2 / 30
第2話 猫の階段にて
1 猫の階段にて
キスしたかっただけなのに。
セントテレジア女学館は中学高校一貫教育の女子校である。校内にいる男性といえば教師か用務員ぐらいである。大半が年老いた〝おっさん〟もしくは〝爺さん〟である。
そこに若い男性教師が現れれば当然のように女生徒たちの人気の的になる。対外的に見てその男性がイケメンなのかそうでもないのか。女子校育ちの生徒達の判断基準はかなり甘いのかも知れない。
いやいや、そんなはずはない。
少なくとも安土音也 は違う。
幼い頃から着付の先生である母親に練習台として振袖を着せられたと言っていた。見せてもらった写真はまるで女の子のように愛らしかった。
今も整った容貌は女性顔といってもいい。柔らかなウェーブの髪で柔和な雰囲気のピアニストである。
高校での芸術の選択科目は、美術と音楽そして書道だった。香乃子は一年生の時から音楽を選択していたが、昨年の今頃担当の女教師が産休に入ったのだ。代理でやって来た安土音也は、まだ二十代の現役ピアニストとのことだった。
たまたま週番だった香乃子が音楽教務室にいた安土音也を授業に迎えに行ったのは、赴任後間もなくのことである。
「芦田さん? 安土と同じ、あ行の名前だね」
などと名札を見るなり言われて、くすくす笑ってしまう。
出席番号順に指名される時、あ行だと一番先だからまともに答えられないという〝あるある話〟に、
「でも芦田の方が先です。安土先生は私の後に答えられるんだから得ですよね」
などと言い返すのも嬉しい。
「すぐ音楽室に行くから。これをみんなに配ってて」
と安土音也が出演するコンサートのチラシを預かって、
「これっ。安土先生のコンサート! 行ってね!」
音楽室に飛び込むなり声高らかに宣言して、一人ずつチラシを配ったものだった。
以来、何かといえば音楽教務室や音楽室に安土音也の姿を探しては親睦を深めたものだった。
コンサートは夏休み中の開催だったが、
「大丈夫です。先生のコンサートには、みんなで行きます!」
一学期が終わる頃にはそう請け合った。
約束どおり夏休み真っ最中の八月しかも猛暑のマチネに、クラスや部活のグループLINEを駆使して何人もの生徒を集めて鑑賞に出かけたのだった。
それらの積極的な行動のせいか、二学期に入ってから安土教諭はかなり親しく香乃子に接してくれるようになった。
そして見せてもらったのが振り袖姿の女の子のような写真だった。この写真を見たのは自分だけに違いないと少しばかり得意だった。
「別に僕はこっちじゃないよ」
教師は手の甲を反対側の頬に添えて言ったものだった。
少しばかり不快さが過ったがスルーした。
こういう直感は気にすべきだと知るのはもっと後になってからである。
香乃子は笑って言っていた。
「先生ってば、それコンプライアンス違反」
「そりゃそうだ。芦田さんは真面目だね」
おどけて教師に軽く肩を叩かれた。
こっちはスルーできない。初めて身体に触れられたのだ。香乃子はどきどきしてて照れ笑いをするのだった。
この頃から少しずつ身体に触れられることが多くなっていた。
「しかし芦田さん、焼けたな」
などと香乃子の鼻の頭をつついたりもする。
陸上部に所属しているから夏合宿やら朝練やらで真っ黒に日焼けして、既に一皮剥けていた。部活の仲間にもらった日焼け止めはあるのだが、うっかり塗り忘れることも多かった。
「ホントは陸上なんて好きじゃないけど。エースの娘が転校しちやったから。部員が足りないからって、全然辞めさせてくれない」
などと愚痴ったりする。
「得意なことがあるのはいいことだよ」
言いながら日焼けした頬を撫でられたりする。くすぐったい嬉しさである。
そして、つい数日前の放課後とうとうキスをされたのだ。
音楽室のグランドピアノによりかかって話している時だった。肩に軽く手をかけられて、そっと唇を寄せられた。ふんわりと口と口が触れる。
ファーストキスだった。
会話の途中だったから、香乃子はただぽかんとして男性教諭の瞳を見つめるばかりだった。
瞳の中には淡い色の虹彩がある。それと呼応するような優しい色のウェーブの髪。魔法をかけられたかのように身動きも出来ずにいると、
「ごめんね。芦田さんがあんまり可愛いからつい……」
と微笑んで青年教師はもう一度、今度は確信的に香乃子の唇を吸う。
ただ触れるだけではない。本物のキス!
「うわあぁぁぁーーーーっ!!!」
誰も居なければ、そう叫んでいたはずである(誰も居なければキスする人もいないのだが)。
「嫌だった?」
訊かれて首をふるふる横に振った。
もっと大人っぽい返しは出来なかったのかと後になって後悔したが。いやそれよりもこんな真っ黒な顔で初めてのキスをしたくはなかった。
ともあれ部屋を出る時には足が地に着いていなかった。歩きながらにやにやと頬が緩んで仕方がない。
その翌日には音楽の授業があった。あのグランドピアノのある音楽室で、安土音也の演奏で〝夏の思い出〟を合唱する授業である。
安土教諭の繊細な指が鍵盤を叩くたびに、額にカールした髪が優しく揺れる。
香乃子はどぎまぎしてまともに見られない。と思うわりには青年教師の顔を見つめているのだった。
「芦田さん、今のフレーズもう一度」
などと指名されて、真っ赤になって「遥かな尾瀬」などと高音を出すのだった。
以前は平気で職員室や音楽教務室に安土教諭を探しに行けたのに、恥ずかしくて足が向かなくなっていた。
それでも今日ようやく勇気を振り絞って、昼休みになるなり弁当を持って音楽教務室に行ったのだ。
安土音也が好きだと言っていたちくわの磯部揚げを入れた弁当である。
食べて欲しいと思っていたが、断られても自分で食べる心構えは出来ていた。
部屋の扉をノックしようとして手が止まった。
室内から変な声が漏れ聞こえて来る。
腰高に細い縦長のガラス窓が付いた扉である。素通しのガラスから、室内に安土教諭と女生徒が抱き合っているのが見えた。
安土音也の奥にいる女生徒は、机に腰かけているのだろうか。何やら変に動きながら漆黒の長い髪を振り乱している。
黒髪との対比も見事な白い肌は頬ばかりが鮮やかに紅潮している。
既にベストは着ていない。ブラウスまで半端に剥かれて男の手が柔らかい身体をまさぐっているのがはっきりわかる。
だからベストは着用すべきとの校則かと、この際的外れなことを考える香乃子である。
細い窓からは上半身しか窺えない。抱き合った二人は奇妙なダンスを踊っているかのように同じリズムで動いては喘ぎ声を洩らしている。
安土教諭のウェーブした髪も悦びを体現するかのようにふわふわ揺れている。
男女二人が何をしているのかわからない程には幼くない香乃子である。
だってこの間、私とキスしたばかりなのに……
二人はキスを繰り返している。何ならそれは舌を舐め合うような濃厚なキスである。
香乃子の唇にちょんと触れるようなキス、ちゅっと軽く吸うキス……あれは単なる子供扱いだったのか……。
ちくわの磯部揚げを入れた弁当箱を抱えて教室に戻った香乃子は、生理痛で早退すると級友に告げてすごすごと学校を出た。
そして〝猫の階段〟で弁当を広げたのだった。
ともだちにシェアしよう!