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03 流水
まだ誰も来ていなかった。翡翠は驚いた。翡翠の想定ではもう同期になる予定の人物が揃っているはずだったのだから。普段なら時間があるならすぐにスマホをいじってしまう翡翠だったが、流石に初出勤でスマホいじりなんて目撃されたらそれこそ印象が悪い。そしてなにより自分が居たたまれない。しかし、手持ち無沙汰なのは何も変わらなく、ただ提出予定の書類の記入事項を読むことでしか翡翠は時間の潰し方がわからなかった。
* * * *
「新入社員の方は私について着てください」
翡翠が案内されて十数分が経った頃。ぞろぞろと同期になる予定の人たちが翡翠のいる待合室に入ってきた。中には半獣と呼ばれる種族の人もいて、目を向けざるをえなかった。待合室のなかでは軽く雑談などが繰り広げられたが、翡翠たちを呼びに来た正社員の女性が口を開いた瞬間、静かになった。
「今日から君たちが配属されるのはここ、商品企画部です。僕は部長のアシハラです。分からないことがあったら気軽に聞いてください!」
翡翠たちは社員に先導されるがまま、オフィスに案内された。すると、やけに着飾った内装のオフィスとにこやかな社員たち。隅のほうで小声で話をする女性社員などいろいろな風景が広がっていた。視線を泳がせていると、先程エレベーターで一緒になり、自分を部屋に案内してくれた人がいた。半獣、ということもあってか見つけやすかった。翡翠がなんとなく室内を観察していると、いつのまにか自己紹介をする流れになっていた。
「じゃあ次、深山くん」
部長のアシハラが思ったよりも円滑に視界を進めてしまったせいで、もう翡翠の番になっていた。まだ緊張の糸がほどけていないというのに、などと心の中で悪態をつく。刻一刻と過ぎ去る時間を無駄にしないよう翡翠は軽く息を吸った。
「本日からお世話になります。深山翡翠です。若桜 大学出身です。趣味は料理を作ることです。最近はお菓子作りにも興味をもって近々やってみたいな、と思ってます!この部署に配属されてよかったなって思えるような時間を皆さんと一緒に過ごしていきたいです。よろしくお願いします」
一礼。
大学や家で散々練習してきた甲斐あってか、翡翠の礼は誰よりも綺麗だった。隣にいる初対面の同期でさえ、目を丸くして翡翠を見ていた。その中で部長のアシハラだけはにこにこと笑顔で「では、次の人お願いします」と視界を進めていた。
翡翠は自分の番が終わってほっと一息ついた。まさか自分でも驚くほどにスラスラと言語が口から出てきてプチパニックを起こしてしまった。翡翠自身、過去のトラウマを払拭できたような気がして、少し嬉しくなりながら他の人の自己紹介を聞いていた。すると、翡翠の目の端の方で先程の半獣の人がうっすらと表情を和らげた。
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