに兄さんにとってここは、あお君に抱かれて眠った思い出の部屋ではあるけどね。でも、あの時母さんも言ったけど、今そうしようと思っても無理だろ。体の大きさが違うんだから」 「えっ! あお君に抱かれて!? あっ、彰久先生が抱かれていたの!?」 「お前、何びっくりしてんだ。何か勘違いしてるぞ。その頃兄さん、三つ、四つの子供だぞ」  あーっ、そうか、確かに勘違いしてた。そうか、だから今は無理って話だったのか――尚希は自分の勘違いが、盛大に恥ずかしい。穴があったら入りたいけど、生憎ここにはそんなものは無い。 「あお君がこの部屋に泊まってたのは、あお君が高校生の頃なんだ。その頃私は、三歳にもならない頃だから、全く覚えてない。私の記憶にあるのは、あお君が離れに来てからなんだ」 「離れに?」 「今の離れは、兄さんたちが結婚するときに建て替えたんだ。以前はもっと小さくて、あお君が大学生の時、そこに一人で住んでいたんだ」 「蒼先生は、学生の時から住んでたんだ」 「ああ、書生って言ってね、私たち兄弟の面倒見ながら、大学に通っていた。私や結惟はおしめも替えてもらったからな、全く頭が上がらないんだよ。本当に世話になったんだ」  そうか、なるほど。だからなんだ。尚希は、蒼に対して抱いていた印象に、納得した。彰久は特別としても、尚久や結惟も、蒼を慕っているのはよく分かる。兄の配偶者と言うよりも、実の兄のように慕っていると感じるのだ。  以前、蒼は教育係のような人だったとは聞いた覚えがある。けれど、それだけじゃなかったんだ。それ以上に世話になっていた。だから、実の兄のように慕うんだと分かった。  同時に、蒼の存在の大きさを思い知る。自分が尚久と結婚したら、北畠家での立場では、蒼と同じになるのか――つまり、嫁として。 「あ、あの……僕、蒼先生と同じ嫁って、絶対に無理」  尚希の突然の言葉に、尚久は驚く。何を急に言い出すのか。 「お前なあ、あお君と比べるな。あの人とは全然立場が違う。どちらかというとあお君が特別なんだよ。あの人ような人を私の嫁になんて、誰も望んでいない。それは不可能だから。お前はお前でいい。皆そう思っているよ」 「そ、そうなの」 「ああ、むしろお前のその弟キャラが、可愛いと思われている」  可愛い! 僕が! 信じられない。そして、僕って弟キャラなのか? 尚希は疑問に顔を傾ける。 「とにかく、お前は遠慮する必要などない。当分、ここにいなさい。勿論、マンションをどうするかは考えないといけないが、それは追々で大丈夫だ」 「本当にいいの?」 「ああ、私もその方が安心できる」  それは尚久の本心。尚希を一人であのマンションに置いてはおけない。かと言って、このまま自分があそこへ住むわけにもいかに。現状、尚希がここにいるのがベストなのだ。  漸く尚希は納得した。すると、きちんと挨拶せねばと思う。母からも、挨拶はきちんと、相手に判るようにしなさいと言われた。亡き母の大切な教え。 「じゃあ、そうします。今から皆さんに挨拶したいから、尚さんも一緒にきて」  尚久は堅苦しいかなと思ったが、否、けじめも必要だと思い直し、尚希が挨拶するのを見守った。勿論、みな快く受け入れてくれる。むしろ、そんな堅苦しい挨拶などいらないと言いながら。  この日から尚希は、北畠家の客室を主な生活の場とするようになる。マンションへは、時折、必要なものを取りにいく程度になる。その折に、簡単に掃除をして、空気の入れ替えをした。  母と暮らしたマンション。寂しい思い出も多いのは正直なところ。しかし、思い出すのは、最近のことが多い。笑っていた母の顔。もう少し、笑っていて欲しかった。否、もっと沢山笑っていて欲しかった。  マンションに一人でいるのは悲しい。ここに一人で住むのは無理だと思う。北畠家で暮らせて良かった。母を亡くして、生きていられるのは、北畠家で生活しているから。それは確かなこと。  尚希は、尚久に、北畠家の人々に感謝した。  尚希に自覚はないが、感謝出来るのは、悲しみを一つ乗り越えた証ではあった。

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