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第1話 プロローグ
キスしたかっただけなのに。
中園龍平 は地下鉄に乗るなりネクタイを緩めた。
九月になったが街は相変わらず猛暑である。
スーツを着込んだ上に斜め掛けしたビジネスバッグのショルダーベルトが身体を締め付けている。冷房の空気を襟元から入れなければやっていられない。
けれど改札を出て地上に到る長いエスカレーターに辿り着いた途端にネクタイを締め直した。
小走りにエスカレーターの段を駆け上がると、背の高い男の前に割り込んだ。
くるりと後ろを振り向けば、長身の男はむっとした表情である。
だが龍平の顔を認めた途端に、切れ長の目を糸のように細めた。
「来たのか。龍平」
低い声である。龍平はこの声で名前を呼ばれるのが何より好きである。
男より頭一つ分身長が低かった龍平だが、エスカレーターの段が上がるにつれて目線が等しくなる。
「直帰にして来た。だって今日しか会えないし」
龍平は周囲から浮かないサラリーマンファッションである。締め直したばかりのネクタイだけが鮮やかな赤で自己主張している。
一方、男はジャケットもデニムもスニーカーまで黒で統一している。あまり高価な服には見えない。せいぜいがユニクロ無印GUのどれかだろう。
そんな黒服男の耳元に顔を寄せて、
「キスしたい」
と言ってみる。
男は目を伏せて背後を振り返る。昼下がりのビジネス街の地下鉄エスカレーターである。サラリーマンやOLが続いて乗っている。
「ねえねえねえ。音丸 さん」
小声でせがむ龍平の腕を黒服の柏家音丸 が掴んだ。エスカレーターが終わっていた。後ろ向きのまま踏鞴 を踏んだ龍平の腕を取って音丸もエスカレーターを降りた。そしてすぐ腕を放して、やや間を置いて歩いて行く。
何やらキスする場所に先導するかのように。
芦田香乃子 は〝猫の階段〟で弁当を使うことにした。
学校から歩いて二十分程の場所にあるその階段は別に猫のためのものではない。人間用の階段だが、猫の額ほどの狭さなので勝手にそう名付けた。
建物を挟んで上下に並ぶ二本の坂道を繋ぐ路地だった。下の坂道から奥に入るにつれクランク状に曲がり細くなって行く。
そして上の坂道に上がるための階段に辿り着く。階段の幅ときたら、やせっぽちの香乃子が学生鞄を下に敷いて座るとちょうどお尻がはまる程度である。少しでも太ったら抜けなくなるかも知れない。
制服はまだ夏服だが襟元のリボンタイもベストも暑苦しい。ベストを脱いでブラウスだけで校外を歩くのは禁じられている。
薄いブラウスからブラジャーの線が透けて見えるのがはしたない【形容詞・慎みがなく礼儀に外れて品格がなく見苦しくみっともない・そこまで言うか?】そうである。
ならば制服のブラウスは透けない素材で作ればいいものを。ともあれ、涼をとるのにリボンタイを緩めるに留める。
学生鞄の上に腰を落ち着けると、コンビニで買って来たレモン炭酸水を頬に当ててみる。ペットボトルの冷たさが心地よい。
そして自作の弁当を広げた。ちくわの磯辺揚げを入れたのだ。冷凍食品だけど、ちょっと好きなおかずである(先生が好きだと言っていた)。
気がつくと下の坂道の方から男達の声が近づいて来る。これまでに、ここに人間が入って来たことはないのに。
猫なら何度かやって来たが。さすが〝猫の階段〟である。
何やら下卑た笑い声も聞こえる。細い路地の奥まで二人の男が入って来た。
階段にはまるようにして座っている香乃子を見つけるなり、ためつすがめつするのだった。
「おおっ。お弁当食べてんだ?」
「めっちゃお嬢様だよ。セントテレジア女学館の制服だもんね」
ロックTシャツに革のベストを着た金髪と赤毛の二人組である。ピアス、リング、ブレスレットと身体中にじゃらじゃら装飾品を付けている。
新宿や渋谷ならいくらでも見かける風体の輩だが、治安のいいこの街には珍しい。
二人は香乃子の前に立ちはだかって、
「俺らその階段を上がりたいんだけどなあ」
と弁当を覗き込んだり、肩を触ったりする。
香乃子は両側に迫った壁に挟まっているから、二人が下がってくれないと立ち上がれないのだ。
それを知っていながら男達は、香乃子に迫って身体に触ろうとする。
「ちょっ……何ですか!? やめてくださいっ!」
思わず大声で喚いてしまうが、逆に男達は嬉し気に「何ですか?」「やめてください?」と、げらげら笑ってリピートしている。
金髪男が指先で弁当箱の中のおかずを摘もうとするのを必死で避ける。
そこに、違う男の声がした。
「何してるんですか?」
発音からして目の前の男達とは違う。明らかに紳士の発声である。
「あなた、大丈夫ですか?」
という誠実そうな声は、赤いネクタイをきっちり締めたサラリーマンだった。二人の男の間から香乃子を覗いている。
それより低い声が、
「放っとけよ」
とサラリーマンを引き止めている。
「何だよオッサン。関係ねーだろ」
と金髪がサラリーマンを振り向いて睨みつける。香乃子の弁当箱から、とうとうちくわの磯辺揚げを巻き上げて口に咥えている。
「嫌がってるでしょう。高校生に何してるんですか」
「引っ込んでろよ。オッサン」
赤毛がいきなりサラリーマンを殴りつけた。
サラリーマンはあっけなく殴られて鼻血を吹きながら倒れかけた。颯爽とした登場とは裏腹の残念さである。
それを受け止めたのは、背後に影のように立っていた黒づくめの服の男だった。
黒服の男は妙に冷静にジャケットのポケットから手拭いを出すと(手拭い?)鼻から鮮血を流しているサラリーマンの顔にあてがった。
そして足で赤毛の鳩尾 を蹴り上げた。片手の腕でサラリーマンを抱いたままである。
香乃子は慌てて弁当箱を持って立ち上がった。驚いたことに蹴られた赤毛は香乃子の真正面に居たにも関わらず、その身体に一切触れることなく倒れた。そうなるように計算して蹴ったとしか思えない。
「てめえ!」
金髪が黒服男に殴りかかった途端に、今度は顎に脚がヒットした。長い脚が高く蹴り上げられている。
咥えたままのちくわの磯辺揚げが噛み千切られて宙に飛ぶ。
金髪が倒れ伏した後に、ちくわが弾んで地に落ちた。
黒服男は二人のチンピラに蹴りを入れる間も片手に抱いたサラリーマンを放すことはなかった。まるで掌中の珠である。
「ちょっ……足で蹴るか?」
鼻血を手拭いで覆ったサラリーマンが非難がましく言う。
無表情だった黒服男が一瞬ひどく傷ついた顔をする。
「手は怪我出来ない。足なら折れても何とかなる」
と言い訳のように言う。低く響く声である。
「何その究極の選択?」
サラリーマンが男の腕を離れて、倒れたチンピラ達の様子を見ようとした時、
「先に行く」
黒服男は踵を返した。背負った大きなザックまで黒い色だった。
クランク状の細い路地の奥に走って行く。その先には錆びついた古いドアがあり、廃業したガソリンスタンドに抜けられるのだ。香乃子よりこの路地に詳しいらしい。
黒服男が消えると同時に、二人組の警察官が現れた。
「どうしましたか?」
尋ねられて香乃子は、二人組のチンピラに因縁をつけられらているところを、この紳士が助けてくれたと説明した。
「あなたが、この二人を?」
と警官が怪訝そうにまだ手拭いで鼻血を押さえているサラリーマンを見る。チンピラ二人はまだ立ち上がれないでいる。
「はい。僕がやりました。僕一人で。そうですよね!」
と香乃子を振り向き、一人を強調する。
香乃子はそれに促されるように力強く頷いていた。黒服の男については口にしなかった。
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